航空総攻撃
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1944年10月17日にレイテ島に連合軍大艦隊接近との偵察機からの報告があった。台湾沖航空戦で大損害を被ったアメリカ軍艦隊が接近する台風を避けて避難しているに過ぎないとの楽観論もあったが、第4航空軍司令官の富永恭次中将は大本営の戦果報道は過大であると疑っていたこともあって、これが連合軍により本格的な上陸作戦と判断し、即座に「軍は死力を尽くしてレイテ来攻の敵を撃滅せんとす」と全軍に訓示した。指揮下の精鋭第2飛行師団に、日本陸軍が航空要塞として整備してきたレイテ島西のネグロス島に進出し、迎撃準備するように命じた。実際にこの大艦隊はレイテ島上陸を目指してダグラス・マッカーサー大将が直卒する大艦隊であったが、迎撃を命じられた第2飛行師団は、航空畑一筋で歩んできた師団長山瀬昌雄中将が、15日のアメリカ軍機動部隊の空襲で重傷を負い、急遽、騎兵畑で、航空は素人の木下勇中将が後任の師団長となっており、手際の悪さから準備に数日を要してしまい、易々とアメリカ軍の上陸を許してしまった。第4航空軍は手持ちのわずか50機で、ダバオ誤報事件後の混乱で大損害を被っていた海軍第一航空艦隊の30機と共に連合軍の大艦隊を迎え撃つことになり、第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎中将は、少数の手持ち機で戦果を挙げるために神風特別攻撃隊を編成している。 第4航空軍は限られた手持ちの戦力で全力攻撃を行い、10月19日には20機、20日に14機の攻撃機を出撃させた。20日には出撃した飛行第62戦隊の渡辺武志大尉率いる6機の一〇〇式重爆撃機「呑龍」のうち1機が大艦隊の外縁の列で航行中であった軽巡洋艦「ホノルル」に接近、無数の対空砲火を浴びせられる中、冷静に好位置から魚雷を発射し、見事に命中させると無事に飛び去っている。「ホノルル」は艦橋前方に命中した魚雷で舷側に大穴が空いて大破し、60名のアメリカ兵が戦死した。しかし、連合軍を足止めするほどの効果はなく、この日に連合軍はレイテ島に上陸した。21日にも富永は出撃を命じ、オーストラリア海軍の重巡洋艦「オーストラリア」に、第6飛行団の「九九式襲撃機」が対空砲火を被弾後そのまま体当りしている。「九九式襲撃機」は艦橋に命中し、火のついた航空燃料をまき散らして、それをまともに被ったエミール・デシャニュー(英語版)艦長とジョン・レイメント副官を含む30名が焼死している。 捷一号作戦が発令され、連合艦隊が総力を挙げてレイテ湾を目指していた10月23日夕刻にようやく第4航空軍は200機の作戦機をネグロス島に集結させ、戦力を集中して陸軍未曾有の一大航空攻勢を10月24日と25日の2日間に渡って行った。司令の富永恭次中将はネグロス島に進出すると、「2日目までに100隻撃沈を目標とする。このため1機1船必殺必沈に徹す」という作戦計画を掲げ、攻撃目標を「敵輸送艦を目標とし、敵の後続遮断を狙いとする」と命じたが、しかし現実は、作戦機の稼働率が非常に低く、なかには1個戦隊24機の中で、稼働機は1機という戦隊もあった。そのため、出撃航空隊間の連携もうまくいかず、陸軍が研究と訓練を重ねてきた、期待の跳飛爆撃部隊飛行第3戦隊の「九九式双発軽爆撃機」22機が出撃したが、護衛戦闘機隊と連携ができず、上陸支援のアメリカ軍護衛空母群から出撃した「F4Fワイルドキャット」隊の迎撃により、途中で引き返した4機を除いて18機全機が撃墜され、戦隊長の木村修一中佐も戦死するなど、跳飛爆撃が実戦では通用しないことが露呈した。 