ゴースト‐ダンス【ghost dance】
ゴースト・ダンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 19:20 UTC 版)
「ネイティブ・アメリカン」の記事における「ゴースト・ダンス」の解説
1889年1月1日に、日食があり、大地が闇に覆われた。連邦政府による強制移住政策で飢餓状態にあったインディアン達は「世界の終わりが来た」として恐れ戦いた。この全部族的な終末感の中で啓示を受けた、ネバダ州のパイユート族の預言者ウォボカが教祖となって始まった信仰が、「幽霊踊り教(ゴースト・ダンス教)」である。 「ゴースト・ダンス」の信奉者達は、ゴースト・シャツと呼ばれる聖なる衣服を身にまとう。このシャツを着て死者の霊の歌を歌いながら男女で手を繋ぎ、円を描いてぐるぐると回ることで、信者の衣服は白人の弾を跳ね返すようになり、さらには白人がやってくる前の、バッファローの群れなす大草原が還ってくるという教義は、保留地への強制移住によって飢餓状態に陥ったインディアン達により熱狂的に支持され、大平原、さらに北西部に瞬く間に広がっていった。 弾丸を通さなくなるというゴースト・シャツの教義を始めたのは、スー族の呪い師、キッキング・ベアだった。このため、連邦政府は、この教義でインディアンがより反抗的になるとして、ことにスー族に対し徹底的に弾圧を加え、ウーンデッド・ニーの虐殺が起こった。この大虐殺で、信者が全滅したことで、ゴーストダンスは急速に廃れていった。100年を経ても連邦政府が、銃弾を厭わなくなるこの教義をいかに恐れているかは、スー族の伝統派やAIMが1973年のパインリッジ居留地内のウンデッド・ニーの占拠の際や1975年に、ウンデッド・ニーでゴースト・ダンスを復活させた際、連邦捜査局(FBI)捜査官が繁みに隠れてこれを監視していたことからも推し量れる。 テキサス州のカド族保留地(カドハダチョ連邦)では、ゴースト・ダンスは弾圧の対象とならず、現在まで続く年中行事である。ただ、踊りの作法などが違っており、厳密に上記の儀式と同じものかは分からない。
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ゴースト・ダンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 01:02 UTC 版)
「シッティング・ブル」の記事における「ゴースト・ダンス」の解説
最大反抗勢力であったスー族を保留地に幽閉し、民族浄化に成功した合衆国は、経費を節減するため、領土と引き換えに条約で保証した食糧年金の支給を渋り始めた。すでにインディアンは「金のかかる依存者」扱いだった。条約を破り、インディアンから土地を奪って住みついた白人入植者たちは、「怠け者のインディアンを食わせるために俺たちに働けというのか」と政府に抗議を始めたのである。経費節減のため、合衆国は保留地に無償支給する牛肉の量を、半分に減らした。さらにこれは監督官の横領によってさらに減らされた。 1889年と1890年には、スー族の児童たちが栄養失調のためにはしか、インフルエンザ、百日咳等に罹って大量死した。さらに天候不順が保留地に凶作をもたらした。狩猟民族である平原インディアンには、農業が理解できなかった。このころ、ウォボカというインディアンが興した終末思想的新興宗教「ゴースト・ダンス」が絶望的状況にあった大平原のインディアンたちの間に爆発的に広まった。この教義に従い「幽霊踊り」を踊れば、「死んだインディアンの大戦士が蘇り、バッファローが平原に帰ってくる」というのである。 この頃、シッティング・ブルはかつて鷲から予言を受けた岩山に再び上った。岩山の頂上には野ヒバリが一羽いた。野ヒバリは、彼に「お前はスー族に殺されるだろう」と告げた。 スー族の「マト・ワナタケ」(蹴る熊、キッキング・ベア)は、保留地を抜け出して単身ウォボカに会い、その教義に感銘してスー族にこれを広めた。スー族は、「ゴースト・ダンス」に瞬く間に流行し、「ゴースト・ダンス」の秘術を受けた上着「ゴースト・ダンスのシャツ」を着れば、白人の銃弾を跳ね返せるという教義を付け加えた。タタンカ・イヨタケはこの教義を信じていなかった。彼も幽霊踊りを試してみたが、結局「死んだ人間は蘇らんよ」とキッキング・ベアに言っている。 「白人の銃弾を受け付けない上着を得ることが出来る」という彼らのこの教義に、ジェームズ・マクローリン保留地監督官は強い警戒感を抱いた。マクローリンはシッティング・ブルがこのゴースト・ダンスの首謀者だと妄想し、この妄言を政府に報告し、わざわざ彼の元へやってきて、スー族にこの踊りをやめさせるよう命令した。マクローリンは彼を「大指導者」だと思い込んでいるからこのような要求をしているのだが、タタンカ・イヨタケはワシチューのこの馬鹿な要求を面白がり、こう答えた。 「では、お前と一緒にこの踊りを伝えたインディアンの部族を回ってみよう。そして最後にこの踊りを最初に始めた部族のところへ行って、彼らが救世主を呼びだせず、死者も蘇らなかったなら、私は戻ってスー族にあれは全部嘘だと言ってやろう。もし本当に救世主を見たなら、お前はそのまま踊りを続けさせるべきだな。」 マクローリンはこの言葉をごまかしと受け取り、あくまでこの宗教の首謀者はシッティング・ブルだとの考えを曲げなかった。マクローリンは政府にこう報告した。 「スタンディングロック保留地に関する限り、この宗教ははなからシッティング・ブルに利用されたものだ。誰はスー族に対するかつての影響力を失ったから、部族に対する指導力を取り戻そうと、これを持ち込み、利用しようとした。そうすれば、彼は自分が目指すどんな非道な企てにも、安心して部族を導くことが出来るからだ。」 上述したとおり、スー族を始め、インディアン社会には「個人の指導者」というものは存在しない。すべては合議で決定するのであって、マクローリンのこの考えはインディアンの文化を全く理解していない発言であるが、問題は彼が保留地のインディアン部族の生殺与奪権を握る保留地監督官であることだった。 また、無能な臆病者としてスー族から「ラコタを怖がる若造」と蔑まれていたパインリッジ保留地の監督官ダニエル・F・ロイヤーは、むやみにインディアンを怖がり、ゴースト・ダンスの流行をスー族反乱の予兆と捉え、1890年の11月半ばに「雪の中でインディアンが踊り狂い、凶暴になっているから、今すぐ我々を保護して欲しい」と合衆国政府に電報を打った。 こうして、ロイヤーやマクローリンの報告に応え、合衆国政府から「どんな暴動も抑え込むよう警戒せよ」、との指令が各インディアン保留地のアメリカ軍に下った。砦に数千人単位で続々と集結するアメリカ兵の姿に、スー族は危機感を抱き、ワシチューによるいつもの虐殺を恐れ、大勢の部族員が管理事務所を中心に定められた距離内から離れ、パハサパの東にある岩山地帯のマコシカ(バッドランズ)へ逃げ込み始めた。アメリカ軍は保留地からの逃亡者を敵と見なし、これらの捕縛に出動した。シッティング・ブルはグランド川のそばに留まっていたが、ワシチュー達は、これらの動きもすべてシッティング・ブルの先導によるものだと決めつけていた。
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