拷問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 13:24 UTC 版)
日本における歴史
罪人に苦痛を与えて白状を強要させる拷問は、日本でも古代から存在していたと推測されるが、公式に制度化されたのは奈良時代、大宝律令が制定されてからである。
古代・中世
律令で定められた拷問は、罪の容疑が濃厚で自白しない罪人を、刑部省の役人の立ち会いのもと、杖(拷問に用いる場合は訊杖(じんじょう)といった。長さは3尺5寸=約1 m(メートル)で、先端が4分=約1.2 cm(センチメートル)、末端が3分=約0.9 cmと定められていた)で背中15回・尻部15回を打つもので、自白できない場合は次の拷問まで20日以上の間隔をおき、合計200回以下とする条件で行っていた。皇族や役人などの特権者、16歳未満70歳以上の人、出産間近の女性に対しては原則的には拷問は行われなかった。ただし、謀反などの国事に関する犯罪に加担していた場合は地位などに関係なく行われ、そのうえ合計回数の制限もなかったと考えられる。このため拷問中に絶命する罪人も少なくなかった。奈良時代の著名な政変の一つである橘奈良麻呂の乱で、謀反を企てた道祖王、黄文王、大伴古麻呂、小野東人らが杖で長時間打たれた末、絶命したのは有名だが、他にも承和の変や応天門の変、伊予親王の変などでも容疑者を杖で打ち続ける拷問が行われたとされている。やがて遣唐使中止や延喜の治の頃になると、杖で打つ拷問は廃れていったと考えられる。
近世
戦国時代から江戸時代後期までは駿河問い、水責め、木馬責め、塩責めなどの様々な拷問が行われたが、1742年の公事方御定書により拷問の制度化が行われ、
その中でも笞打・石抱・海老責は「牢問」、釣責は「(狭義の)拷問」というように区別して呼ばれ、釣責は重い罪状に限って適用された[4]。「牢問」は牢屋敷内の穿鑿所において痛めつける拷問で、まず後ろ手に縛って肩を打つ笞打が行われ、これで自白しない場合には裸で正座させて重い石を置いていく石抱きが行われる。これでも自白しない場合には縄で首と両足首を絞め寄せて体を海老のように曲げる海老責めが行われる。これら「牢問」3つを経ても自白しない場合は狭義の拷問たる釣責が行われる。これは牢屋敷内の拷問蔵において行われ、両手を後ろに縛り、体を宙に釣り上げる物である[3]。
笞打と石抱はかなり頻繁に行われていたが、海老責や釣責まで行くのは稀だったという[3]。釣責めまで行って自白を引き出すことはできなかった場合には幕府の威光に関わるためだったといわれ、その前の笞打と石抱の段階までで自白を引き出すことができるかが役人の手腕とされていたという[3][4]。
キリシタン弾圧の拷問
島原の乱の原因となった松倉勝家が領する島原藩におけるキリシタンに対して行われたとされる拷問は、蓑で巻いた信者に火を付けもがき苦しませた蓑踊りをはじめ、硫黄を混ぜた熱湯を信者に少量注ぐ、信者を水牢に入れて数日間放置、干満のある干潟の中に立てた十字架に被害者を
江戸時代の拷問批判
江戸時代の裁判は原則として自白裁判であり、特に死罪以上の重罪の場合、証拠や証人があっても本人が犯行を自供しない限り断罪できなかった。そのため、口を割らない者には拷問をかけて自白を強要することとなり、恐怖と苦痛で虚偽の自白をした者は多いと考えられる[5]。
幕末に処刑された刑死者の埋葬を受け入れてきた回向院の院主である川口厳孝は当時の冤罪について次のように述べている。
犯罪死に至るまで甚しからず、あるひは無辜冤罪にして刑戮にかかりし者亦決して少なからずとす彼の幕末の末年に牢死せしとて此原中に埋められし者等には実に聞くに忍びざる憐むべき者、甚だ多かりしなり[6]
冤罪の問題を憂慮し、本居宣長、新宮凉庭が拷問制度の不合理を主張している[7]。
また幕末においては、慶応2年(1866年)の津田真道『泰西国法論』や慶応4年5月4日の神田孝平「西洋諸国公事裁判の事」(中外新聞33号)において既に拷問が廃止された欧州の刑事裁判制度が紹介され、同4年の鈴木唯一訳『英政如何』でも1772年のイギリスにおける拷問制度の改革に言及されている。これらは一部の識者の共感を得たとみられるが、拷問制度改革には至らなかった[8]。
近代
明治初期にも拷問制度が残置され、1870年(明治3年)の新律綱領に杖による拷問が規定され、1873年(明治6年)の改定律例は断罪には自白が必要と定められた[4]。
