「ウーンデッド・ニー占拠」
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「レオナルド・クロウドッグ」の記事における「「ウーンデッド・ニー占拠」」の解説
1973年2月、オグララ・スー族やAIMが「ウーンデッド・ニー占拠抗議」を決行。包囲軍は赤十字の腕章や白旗も無視して銃撃を加えてきた。レオナルドは占拠に加わり、メディスンマンとして儀式による霊的な支援を行ったほか、従兄弟から習った機械の修理、電気工事の技術を生かし、塹壕の設営、手製の爆弾の制作など、エンジニアの取りまとめも担当した。 包囲軍は赤十字の旗も無視して銃撃を加えてきた。レオナルドは銃で撃たれた負傷者を伝統的な「メディスン」で治療した。レオナルドはこう述懐している。 「治療にはポケットナイフと伝統的なハーブの傷薬、そして祈りを使った。ヤマアラシの針、杉の葉針で麻酔をかけ、ポケットナイフで弾丸を取り出し、鹿の腱で縫合した。……止血には速効性のホリネズミの砂を使う。……彼らは痛みを全く感じなかった。 私の治療は白人のそれより予後がいいと、白人の医者が感心してくれた。」 この占拠中に、レオナルドは93年ぶりにこの地で4日間にわたって「ゴースト・ダンス」の儀式を復活させた。「ゴーストダンス」は1890年1月に曽祖父のジェロームが行って以来のことで、「この儀式の中で、死んでいったゴースト・ダンサーの声を聞いた」と語っている。 3月11日、アメリカ連邦政府の役人が4人「郵便検査官」と名乗って占拠地に潜入した。レオナルドは武装解除された彼らを食事でもてなし、インディアンの歴史や占拠の意味について講義した。役人たちは脅えきっていて、失禁する騒ぎだった。後にこの一件が「公務執行妨害」として、レオナルドは連邦訴追されることになる。 4月5日、合衆国代理人ケント・フリッツェルとインディアンの間で、10の要求のうち6つが呑まれた合意書が報道陣の前で交わされた。レオナルドはこの場でこう述べた。 何百年か昔には、白人はインディアンと聖なるパイプを吹かしたものだ。今再びパイプを共に吹かす時が来た。パイプの儀式の前に、私は鷲の骨の笛を吹くだろう。大いなる神秘よ、我々には願いがある。幾日も我々はこの神聖なチャンクペ・オピ(ウーンデッド・ニー)にいた。グランド・ファーザー(合衆国大統領)よ、私は今あなたに私の赤い民(インディアン)の加護を願う。 即日、レオナルドはラッセル・ミーンズ、トム・バッドコブ酋長、レイモン・ルビドー弁護士、ジュディ・ブリッドウェルと代表団を組んでワシントンD.C.に向かった。しかしニクソン大統領は代表団と会おうとせず、話し合いは不調に終わった。占拠地への合衆国の攻撃は激化する一方で、フランク・クリアウォーター、バディ・ラモントの2人のインディアンが死亡。レオナルドは父ヘンリーと共に伝統的な儀式で両者の葬儀を行った。5月8日、占拠が解かれ、146人の男女と共に投降。手足を鎖で縛られ、逮捕された。連邦は「占拠参加者は逮捕しない」との協定を全く無視した。
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