考察と影響とは? わかりやすく解説

考察と影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 06:35 UTC 版)

漫才ブーム」の記事における「考察と影響」の解説

先の演芸ブーム世に出た芸人を「お笑い第一世代」、この漫才ブームのそれを「お笑い第二世代」と呼ぶこともある(これは「お笑い第三世代」なる用語がまずありきの便宜上呼称レトロニム)であり、当時このように呼ばれることは無かった)。 この漫才ブーム中心的存在だったB&Bツービート紳助・竜介の三組に共通する掛け合い無視してボケ一方的に喋りまくるという漫才のスタイル生み出したのは、紳助解説によれば松竹芸能浮世ケンケンてるてるだという。その漫才見たB&B島田洋七がこの漫才のスタイル模倣大須演芸場B&B共演したビートたけしも、B&B影響を受け、ツービートはたけし一人喋りまくるスタイル変更した。またその頃学生だった島田紳助B&B漫才見て「今からの漫才はこれだ!」と漫才師になったという。そしてツービート紳助・竜介最初に出会い、同じ舞台立ったのは、1978年日本放送協会主催する東西若手漫才師の賞「NHK漫才コンクール」及び「NHK上方漫才コンテスト」(NHK大阪放送局主催)の優秀成績者が集まり東京上野本牧亭公開収録放送された「東西若手漫才競演」(NHK総合1978年3月21日放送)に、無名時代ツービート紳助・竜介初めての出会いでもあった。 漫才ブーム爆発した1980年8月、「週刊朝日」は“MANZAIどこから来たか“という当時若手漫才について考察載せている。要旨は以下のようなもの。 横山やすし・西川きよし登場したとき、そのあふれるようなスピード感と生活実感びっくりしたが(今の若手漫才)は、スピードがさらに速いストーリーもない。会話すらなくて、一方的なギャグ連発相棒合いの手入れるだけ。そのギャグにしても観客全体相手にしてはいなくて、わかるヤツにはわかる、わからんヤツにはわからなくていい。むしろわからんくれればウレシイ、といわんばかりポーズである。少なくとも、いまの漫才ブーム先頭を走るコンビたちは、これまでの漫才から遠く隔たっているようにみえる毎日放送浜本忠義(「ヤングおー!おー!プロデューサー)は「いまの漫才を、これまでの漫才の流の中に位置づけるのは難しい」。読売テレビ有川寛は「かつて漫才は"庶民"を相手にしていた。漫才師アホになって、客を満足させていたんです。しかし、いまや"庶民"はいない。みんな中産階級になってしまった。漫才長くその変化追いつけなかったけど、ここへ来て急激に変わったということでしょう」と話す。また、驚くべきは、昨今漫才における「言論の自由」の拡大である。その成果大変なものがある。それまで差別」に対す批判コワさに、われわれはどれほどびくびくモノ書いていたか。テレビ局どれほど神経とがらせていたか。若手漫才師たちがあっという間に成し遂げた偉業無謀について深い感慨を持つ。それでも笑って済むのはなぜか。差別罵倒も、極限までいくとむしろ抽象化されて、アッケラカンとしたホンネ笑いしか残らないだろうか古川嘉一郎は「芸といえば、それが一種の芸でしょうね。言葉一種符丁化されて、ナマナマしい意味を持たなくなっている。きわどい芸です」と話す。 放送評論家松尾羊一は、1980年11月号の「放送批評」(放送批評懇談会編)に於いて、彼ら新し世代漫才について芸能界話題ゴシップ中傷なんでもござれであり、卑猥なギャグ大い活用し相手の頭を叩く、あるいはどつくどころが相手毒舌に耐えられずボケ勝手に倒れるという風にマンザイ変わってきている」と論じている。「またスピードが非常に早く、そのスリリングな会話と彼ら以前のそれとでは、地面野球人工芝野球違いがある。ボケとツッコミ会話完結性の果て笑い、それがかつての漫才だった。あるギャグドッとうける。