航空総攻撃とは? わかりやすく解説

航空総攻撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 22:53 UTC 版)

レイテ島の戦い」の記事における「航空総攻撃」の解説

1944年10月17日レイテ島連合軍大艦接近との偵察機からの報告があった。台湾沖航空戦大損害を被ったアメリカ軍艦隊接近する台風避けて避難しているに過ぎないとの楽観論もあったが、第4航空軍司令官富永恭次中将大本営戦果報道過大であると疑っていたこともあって、これが連合軍により本格的な上陸作戦判断し即座に「軍は死力尽くしてレイテ来攻の敵を撃滅せんとす」と全軍訓示した。指揮下の精鋭第2飛行師団に、日本陸軍航空要塞として整備してきたレイテ島西のネグロス島進出し迎撃準備するように命じた実際にこの大艦隊はレイテ島上陸目指しダグラス・マッカーサー大将が直卒す大艦であったが、迎撃命じられた第2飛行師団は、航空畑一筋歩んできた師団長山瀬昌雄中将が、15日アメリカ軍機動部隊空襲重傷負い急遽騎兵畑で、航空素人木下勇中将後任師団長となっており、手際悪さから準備数日要してしまい、易々とアメリカ軍の上陸許してしまった。第4航空軍手持ちのわずか50機で、ダバオ誤報事件後の混乱大損害を被っていた海軍第一航空艦隊30と共に連合軍大艦隊を迎え撃つことになり、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将は、少数の手持ち機で戦果挙げるために神風特別攻撃隊編成している。 第4航空軍限られた手持ち戦力全力攻撃行い10月19日には20機、20日に14機の攻撃機出撃させた。20日には出撃した飛行第62戦隊渡辺武大尉率いる6機の一〇〇式重爆撃機呑龍」のうち1機が大艦隊の外縁の列で航行中であった軽巡洋艦ホノルル」に接近、無数の対空砲火浴びせられる中、冷静に位置から魚雷発射し見事に命中させる無事に飛び去っている。「ホノルル」は艦橋前方命中した魚雷舷側大穴空いて大破し60名のアメリカ兵戦死した。しかし、連合軍足止めするほどの効果はなく、この日に連合軍レイテ島上陸した21日にも富永出撃命じオーストラリア海軍重巡洋艦オーストラリア」に、第6飛行団の「九九式襲撃機」が対空砲火被弾後そのまま体当りしている。「九九式襲撃機」は艦橋命中し、火のついた航空燃料まき散らして、それをまともに被ったエミール・デシャニュー(英語版艦長とジョン・レイメント副官を含む30名が焼死している。 捷一号作戦発令され連合艦隊総力挙げてレイテ湾目指していた10月23日夕刻にようやく第4航空軍200機の作戦機ネグロス島集結させ、戦力集中して陸軍未曾有の一大航空攻勢10月24日25日2日間に渡って行った司令富永恭次中将ネグロス島進出すると、「2日目までに100撃沈目標とする。このため1機1船必殺必沈に徹す」という作戦計画掲げ攻撃目標を「敵輸送艦目標とし、敵の後続遮断狙いとする」と命じたが、しかし現実は、作戦機稼働率が非常に低くなかには1個戦隊24機の中で、稼働機は1機という戦隊もあった。そのため、出撃航空隊間の連携もうまくいかず、陸軍研究訓練重ねてきた、期待跳飛爆撃部隊飛行第3戦隊の「九九式双発軽爆撃機22機が出撃したが、護衛戦闘機隊と連携ができず、上陸支援のアメリカ軍護衛空母群から出撃した「F4Fワイルドキャット」隊の迎撃により、途中で引き返した4機を除いて18全機撃墜され戦隊長木村修一中佐も戦死するなど、跳飛爆撃実戦では通用しないことが露呈した艦船対す戦果としては、飛行第12戦隊飛行第62戦隊精鋭編成された雁部隊の「九七式重爆撃機」4機が輸送艦隊を爆撃しようとしたところ、そのうち1機が護衛艦隊対空砲火被弾してしまったので、その「九七式重爆撃機」はそのまま弾薬輸送船狙って突進始めたが、並んで停泊していた歩兵揚陸艇「LCI-1065(英語版)」に命中した小型のLCI-1065は重爆体当たりひとたまりもなく艦体が真っ二つになると、数分のうちに海中沈んでいる。ほぼ同じタイミング被弾し海軍の「一式陸上攻撃機」が「ソノマ(艦隊曳航船)(英語版)」に突入し、ソノマもたちまちのうちに沈没した。この陸海軍の2機は、いずれも正式な特別攻撃隊出撃する前の自発的な体当たりではあったが、沈没した2隻はアメリカ海軍で最初に特攻沈められアメリカ軍艦という扱いになり、今後激化していく日本軍特攻予感させるものとなった一方で日本海軍は、10月23日から25日の間、捷一号作戦計画則り連合艦隊総力挙げた攻撃行った完敗終わったレイテ沖海戦参照)。