艦船に対する戦果としては、飛行第12戦隊と飛行第62戦隊の精鋭で編成された雁部隊の「九七式重爆撃機」4機が輸送艦隊を爆撃しようとしたところ、そのうち1機が護衛艦隊の対空砲火で被弾してしまったので、その「九七式重爆撃機」はそのまま弾薬輸送船を狙って突進を始めたが、並んで停泊していた歩兵揚陸艇「LCI-1065(英語版)」に命中した。小型のLCI-1065は重爆の体当たりにひとたまりもなく艦体が真っ二つになると、数分のうちに海中に沈んでいる。ほぼ同じタイミングで被弾した海軍の「一式陸上攻撃機」が「ソノマ(艦隊曳航船)(英語版)」に突入し、ソノマもたちまちのうちに沈没した。この陸海軍の2機は、いずれも正式な特別攻撃隊が出撃する前の自発的な体当たりではあったが、沈没した2隻はアメリカ海軍では最初に特攻で沈められたアメリカ軍艦という扱いになり、今後激化していく日本軍の特攻を予感させるものとなった。 一方で日本海軍は、10月23日から25日の間、捷一号作戦の計画に則り、連合艦隊の総力を挙げた攻撃を行ったが完敗に終わった(レイテ沖海戦参照)。海戦中に第一航空艦隊長官大西瀧治郎中将によって神風特別攻撃隊が編成され、アメリカ軍の護衛空母を6隻撃沈破するなど大きな戦果を挙げた。陸軍も航空特攻の準備を進めており、日本内地で編成した万朶隊や富嶽隊をフィリピンに進出させて、第4航空軍の指揮下に入れており、この後特攻は日本軍の主要戦術となっていく。レイテでの特攻作戦においては、大西と富永は連携をとりながら作戦を展開していた。富永も海軍に対しては協力を惜しむことはなく、大西が、海軍には性能のいい偵察機がなく戦果確認に苦労しているので、陸軍への協力を富永に直々に要請しているが、富永は陸海軍の連携を重んじて大西の要請を快諾し、この後、陸軍の「一〇〇式司令部偵察機」が海軍特攻の戦果確認協力を行なうなど、一般的には仲が悪かったといわれる日本陸海軍であったが、ことフィリピンにおいては、大西と富永の人間関係もあって良好な関係であった。レイテを含むフィリピン戦で、海軍は特攻機333機を投入し、420名の搭乗員を失い、陸軍は210機を特攻に投入し、251名の搭乗員を失ったが、挙げた戦果も大きく、連合軍は、フィリピン戦で特攻により、22隻の艦艇が沈められ、110隻が撃破された。これは日本軍の通常攻撃を含めた航空部隊による全戦果のなかで、沈没艦で67%、撃破艦では81%を占めており、特攻は相対的に少ない戦力の消耗で、きわめて大きな成果をあげたことは明白であった。特攻で大損害を被った連合軍のなかでは、日本軍がフィリピンにあと100機の特攻機を保有していたら、連合軍の進攻を何ヶ月か遅らせることができたという評価もある。 日本海軍の攻撃を撃退したマッカーサーであったが、一息つく暇もなく、第4航空軍の猛攻にさらされた。連合軍の極東空軍(Far East Air Force, FEAF)司令官ジョージ・ケニー(英語版)少将もマッカーサーと共に常に最前線におり、参謀たちと一緒にレイテ島で確保したばかりのタクロバン飛行場の整備の陣頭指揮をとっており、第5空軍の戦闘機を進出させて、強力な航空支援体制を確立しようとしていた。第4航空軍司令官富永は、連合軍が強力な航空支援体制を構築する前に、飛行場を叩くべく、タクロバン飛行場攻撃を行った。10月29日に第16飛行団の新鋭戦闘機四式戦闘機「疾風」がタクロバン飛行場を偵察すると、昨日まではなかったアメリカ軍戦闘機がずらっと並んでいるのを発見した。