その笑いの波がひくまでの間をおいてから次の話題入ったのだった。しかし彼らは『ドッと』という笑いもたないいやそういう共鳴笑い拒否するところがある。高感度マイク発達もあろう。捨てぜりふなことば明瞭にひろってくれるマイク存在大きい」「彼らを支え大半若者である。どこのホールでもテレビ公録スタジオでも、ファンGS親衛隊と同じである。万才がザ・マンザイになったとき、彼らはそこにある笑い自分たちのリテラシー世界属しているものだと直感的に察知する」「笑い多層化し演じる方も多分にそれを意識しているフシがある。一般にニュー・ウェーブこれといったストーリー展開はない。アマプロ乃至プロアマ曖昧な地点芸界ヒエラルキー対抗するのである」「漫才界というのは落語界よりも意外に古臭い体質持っていた。漫才ステージの子であれば自己完結し得た芸だった。むしろ最も非テレビ的な動的な説話だった。しかし今のマンザイからテレビ除いたら殆ど成立しえまい。マンザイテレビ獲得したときはじめてマンザイのである。そして過度類似番組編成によってそのテレビ扼殺されかねない存在でもある」などと論じている。 当時ポンプ」の編集長だった橘川幸夫は、同書で「旧人類お呼びでない! ニュー・ウェーブ漫才デジタル笑い」「それにしても最近漫才攻撃的悪口罵詈雑言弱者攻撃すごいですなあ。人々サドマゾ感覚拡大したのか、それとも管理されタテマエ社会の中で、ますます『本当に言いたいこと』が言えない日常拡大して、それの代償行為として漫才が受け容れたのか、よく分からない」などと論じている。 筑紫哲也は「いまの漫才には本音がある。建て前社会鬱屈した気分晴らしてくれる。バアさんをバアさん、ブスブスとはっきりいうことが、共通一次テストのように鬱屈思い強いられている若い世代には爽やかに映るのでしょう。それと客同士が飛ばすような駄洒落ステージでもやるんで舞台客席との距離感がない。それがこのブーム支えているのだと思います」と解説している。 澤田隆治は「漫才マンザイとなり、さらにMANZAIへと進んでいる象徴的なことは、エンタツ・アチャコ以来漫才師シンボル背広であったのを、どんどん脱ぎ捨てたこと、セント革ジャンブーツB&BTシャツ、たけしのハーレムパンツ紳助・竜介ツナギと、昔だったらあんな格好高座出たら客に失礼だとヒンシュク買った高座着で堂々と出た。この感覚彼等時代の寵児にしているのだと思います」と話した当時東京漫才協団会長コロムビア・トップは「若手たちのあの格好常識打ち破りましたネ。だがそれが若い人たちの共感呼んだんですから、ナウ時代感覚持っているのでしょうアニメ育ったガキ、そういっちいかんが子供たちはゆっくり話を聞かない。ぼくらにいわせれば、漫才でも何でもないものなんだ。彼らの話は一口コントというか落語でいうとマクラ羅列しているだけのものです。それと若手中には下ネタカムフラージュなしでストレートに言ってしまうものもいる。これでは私たちついていけないブームはそれで育つかもしれませんがね。私は三十年来年末年始は家にいたことがなかったですが、東宝演芸場なくなったこともありますが、この年末年始(1981年正月)は、ほとんど家にいました正月番組三本あったが全部審査員でした。まあ若手漫才世間さまが気をとめてくれたことはありがたい。そしてこれが引き金となってお客さんオーソドックスなものに目を向けてさるようになったらその功績大きいですね」、獅子てんやは「高座スーツ正装靴下姿っていうのが不文律でしたよ。それをブーツ着用やらTシャツ破り去った。この感覚一世代前の漫才師には考えられませんでした画期的なことでしたね。今になって自分たちへの反省含めて彼等賞賛の言葉送りたいですね」、昭和のいるは「私らコンビ11年でもテレビランクは二人で万円仕方がないからタビ地方回り)に出る。出ればテレビにゃ出られない。ふっと気がついたら弟弟子セント・ルイス)の方が売れていました」などと述べている。 