「七・七盧溝橋事件記念のつどい」に関する事件
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「西村修平」の記事における「「七・七盧溝橋事件記念のつどい」に関する事件」の解説
平成13年(2001年)7月7日、「従軍慰安婦」問題に関し昭和天皇有罪論を主張する「日中友好神奈川県婦人連絡会」主催による「七・七盧溝橋事件記念のつどい」が開かれ、「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」を主催する松井やよりによる講演・討論会も行われることとなっており、主催者側によって「多くの方々の討論会参加を歓迎します、どなたでもご自由に発言をして下さい」と呼びかけられていたので、西村は川久保勲など十数人とともに討論会に参加した。 その際、上映されたビデオの最後に「天皇ヒロヒト有罪!」と映し出され、拍手が湧きあがったので、川久保が思わず飲みかけのお茶缶を関係者に向かって投げつけた(直後に謝罪)。この時、西村は席を外していたが、主催者から会場から退出するよう促されたので、主催者側に詫びを述べて退出し、その場にいた警察官に住所氏名を伝えて帰宅した。予定されていた松井の公演とフリー討論は「右翼団体による妨害活動を受けた」として中止された。8月6日、主催者側が被害届けを出し、西村は11月14日に威力業務妨害罪で逮捕された。 逮捕当時、妻は入院中であり、娘2人は中学・高校生であったため、西村は早期釈放してもらうために調書に署名したが長期拘束されることとなった。11月25日には拘置所に移された。平成14年(2002年)5月20日に初公判が開かれ、公判では「大声を出したが妨害するつもりはなかった」と供述し、共同謀議の容疑についてははっきりと否認した。また「自分達の行為は罪にはならないはずなのに、政治的圧力で左翼に犯罪としてでっち上げられた」と主張した。 西村は7月30日に保釈され、10月4日に横浜地方裁判所で懲役1年6ヶ月、執行猶予5年の有罪判決を受ける。その後、東京高等裁判所に控訴、最高裁判所に上告したがいずれも棄却され、有罪が確定した。なお、本事件では、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}勾留が136日[要検証 – ノート]と長期にわたり、第154回国会 法務委員会 第15号にて、西村眞悟衆議院議員(当時)により指摘された。 なお、西村はこの事件が原因で維新政党・新風から一方的に除籍処分を受けたため、新風を「反日極左と結託した国家権力に尻尾を振ったんじゃないか。権力に拉致(長期不当勾留)された仲間を見殺しにしてしまった」と非難している。 有罪確定後、25年間勤務していた会社を退職。國民新聞社の記者・編集委員(既に退社)を経て現在に至る。
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