攻撃の好機と考えた第16飛行団長新藤常右衛門中佐は四式戦闘機「疾風」11機にタ弾を搭載させて出撃を命じた。この攻撃は成功して第16飛行団は隊長の山崎機以下の4機「疾風」を失ったが、偵察機の報告によって地上のアメリカ軍機約100機を撃破したことが判明し、司令部に帰った富永は満面の笑みで新藤に「よくやった。偵察機が撮ってきた戦果の写真はいずれそちらに送る」と称賛の電話をかけている。しかし、新藤の再出撃の申し出に対しては「昼間攻撃に引き続き夜間攻撃を行わんとする貴官の決心は壮とするも、貴隊に残された以後の任務はなお高い。敵飛行場の夜間攻撃は、爆撃隊に実施せしむ」とし「あすは、一日中、操縦士をゆっくり昼寝させてくれ」と休養を取るように命じている。新藤は富永が第16飛行団の戦力を温存したいという好意を感じて、その配慮に感謝している 第16飛行団の攻撃で大損害を被った極東空軍司令官のケニーは、これまでに確保した飛行場にレーダーを設置して、日本軍の空襲を警戒していたが、この後も、第4航空軍の攻撃機はそれを嘲笑うかのように、山稜ごしに熟練した操縦技術で低空で侵入し連合軍のレーダーを妨害して空襲を繰り返した。1944年11月4日未明にも一式戦闘機「隼」、「九九式双軽爆撃機」、「九九式襲撃機」がタクロバン飛行場を攻撃し、アメリカ軍機41機以上が撃破され、第345爆撃航空群要員100名以上が戦死するという甚大な損害を被っている。第4航空軍の空襲に手を焼いたケニーは、タグロバンにリチャード・ボング少佐や、トーマス・マクガイア少佐など34名のエースパイロットを呼び寄せたが、わずか24時間の間にその半数が日本軍機に撃墜されて戦死している。ケニーが陣頭指揮にあたっても、飛行場整備に手間取っており、雨が降ると、アメリカ軍が確保していたタクロバンやドラッグ飛行場は滑走路がぬかるんで、満足な出撃ができず、天気が回復しても優勢な第4航空軍の戦闘機隊と互角に渡り合うのがやっとであり、レイテ島に上陸したウォルター・クルーガー中将率いる第6軍に十分な航空支援ができず、進軍速度は計画を大きく下回ることとなってマッカーサーを苛立たせた。天候不良の中でも巧みな運用を行う第4航空軍に一方的に攻撃される屈辱感をケニーは味わったが、マッカーサーは最前線で奮闘する部下を思いやって、「ジョージ、君はかけがえのない人物だ」とあまり部下をほめることがないマッカーサーとしては珍しく、ケニーの労を労っている。 日本軍は認識していなかったが、タクロバン飛行場の近隣にあるアメリカ人事業家の近代的な豪邸が、「I shall return」の約束を守ってレイテ島に上陸していたマッカーサーの司令部兼住居となっていた。マッカーサーは大戦初期のフィリピンの戦いのときに、バターン半島に籠って戦う部下将兵を置き去りにしてオーストラリアに脱出したことがあったが、そのときにコレヒドール島のマリンタ・トンネル(英語版)に籠って全く前線に出てこなかったマッカーサーを、兵士らが「Dugout Doug(地下壕に籠ったまま出てこないダグラス)」と揶揄していたことをマッカーサーはずっと気にしており、この豪邸に日本軍が構築していた地下壕をわざわざ埋めさせて、敵の攻撃を恐れない勇敢な司令官というアピールをしていた。この建物はタクロバン市街では大変目立つ建物であったため、第4航空軍の攻撃機がしばしば攻撃目標としたが、マッカーサーは敢えて避難することはしなかった。幸運にも日本軍機の爆撃が命中したのは1回のみで、マッカーサーの寝室の隣の部屋に命中したが不発であった。