考察と影響
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先の演芸ブームで世に出た芸人を「お笑い第一世代」、この漫才ブームのそれを「お笑い第二世代」と呼ぶこともある(これは「お笑い第三世代」なる用語がまずありきの便宜上の呼称(レトロニム)であり、当時はこのように呼ばれることは無かった)。 この漫才ブームの中心的存在だったB&B・ツービート・紳助・竜介の三組に共通する、掛け合いを無視してボケが一方的に喋りまくるという漫才のスタイルを生み出したのは、紳助の解説によれば、松竹芸能の浮世亭ケンケン・てるてるだという。その漫才を見た、B&Bの島田洋七がこの漫才のスタイルを模倣。大須演芸場でB&Bと共演したビートたけしも、B&Bの影響を受け、ツービートはたけし一人が喋りまくるスタイルへ変更した。またその頃、学生だった島田紳助もB&Bの漫才を見て「今からの漫才はこれだ!」と漫才師になったという。そしてツービートと紳助・竜介が最初に出会い、同じ舞台の立ったのは、1978年に日本放送協会が主催する東西の若手漫才師の賞「NHK漫才コンクール」及び「NHK上方漫才コンテスト」(NHK大阪放送局主催)の優秀成績者が集まり、東京・上野の本牧亭で公開収録で放送された「東西若手漫才競演」(NHK総合、1978年3月21日放送)に、無名時代のツービートと紳助・竜介の初めての出会いでもあった。 漫才ブームが爆発した1980年8月、「週刊朝日」は“MANZAIはどこから来たか“という当時の若手の漫才についての考察を載せている。要旨は以下のようなもの。 横山やすし・西川きよしが登場したとき、そのあふれるようなスピード感と生活実感にびっくりしたが(今の若手の漫才)は、スピードがさらに速い。ストーリーもない。会話すらなくて、一方的なギャグの連発。相棒は合いの手を入れるだけ。そのギャグにしても観客全体を相手にしてはいなくて、わかるヤツにはわかる、わからんヤツにはわからなくていい。むしろわからんでくれればウレシイ、といわんばかりのポーズである。少なくとも、いまの漫才ブームの先頭を走るコンビたちは、これまでの漫才から遠く隔たっているようにみえる。毎日放送の浜本忠義(「ヤングおー!おー!」プロデューサー)は「いまの漫才を、これまでの漫才の流の中に位置づけるのは難しい」。読売テレビの有川寛は「かつて漫才は"庶民"を相手にしていた。漫才師がアホになって、客を満足させていたんです。しかし、いまや"庶民"はいない。みんな中産階級になってしまった。漫才は長くその変化に追いつけなかったけど、ここへ来て急激に変わったということでしょう」と話す。また、驚くべきは、昨今の漫才における「言論の自由」の拡大である。その成果は大変なものがある。それまで「差別」に対する批判コワさに、われわれはどれほどびくびくとモノを書いていたか。テレビ局はどれほど神経をとがらせていたか。若手漫才師たちがあっという間に成し遂げた偉業、無謀について深い感慨を持つ。それでも笑って済むのはなぜか。差別も罵倒も、極限までいくとむしろ抽象化されて、アッケラカンとしたホンネの笑いしか残らないのだろうか。古川嘉一郎は「芸といえば、それが一種の芸でしょうね。言葉が一種符丁化されて、ナマナマしい意味を持たなくなっている。きわどい芸です」と話す。 放送評論家・松尾羊一は、1980年11月号の「放送批評」(放送批評懇談会編)に於いて、彼ら新しい世代の漫才について「芸能界の話題、ゴシップ、中傷なんでもござれであり、卑猥なギャグは大いに活用し、相手の頭を叩く、あるいはどつくどころが相手の毒舌に耐えられずボケが勝手に倒れるという風にマンザイは変わってきている」と論じている。「またスピードが非常に早く、そのスリリングな会話と彼ら以前のそれとでは、地面の野球と人工芝の野球の違いがある。ボケとツッコミの会話の完結性の果ての笑い、それがかつての漫才だった。あるギャグでドッとうける。その笑いの波がひくまでの間をおいてから次の話題に入ったものだった。