海戦中に第一航空艦隊長官大西瀧治郎中将によって神風特別攻撃隊編成されアメリカ軍護衛空母を6隻撃沈破するなど大きな戦果挙げた陸軍航空特攻準備進めており、日本内地編成した万朶隊富嶽隊をフィリピン進出させて、第4航空軍指揮下に入れており、この後特攻日本軍の主要戦術となっていく。レイテでの特攻作戦においては大西富永連携をとりながら作戦展開していた。富永海軍に対して協力惜しことはなく、大西が、海軍には性能のいい偵察機がなく戦果確認苦労しているので、陸軍へ協力富永直々に要請しているが、富永陸海軍連携重んじて大西要請快諾しこの後陸軍の「一〇〇式司令部偵察機」が海軍特攻戦果確認協力行なうなど、一般的には仲が悪かったといわれる日本陸海軍であったが、ことフィリピンにおいては大西富永人間関係もあって良好な関係であったレイテを含むフィリピン戦で、海軍特攻機333機を投入し420名の搭乗員失い陸軍210機を特攻投入し251名の搭乗員失ったが、挙げた戦果大きく連合軍は、フィリピン戦特攻により、22隻の艦艇沈められ、110隻が撃破された。これは日本軍通常攻撃含めた航空部隊による全戦果のなかで、沈没艦67%、撃破艦では81%を占めており、特攻相対的に少な戦力消耗で、きわめて大きな成果をあげたことは明白であった特攻大損害を被った連合軍のなかでは、日本軍フィリピンにあと100機の特攻機保有していたら、連合軍進攻を何ヶ月遅らせることができたという評価もある。 日本海軍攻撃撃退したマッカーサーであったが、一息つく暇もなく、第4航空軍猛攻さらされた。連合軍極東空軍(Far East Air Force, FEAF)司令官ジョージ・ケニー(英語版少将マッカーサーと共に常に最前線におり、参謀たちと一緒にレイテ島確保したばかりのタクロバン飛行場整備陣頭指揮をとっており、第5空軍戦闘機進出させて、強力な航空支援体制確立しようとしていた。第4航空軍司令官富永は、連合軍強力な航空支援体制構築する前に飛行場を叩くべく、タクロバン飛行場攻撃行った10月29日第16飛行団新鋭戦闘機四式戦闘機疾風」がタクロバン飛行場偵察すると、昨日まではなかったアメリカ軍戦闘機ずらっと並んでいるのを発見した攻撃好機考えた第16飛行団新藤常右衛門中佐四式戦闘機疾風11機にタ弾搭載させて出撃命じた。この攻撃成功して第16飛行団隊長山崎機以下の4機「疾風」を失ったが、偵察機報告によって地上アメリカ軍機約100機を撃破したことが判明し司令部帰った富永満面の笑み新藤に「よくやった。偵察機撮ってきた戦果写真はいずれそちらに送る」と称賛電話をかけている。しかし、新藤再出撃申し出に対しては「昼間攻撃引き続き夜間攻撃を行わんとする貴官決心は壮とするも、貴隊に残され以後任務はなお高い敵飛行場夜間攻撃は、爆撃隊に実施せしむ」とし「あすは、一日中操縦士をゆっくり昼寝させてくれ」と休養を取るように命じている。新藤富永第16飛行団戦力温存したいという好意感じて、その配慮感謝している 第16飛行団攻撃大損害を被った極東空軍司令官ケニーは、これまで確保した飛行場レーダー設置して日本軍の空襲警戒していたが、この後も、第4航空軍攻撃機はそれを嘲笑うかのように山稜ごしに熟練した操縦技術低空侵入し連合軍レーダー妨害して空襲繰り返した1944年11月4日未明にも一式戦闘機「隼」、「九九式双軽爆撃機」、「九九式襲撃機」がタクロバン飛行場攻撃しアメリカ軍41機以上が撃破され、第345爆撃航空要員100名以上が戦死するという甚大な損害被っている。第4航空軍空襲手を焼いたケニーは、タグロバンにリチャード・ボング少佐や、トーマス・マクガイア少佐など34名のエースパイロット呼び寄せたが、わずか24時間の間にその半数日本軍機に撃墜され戦死している。ケニー陣頭指揮にあたっても、飛行場整備手間取っており、雨が降ると、アメリカ軍確保していたタクロバンドラッグ飛行場滑走路ぬかるんで、満足な出撃ができず、天気回復して優勢な第4航空軍戦闘機隊と互角に渡り合うのがやっとであり、レイテ島上陸したウォルター・クルーガー中将率い第6軍十分な航空支援ができず、進軍速度計画大きく下回ることとなってマッカーサー苛立たせた。天候不良中でも巧み運用を行う第4航空軍一方的に攻撃される屈辱感ケニー味わったが、マッカーサー最前線奮闘する部下思いやって、「ジョージ、君はかけがえのない人物だ」とあまり部下をほめることがないマッカーサーとしては珍しくケニー労を労っている。 