徳川光圀
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年譜
和暦 | 西暦 | 月日 (旧暦) |
年齢 | 内容 |
---|---|---|---|---|
寛永5年 | 1628年 | 6月10日 | 1(数え年) | 常陸国水戸藩主徳川頼房の三男として生まれる。 |
寛永9年 | 1632年 | 5月3日 | 5 | 従五位上左衛門督叙任。 |
寛永10年 | 1633年 | 1月 | 6 | 世子に決定。 |
9月5日 | 従四位下右近衛権少将に昇叙遷任。 | |||
寛永13年 | 1636年 | 7月6日 | 9 | 元服し、徳川家光の偏諱を受け光国と名乗る。 |
寛永17年 | 1640年 | 3月4日 | 13 | 従四位上右近衛権中将に昇叙転任。 |
7月11日 | 従三位に昇叙。右近衛権中将如元。 | |||
承応3年 | 1654年 | 27 | 前関白近衛信尋の次女・尋子(泰姫)と結婚。 | |
寛文元年 | 1661年 | 8月19日 | 34 | 水戸藩28万石の第2代藩主となる。 |
寛文2年 | 1662年 | 12月18日 | 35 | 参議補任。 |
延宝7年 | 1679年 | 52 | 諱を光国から光圀に改める[注 5]。 | |
元禄3年 | 1690年 | 10月14日 | 63 | 隠居。 |
10月15日 | 権中納言となる。 | |||
元禄13年 | 1700年[注 10] | 12月6日 | 73 | 西山荘にて没する。享年73(満71歳)。 |
天保3年 | 1832年 | 3月5日 | 没後 | 贈従二位権大納言 |
明治2年 | 1869年 | 12月25日 | 贈従一位 | |
明治33年 | 1900年 | 11月16日 | 贈正一位 | |
明治39年 | 1906年 | 水戸徳川家13代当主徳川圀順が『大日本史』を完成させる。 |
注釈
- ^ 「水戸黄門」とは、水戸藩主で中納言・権中納言に任命された「水戸中納言」の唐名(漢風名称)を意味する。一般に「水戸黄門」といえば光圀のことを指すが、中納言・権中納言に任命された水戸藩主は頼房、光圀、綱條、治保、斉脩、斉昭、慶篤が該当し、水戸黄門は7人いたということになる[1]。
- ^ 重則は、はじめ下野国佐野城城主・佐野宗綱に仕え、後に鳥居忠政の家臣となり、寛永7年(1630年)、山形で没した[3]
- ^ 義忠は山形藩の藩祖・最上義光の子で、最上騒動で改易される要因になるも、有能な人物として知られている。
- ^ 寛永17年(1640年)光圀数え13歳の逸話[5]。
- ^ a b 天和3年(1683年)に改名したとの説もある。「圀」字は武則天(則天武后)の命で定めた則天文字の一字であり、他の用例はほとんどない。
- ^ 光圀が楠木正成の墓を建立した場所は、明治5年(1872年)、明治天皇によって湊川神社が建立され、昭和30年(1955年)には光圀の銅像と頌徳碑が建てられている。
- ^ もともとは、平安時代後期から鎌倉時代にかけて水戸藩の領域に進出してきた佐竹氏(源氏)が地域の支配のために石清水八幡宮を勧請して地域の祭神を置き換え、更に室町時代に上杉氏(藤原氏)から佐竹義人が佐竹氏を相続して内紛が発生した際に鶴岡八幡宮を勧請して石清水系の神社を崇敬する反義人派に対抗しようとした事情があり、光圀の神仏分離では神仏習合色の強い八幡信仰が抑圧されると共に水戸藩領域を長く支配した佐竹氏支配の残滓を排除する目的もあったと指摘されている[9]。
- ^ 寛文2年(1662年)、幕府は林羅山の子林鵞峰に『本朝編年録』の編纂継続を命じ、2年後には編纂所として国史館が建てられ、書名も『本朝通鑑』となった。この寛文4年(1664年)11月、光圀は鵞峰を小石川邸に招いて国史について問答している(『国史館日録』)。『本朝通鑑』は寛文10年(1670年)完成するが、こうした幕府・林家の修史事業も光圀に影響を与えた。
- ^ そのため「皮厚さ一寸の鮭を持ってきたら、35石と取り替える」という噂がたったという話が伝わるが、これは原典は伊達政宗の同内容の逸話であるとされている[11]。
- ^ 旧暦のため実際には1701年1月14日。
- ^ 森鷗外は『寿阿弥の手紙』十九章において、お島が光圀の藩主時代(1690年以前)にその胤を宿したと推測している[19]。
出典
- ^ a b フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 6』講談社、2004年。
- ^ 鈴木 2006, p. 1.
- ^ 鈴木 2006, p. 21.
- ^ a b フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 5』講談社、2004年。
- ^ a b 『玄桐筆記』。
- ^ a b “史実の「水戸黄門」は、若いころグレにグレていた!”. 現代ビジネス. 講談社. 2016年10月9日閲覧。
- ^ “久昌寺”. 常陸太田市 (2021年4月6日). 2023年3月6日閲覧。
- ^ a b c d e 【はじまりを歩く】発掘調査(栃木県)光圀が命じた「国造」の墓探し『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」2021年10月9日6-7面(2021年11月5日閲覧)
- ^ 堤禎子「佐竹氏と八幡信仰」『茨城県立歴史館報』28号、2001年。佐々木倫朗 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三十巻 常陸佐竹氏』(戒光祥出版、2021年)P192-227.所収
- ^ “室町時代に食された「経帯麺」について”. 新横浜ラーメン博物館. 2019年1月13日閲覧。
- ^ 小菅桂子『水戸黄門の食卓―元禄の食事情』中央公論社〈中公新書〉、1992年1月。ISBN 978-4121010599[要ページ番号]
- ^ 小菅桂子『にっぽんラーメン物語』改訂版、講談社〈講談社+α文庫〉、1998年。[要ページ番号]
- ^ 永井義男『本当はブラックな江戸時代』辰巳出版、2016年、91-93頁。
- ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、92頁。
- ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、95-96頁。
- ^ 仁科邦男『「生類憐みの令」の真実』草思社、2019年。
- ^ 水戸光圀公之肖像及書 - 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ、2023年8月5日閲覧。
- ^ 「大日本史編纂経費「三分の一説」等の根拠は?-通説化する不確かな伝聞-」『水戸史学の各論的研究』(但野正弘、慧文社、2006年)[要ページ番号]
- ^ 森鷗外『壽阿彌の手紙』 (青空文庫)
- ^ “大河ドラマ『葵~徳川三代~』”. NHKアーカイブス. 2023年2月9日閲覧。
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