しかし彼らは『ドッと』という笑いをもたない。いやそういう共鳴の笑いを拒否するところがある。高感度のマイクの発達もあろう。捨てぜりふ的なことばも明瞭にひろってくれるマイクの存在も大きい」「彼らを支える大半は若者である。どこのホールでもテレビの公録スタジオでも、ファンはGS親衛隊と同じである。万才がザ・マンザイになったとき、彼らはそこにある笑いが自分たちのリテラシーの世界に属しているものだと直感的に察知する」「笑いが多層化し演じる方も多分にそれを意識しているフシがある。一般にニュー・ウェーブにこれといったストーリー展開はない。アマ的プロ乃至プロ的アマの曖昧な地点で芸界ヒエラルキーに対抗するのである」「漫才界というのは落語界よりも意外に古臭い体質を持っていた。漫才はステージの子であれば自己完結し得た芸だった。むしろ最も非テレビ的な動的な説話だった。しかし今のマンザイからテレビを除いたら殆ど成立しえまい。マンザイはテレビを獲得したときはじめてマンザイなのである。そして過度の類似番組編成によってそのテレビに扼殺されかねない存在でもある」などと論じている。 当時「ポンプ」の編集長だった橘川幸夫は、同書で「旧人類はお呼びでない! ニュー・ウェーブ漫才はデジタルな笑い」「それにしても最近の漫才は攻撃的。悪口罵詈雑言弱者攻撃、すごいですなあ。人々のサドマゾ感覚が拡大したのか、それとも管理されたタテマエ社会の中で、ますます『本当に言いたいこと』が言えない日常が拡大して、それの代償行為として漫才が受け容れたのか、よく分からない」などと論じている。 筑紫哲也は「いまの漫才には本音がある。建て前社会の鬱屈した気分を晴らしてくれる。バアさんをバアさん、ブスをブスとはっきりいうことが、共通一次テストのように鬱屈な思いを強いられている若い世代には爽やかに映るのでしょう。それと客同士が飛ばすような駄洒落をステージでもやるんで舞台と客席との距離感がない。それがこのブームを支えているのだと思います」と解説している。 澤田隆治は「漫才がマンザイとなり、さらにMANZAIへと進んでいる象徴的なことは、エンタツ・アチャコ以来漫才師のシンボルが背広であったのを、どんどん脱ぎ捨てたこと、セントの革ジャンにブーツ、B&BのTシャツ、たけしのハーレムパンツ、紳助・竜介のツナギと、昔だったらあんな格好で高座に出たら客に失礼だとヒンシュクを買った高座着で堂々と出た。この感覚が彼等を時代の寵児にしているのだと思います」と話した。 当時の東京漫才協団会長・コロムビア・トップは「若手たちのあの格好は常識を打ち破りましたネ。だがそれが若い人たちの共感を呼んだんですから、ナウな時代感覚を持っているのでしょう。アニメで育ったガキ、そういっちゃいかんが、子供たちはゆっくり話を聞かない。ぼくらにいわせれば、漫才でも何でもないものなんだ。彼らの話は一口コントというか落語でいうとマクラを羅列しているだけのものです。それと若手の中には下ネタをカムフラージュなしでストレートに言ってしまうものもいる。これでは私たちはついていけない。ブームはそれで育つかもしれませんがね。私は三十年来、年末年始は家にいたことがなかったですが、東宝演芸場がなくなったこともありますが、この年末年始(1981年正月)は、ほとんど家にいました。正月番組は三本あったが全部審査員でした。まあ若手の漫才に世間さまが気をとめてくれたことはありがたい。そしてこれが引き金となって、お客さんがオーソドックスなものに目を向けて下さるようになったらその功績は大きいですね」、獅子てんやは「高座はスーツの正装、靴下姿っていうのが不文律でしたよ。それをブーツ着用やらTシャツで破り去った。この感覚は一世代前の漫才師には考えられませんでした。画期的なことでしたね。今になっては自分たちへの反省も含めて彼等に賞賛の言葉を送りたいですね」、昭和のいるは「私らコンビ11年でもテレビランクは二人で二万円。仕方がないからタビ(地方回り)に出る。出ればテレビにゃ出られない。