「七生滅賊」の罪業と「七生報国」
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「楠木正成」の記事における「「七生滅賊」の罪業と「七生報国」」の解説
軍記物語『太平記』流布本巻16「正成兄弟討死の事」によれば、湊川の戦いでの自害の直前、正成は弟の正季に、次はどのように生まれ変わりたいか、と尋ねた。正季はからからと打ち笑って、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存じ候へ」(「(極楽などに行くよりも)7度人間に生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい」)と述べた。正成は嬉しそうな表情をして、「罪業深き悪念なれども我もかやうに思ふなり」(「なんとも罪業の深い邪悪な思いだが、私もそう思う」)と同意し、「いざゝらば同じく生を替へて、此本懐を達せん」(「さらばだ。私も同じく生まれ変わり、滅賊の本懐を達そう」)と兄弟で差し違えた、と物語られる。 こうして七生滅賊という仏教的に罪深い思想に囚われた正成は、流布本巻23「大森彦七が事」で怨霊として再登場して室町幕府を呪い、最後は仏僧が読経する『大般若経』の功徳によって調伏されることになる。 しかし、歴史的人物としての正成は、 『法華経』の写経(『今田文書』(湊川神社宝物))や、その裏書からわかるように、仏教への帰依が篤く、また深い知識を持つ人物だった。したがって、『太平記』に描かれる「七生滅賊」の物語は、本来の正成の人となりとは反している[要出典]。 上横手雅敬「楠木正成(二)――天下、君を背きたてまつる」(『太平記の世界』(日本放送出版協会、1987年)や、中村格「天皇制教育と正成像――『幼学網要』を中心に」(『日本文学』39巻1号、1990年)および今井正之助 などの研究では、本来、『太平記』の「七生滅賊」(あるいは「七生滅敵」)は中世的な怨念観を表現するための呪いの言葉であり、後段の大森彦七伝説と組で考えるべき物語であったとされ、数百年後、近代に入り、国家への忠誠心を示す「七生報国」という言葉に置き換わったとみられている。しかしながら、大正時代に至っても同5年(1916年)に、大正天皇は『楠木正成』と題した七言絶句の御製にて「七生報国」ではなく「死に臨んで七生滅賊を期す 誠忠大節斯の人に属す」と表現し、その徳を讃えている。 「七生報国」の語の用例は、遅くとも『萬朝報』明治37年(1904年)4月3日に、海軍軍人の広瀬武夫の辞世の句として「七生報国 一死心堅 再期成功 含笑上船」という漢詩が載せられたことまで遡ることができる。
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