これに対し、1871年(明治4年)に司法省お雇外国人ボアソナードが同省構内における拷問を目撃したことからその後大木喬任司法卿に拷問廃止の建白書を提出、さらに1874年(明治7年)に前述の津田真道が本格的な拷問廃止論を展開、両者ともに無実者を出す弊害を指摘し、またその廃止が不平等条約改正の必要条件と主張。津田の『拷問論』はその2ヵ月後に司法省布達による拷問の届出制を採用させる程度の影響に終わった一方、ボアソナードは当時司法への影響力が高かったことから重視され、最終的に拷問禁止に結びついている[9]。
1876年(明治9年)の太政官布告では断罪は証拠によることと定められた[4][3]。そして1879年(明治12年)の太政官布告によって日本史上初めて拷問制度は公式に廃止された[4][3]。さらに刑法によって警察官による拷問は職権乱用罪の一類型として処罰対象になった(刑法195条)[4]。
しかし警察署内の現場では、取り調べ警察官による拷問事件が断続的に発生した[4]。有名な拷問被害者として社会運動家の岩田義道、作家の小林多喜二がいる。第二次世界大戦中の1942年に起きた横浜事件では、雑誌編集者らに対し拷問を与え3名が獄死した。ちなみに、こちらの事件で拷問を行った警察官は有罪となった[注釈 3]。また、1944年に発生した首なし事件では、警察官が拷問で採炭業者の男性を死亡させたが、正木ひろしが告発を行い、戦後になって拷問を行った巡査部長に有罪判決が下っている。
現代
日本敗戦後のGHQ統治下でも、警察が拷問による自白を多数強要していたが、サンフランシスコ講和条約後の1952年(昭和27年)に、それまで行われた逮捕者をもう一度調べ、拷問による自白の者については再審判が行われた。
現在の日本においては、逮捕後の拷問による自白は、証拠採用されず、日本国憲法の第36条や第38条第2項においても、拷問の絶対禁止が明文化されており、拷問を行った公務員は逮捕される。警察官・検察官・刑務官が拷問を行った場合、特別公務員暴行陵虐罪が適用される。
しかし、それにも関わらず日本の警察は、現在もなお非公式の場で拷問を行っている疑いがあると、アムネスティ・インターナショナルなど「人権擁護団体」から指摘され、島田事件など冤罪事件の背景にも、静岡県警察による拷問同然の過酷な自白強要の取り調べがあると指摘されている(代用監獄や人質司法も参照のこと)。
21世紀の日本においても、志布志事件では、絵踏み(踏み絵は踏ませた絵のこと)ならぬ踏み字などの事実上の拷問による事件そのものの捏造が表面化し、事件の捜査に従事した鹿児島県警察の警察官が、特別公務員暴行陵虐罪で刑事裁判となり、執行猶予の付いた有罪が確定している。
その他にも、足利事件においては、自白の強要を目的に、被疑者を突き飛ばす、身体を蹴る、頭髪を引っぱる、体をつかみ揺さぶる、長時間の聴取など拷問まがいの暴力行為を、1日あたり十数時間、数日間にかけて取調室で行なった。
リクルート事件や障害者団体向け割引郵便制度悪用事件を始め、検察庁特別捜査部の事件では、被疑者を壁の前に長時間立たせて自白を迫ったり、「○○はもう自供した」などと言って、被疑者を精神的に追い込むなど、事実上の「拷問」が、現在も人質司法を用いた長期間拘留という、取締室の密室において、日常的になされていることが明らかになっている。
注釈
出典
- ^ “人権外交:拷問等禁止条約”. 外交政策. 外務省 (2015年7月1日). 2017年4月15日閲覧。
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2017年2月1日). “【トランプ大統領始動】“戦う修道士”マティス米国防長官 「礼儀正しく、プロであれ。だが、会う人は誰でも殺す計画を立てておけ」”. 産経ニュース. 2021年5月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『日本大百科全書』(小学館)「拷問」の項目
- ^ a b c d e f g h 『世界大百科事典』(平凡社)「拷問」の項目
- ^ 名和弓雄 『拷問刑罰史』 雄山閣、1987年
- ^ 徳川幕府刑事図譜・序
- ^ 手塚豊 1986, p. 15.
- ^ 手塚豊 1986, pp. 15–16.
- ^ 手塚豊 1986, pp. 17–21.
- ^ Lauterpacht, Elihu; Greenwood, C. J. (1980), International Law Reports, Cambridge UP, p. 198, 241, ISBN 978-0-521-46403-1
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