ふっと気がついたら弟弟子(セント・ルイス)の方が売れていました」などと述べている。 吉川潮は「東京の漫才師は芸人(落語・色物など ※原文のまま)の中でも活字を読まない古い因襲にとらわれる人たちだった。それを哲学書と機械工学書を愛読するというセントが打ち破ったんです。セントはかねてから『尊敬出来ない先輩に挨拶する必要はない』と楽屋の常識を平気で無視してましたしね。だから保守的な人たちからずいぶん嫌われて迫害じみたことも受けたようです。たけしにしても本来なら漫才師になるような頭じゃない。兄二人が東大出なのに彼だけ私大というんで、コンプレックスから笑いの世界に入ったのですから」などと述べている。 横澤彪は「同じ漫才でも見せ方によってこんなに変わるんだ、と若い人にアピールすることができた。それまでの演芸番組からバラエティー番組に変わったんです。これが大きかった。若いジェネレーションが"笑う"ということを忘れていたわけでしょう。その層に受け入れられたことが一番大きかった」、漫才ブームを足掛かりに次々と番組を当てた当時のフジテレビに関して「あの時代が一番良かったですよね。そういう良き時代は二度と来ないんじゃないですかね」などと述べている。 お笑い通を自称する糸井重里は、「エンタツ・アチャコからの伝統だった"きみ"と"ぼく"の掛け合い漫才は、最後に『どうも失礼しました』と言うことでそれまでのデタラメを帳消しにできる。漫才はそのためには、スーツであること、"きみ"と"ぼく"であることがとても大切で、だからこそ、『ドアホ!』と言えたんです。やすきよまではその影響下にあった。そういった伝統を壊していったのが『THE MANZAI』に端を発する"漫才ブーム"。80年代初頭、漫才の伝統を継承したやすきよが頂点に立ち、同時に伝統を壊す漫才も台頭してきたんです。ツービート、B&B、ザ・ぼんち、島田紳助・松本竜介。彼らはスーツじゃなく普段着だったし歌も歌った。そしてここから、『誰がホンを書くか』の問題になっていく。つまり、やすきよまでは漫才と台本は分業が主流でしたが、ツービート、B&B、紳竜から『シンガーソングライター』になったんです。自分の漫才は自分で書く。『ホンと芸を両立させてこその漫才』だと。その一つの結論が又吉直樹の芥川賞受賞なんですね」などと論じている。 ブームが沈静化した1982年5月の『週刊読売』の特集「テレビ開局30年 第一線テレビマン座談会」で、ブームの仕掛け人の一人だった中島銀兵は「漫才ブームと言われた時に、ぼくはそうじゃない。それはキャラクターブームだと言ったんです。漫才が受けてるんじゃない、キャラクターが受けてるんだと。残ってる人はキャラクターとして残っているわけです。それをうまくかき集めて作ったのが『オレたちひょうきん族』なんですよ。歌とお笑いは共通する部分があり、だからピンク・レディーがいた時にB&Bが出てきたかといえば、おそらく出てこなかったでしょうね。サイクルの時にB&B、ツービート・紳助・竜介、あのあたりのキャラクターが受けただけであって、誰も漫才を聞いてはいないんです。ところが漫才の定型を云々する演芸評論家は、あんなものは漫才じゃないと主張したんです。ぼくは、テレビ演芸は小屋演芸とは違う、これでいいんだと言ったんです。むしろ、彼らに刺激されて、今までの漫才家がどんどん出てきたら、本当の意味での漫才ブームがきたと思うんですが、結局、出てこなかったでしょう。やはり、キャラクターが受けたんだと思います」などと述べている。 短期間でブームが去ったと説明されることの多い"漫才ブーム"であるが、ブーム直前から関西で演芸を取材してきた元大阪新聞記者・金森三夫は「蛇口をひねれば水、チャンネルひねれば漫才が出ると言われ、半年で飽きられるかと思ったら2年続いた」と、それまで地道に努力を続けていた若手漫才師たちの頑張りで、「むしろブームは長く続いた」と評価している。
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