日本軍認識していなかったが、タクロバン飛行場近隣にあるアメリカ人事業家近代的な豪邸が、「I shall return」の約束守ってレイテ島上陸していたマッカーサー司令部住居となっていた。マッカーサー大戦初期フィリピンの戦いのときに、バターン半島籠って戦う部下将兵置き去りにしてオーストラリア脱出したことがあったが、そのときコレヒドール島のマリンタ・トンネル(英語版)に籠って全く前線出てこなかったマッカーサーを、兵士らが「Dugout Doug地下壕に籠ったまま出てこないダグラス)」と揶揄していたことをマッカーサーはずっと気にしており、この豪邸日本軍構築していた地下壕をわざわざ埋めさせて、敵の攻撃恐れない勇敢な司令官というアピールをしていた。この建物タクロバン市街では大変目立つ建物であったため、第4航空軍攻撃機がしばしば攻撃目標としたが、マッカーサー敢えて避難することはしなかった。幸運に日本軍機の爆撃命中したのは1回のみで、マッカーサー寝室隣の部屋命中した不発であった。また低空飛行する日本軍機に向けて発射した76高射砲砲弾1発が、マッカーサー寝室の壁をぶち抜いたあとソファの上落ちてきたが、それも不発であったまた、軽爆撃機機銃掃射加えてきて、うち2発がマッカーサーのいた部屋命中したが、マッカーサー頭上45cmにあった穴を開けた止まったマッカーサーはこの銃弾取り出してオーストラリアにいる息子アーサー・マッカーサー4世手紙添えて送っている。マッカーサー司令部幕僚招集し作戦会議開催した際にも、しばしば日本軍爆弾が庭で爆発したり、急降下爆撃機真っすぐ向かってくることもあって、副官コートニー・ホイットニー少将マッカーサー幕僚は床に伏せた気分かられたが、マッカーサー微動だにしなかったので、やむなくマッカーサー忖度しやせ我慢強いられている。富永図らずもマッカーサー連合軍司令部一挙に爆砕する好機恵まれて司令部至近建物ではアメリカ軍従軍記者2名と、フィリピン人使用人12名が爆撃死亡し司令部建物爆弾機銃掃射で穴だらけになるなど、あと一歩のところまで迫っていたが、結局その好機活かすことはできなかった。 なおも第4航空軍猛攻続き攻撃機昼夜間断なく来襲すると、飛行場びっしり並べられ連合軍航空機大量に撃破し弾薬集積所燃料タンク毎晩のように爆砕した。その様子を見ていたマッカーサーは「連合軍拠点これほど激しく継続的に効果的な日本軍の空襲さらされたことはかつてなかった」と第4航空軍作戦評価しマッカーサー副官1人であるチャールズ・ウィロビー准将も、タクロバン飛行場日本軍機の執拗な攻撃続き1度攻撃で「P-38」が27機も地上撃破され、飛行場以外でもマッカーサー司令部居宅クルーガー司令部爆撃されたと著書記述しており、第4航空軍による航空攻撃と、連合艦隊によるレイテ湾突入作戦は、構想において素晴らしく規模において雄大なものであった評しマッカーサーの軍が最大危機瀕した回想している。アメリカ陸軍公刊戦史においても、10月27日夕刻から払暁までの間に11回も日本軍機による攻撃があって、タクロバン撃破されて炎上するアメリカ軍機によって赤々と輝いていたと記述され第4航空軍航空作戦を、太平洋における連合軍の反攻開始以来こんなに多く、しかも長期間渡り夜間攻撃ばかりでなく昼間空襲アメリカ軍さらされたのはこの時が初めであった。と総括している。 このように第4航空軍執拗な飛行場攻撃四式戦闘機疾風」の活躍もあって、少なくとも11月上旬まではレイテ島上の制空権確保していた。当時第4航空軍取材していた報道班員読売新聞記者辻本芳雄によればレイテの戦い当初の、富永による第4航空軍航空作戦は、レイテ陸軍航空要塞ネグロス島の間に日の丸掲げた日本軍でもってベルトをかけて、それを昼夜別な回転するように、タクロバン飛行場レイテ湾連合軍艦船猛攻をかけるといったような激しく優勢なものであったという。10月27日参謀総長梅津は、レイテ島戦況これまでの第4航空軍戦いぶり昭和天皇上奏したが、昭和天皇からは「第4航空軍がよく奮闘しているが、レイテ島地上の敵撃滅なければ勝ったとはいえない。今一息だから十分第一線激励せよ」第4航空軍対するお褒めのことばがあっている。

※この「航空総攻撃」の解説は、「レイテ島の戦い」の解説の一部です。
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