吉川潮は「東京漫才師芸人落語色物など ※原文のまま)の中でも活字読まない古い因襲とらわれる人たちだった。それを哲学書と機械工学書を愛読するというセント打ち破ったんです。セントかねてから尊敬出来ない先輩挨拶する要はない』と楽屋常識を平気で無視してましたしね。だから保守的なたちからずいぶん嫌われ迫害じみたことも受けたようです。たけしにしても本来なら漫才師になるような頭じゃない。兄二人東大出なのに彼だけ私大というんで、コンプレックスから笑い世界入ったのですから」などと述べている。 横澤彪は「同じ漫才でも見せ方によってこんなに変わるんだ、と若い人アピールすることができた。それまで演芸番組からバラエティー番組変わったんです。これが大きかった。若いジェネレーションが"笑う"ということ忘れていたわけでしょう。その層に受け入れられたことが一番大きかった」、漫才ブーム足掛かり次々と番組当てた当時フジテレビに関してあの時代が一番良かったですよね。そういう良き時代二度と来ないんじゃないですかね」などと述べている。 お笑い通を自称する糸井重里は、「エンタツ・アチャコからの伝統だった"きみ"と"ぼく"の掛け合い漫才は、最後に『どうも失礼しましたと言うことそれまでデタラメ帳消しにできる。漫才はそのためには、スーツであること、"きみ"と"ぼく"であることがとても大切で、だからこそ、『ドアホ!』と言えたんです。やすきよまではその影響にあったそういった伝統壊していったのが『THE MANZAI』に端を発する"漫才ブーム"。80年代初頭漫才伝統継承したやすきよ頂点に立ち、同時に伝統を壊す漫才台頭してきたんです。ツービートB&Bザ・ぼんち島田紳助・松本竜介。彼らはスーツじゃなく普段着だったし歌も歌った。そしてここから、『誰がホンを書くか』の問題になっていく。つまり、やすきよまでは漫才台本分業主流でしたが、ツービートB&B、紳竜から『シンガーソングライターになったんです。自分漫才自分で書く。『ホンと芸を両立させてこその漫才』だと。その一つ結論又吉直樹芥川賞受賞なんですね」などと論じている。 ブーム沈静化した1982年5月の『週刊読売』の特集テレビ開局30年 第一線テレビマン座談会」で、ブーム仕掛け人一人だった中島銀兵は「漫才ブームと言われ時に、ぼくはそうじゃない。それはキャラクターブームだと言ったんです。漫才受けてんじゃない、キャラクター受けてるんだと。残ってる人はキャラクターとして残っているわけです。それをうまくかき集めて作ったのが『オレたちひょうきん族』なんですよ。歌とお笑い共通する部分があり、だからピンク・レディーがいた時にB&B出てきたかといえば、おそらく出てこなかったでしょうね。サイクル時にB&Bツービート紳助・竜介、あのあたりのキャラクター受けただけであって誰も漫才聞いてはいないんです。ところが漫才定型云々する演芸評論家は、あんなものは漫才じゃない主張したんです。ぼくは、テレビ演芸小屋演芸とは違う、これでいいんだと言ったんです。むしろ、彼らに刺激されて、今まで漫才家がどんどん出てきたら、本当の意味での漫才ブームがきたと思うんですが、結局出てこなかったでしょう。やはり、キャラクター受けたんだと思います」などと述べている。 短期間ブーム去った説明されることの多い"漫才ブーム"であるが、ブーム直前から関西演芸取材してきた元大阪新聞記者金森三夫は「蛇口をひねればチャンネルひねれば漫才が出ると言われ半年飽きられるかと思った2年続いた」と、それまで地道に努力続けていた若手漫才師たちの頑張りで、「むしろブーム長く続いた」と評価している。

※この「考察と影響」の解説は、「漫才ブーム」の解説の一部です。
「考察と影響」を含む「漫才ブーム」の記事については、「漫才ブーム」の概要を参照ください。

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