また低空飛行する日本軍機に向けて発射した76㎜高射砲の砲弾1発が、マッカーサーの寝室の壁をぶち抜いたあとソファの上に落ちてきたが、それも不発であった。また、軽爆撃機が機銃掃射を加えてきて、うち2発がマッカーサーのいた部屋に命中したが、マッカーサーの頭上45cmにあった梁に穴を開けたに止まった。マッカーサーはこの銃弾を取り出してオーストラリアにいる息子のアーサー・マッカーサー4世に手紙を添えて送っている。マッカーサーが司令部幕僚を招集して作戦会議を開催した際にも、しばしば日本軍の爆弾が庭で爆発したり、急降下爆撃機が真っすぐ向かってくることもあって、副官のコートニー・ホイットニー少将らマッカーサーの幕僚は床に伏せたい気分にかられたが、マッカーサーが微動だにしなかったので、やむなくマッカーサーに忖度してやせ我慢を強いられている。富永は図らずもマッカーサーら連合軍司令部を一挙に爆砕する好機に恵まれて、司令部至近の建物ではアメリカ軍従軍記者2名と、フィリピン人の使用人12名が爆撃で死亡し、司令部の建物も爆弾や機銃掃射で穴だらけになるなど、あと一歩のところまで迫っていたが、結局その好機を活かすことはできなかった。 なおも第4航空軍の猛攻は続き、攻撃機は昼夜間断なく来襲すると、飛行場にびっしりと並べられた連合軍航空機を大量に撃破し、弾薬集積所と燃料タンクを毎晩のように爆砕した。その様子を見ていたマッカーサーは「連合軍の拠点がこれほど激しく、継続的に、効果的な日本軍の空襲にさらされたことはかつてなかった」と第4航空軍の作戦を評価し、マッカーサーの副官の1人であるチャールズ・ウィロビー准将も、タクロバン飛行場に日本軍機の執拗な攻撃が続き、1度の攻撃で「P-38」が27機も地上で撃破され、飛行場以外でもマッカーサーの司令部兼居宅やクルーガーの司令部も爆撃されたと著書に記述しており、第4航空軍による航空攻撃と、連合艦隊によるレイテ湾突入作戦は、構想において素晴らしく、規模において雄大なものであったと評し、マッカーサーの軍が最大の危機に瀕したと回想している。アメリカ陸軍の公刊戦史においても、10月27日の夕刻から払暁までの間に11回も日本軍機による攻撃があって、タクロバンは撃破されて炎上するアメリカ軍機によって赤々と輝いていたと記述され、第4航空軍の航空作戦を、太平洋における連合軍の反攻開始以来、こんなに多く、しかも長期間に渡り、夜間攻撃ばかりでなく昼間空襲にアメリカ軍がさらされたのはこの時が初めてであった。と総括している。 このように、第4航空軍は執拗な飛行場攻撃や四式戦闘機「疾風」の活躍もあって、少なくとも11月上旬まではレイテ島上の制空権を確保していた。当時、第4航空軍を取材していた報道班員の読売新聞記者辻本芳雄によれば、レイテの戦い当初の、富永による第4航空軍の航空作戦は、レイテと陸軍航空要塞ネグロス島の間に日の丸を掲げた日本軍機でもってベルトをかけて、それを昼夜別なく回転するように、タクロバン飛行場やレイテ湾の連合軍艦船に猛攻をかけるといったような、激しくも優勢なものであったという。10月27日、参謀総長の梅津は、レイテ島の戦況とこれまでの第4航空軍の戦いぶりを昭和天皇に上奏したが、昭和天皇からは「第4航空軍がよく奮闘しているが、レイテ島の地上の敵を撃滅しなければ勝ったとはいえない。今一息だから十分第一線を激励せよ」第4航空軍に対するお褒めのことばがあっている。
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