「内戦停止、一致抗戦」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:05 UTC 版)
1935年12月、中華民国では自治政権反対の一二・九運動を契機に「内戦停止、一致抗戦」の機運が拡大した。長征の途上にあった共産軍は、八・一宣言を出して「抗日救国」、「反蔣抗日」の統一戦線を呼び掛け、陝西省延安に根拠地建設を開始し、1936年(昭和11年)2月から3月、「抗日実践」を示すため、彭徳懐と林彪が指揮する共産軍2万が山西省に侵入した。共産軍は閻錫山の軍と蔣介石の増援により敗退し、周恩来と会談した張学良の説得により「反蔣抗日」から「逼蔣抗日」への転換を受け入れ、五・五通電を発し「停戰議和一致抗日」を訴えた。一方、4月18日、共産軍の侵攻を契機に広田弘毅内閣は支那駐屯軍を増強した。
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