本領安堵とは? わかりやすく解説

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ほんりょう‐あんど〔ホンリヤウ‐〕【本領安×堵】

読み方:ほんりょうあんど

中世本領領有権そのまま幕府守護認めたこと。安堵


本領安堵

読み方:ホンリョウアンド(honryouando)

本領領有権幕府従来通り認めること。


安堵

(本領安堵 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/15 08:35 UTC 版)

安堵(あんど)とは、日本史において、主人が従者との主従関係や従者のもつ所領知行を承認する行為を指す概念[1]。特に鎌倉後期以降は、その支配領域内人々の規制、所領知行の公的な認定を意味した[1]


  1. ^ a b c d e f g h i j 松園潤一朗「室町幕府安堵の様式変化について」『人文』第8巻、学習院大学人文科学研究所、2010年3月、268-248頁、hdl:10959/1337ISSN 1881-7920CRID 10502826779114981122023年6月15日閲覧 
  2. ^ 近藤成一 「本領安堵と当知行安堵」(初出:石井進 編『都と鄙の中世史』(吉川弘文館、1992年)/所収:近藤『鎌倉時代政治構造の研究』(校倉書房、2016年) ISBN 978-4-7517-4650-9


「安堵」の続きの解説一覧

本領安堵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 19:04 UTC 版)

関ヶ原の戦いの戦後処理」の記事における「本領安堵」の解説

関ヶ原西軍付きながら、幸運に所領安堵された大名以下の通りであるが、特に目立つのが丹後田辺城戦い従軍した大名であり、全体のほとんどを占める。田辺城細川忠興の父である細川幽斎籠城しており、小野木重勝大将として丹波但馬豊後大名攻撃した。だが攻撃軍には谷衛友ら幽斎の歌道弟子多く一部大名積極的に攻撃しなかった。これを城内より観察した幽斎が戦後家康伝え取り成され大名本領安堵されている。ただし小野木は細川忠興怒りを買い本戦終了後福知山城攻められ自害追い込まれ総大将責め負い自刃。一旦許され斎村政広鳥取城攻略での落度により自刃した。斎村東軍寝返った武将では唯一の死亡者である。 このほか関ヶ原本戦果敢な退却戦を見せた島津義弘武備恭順姿勢交渉に当たり、根負けし家康から本領安堵を勝ち取った鍋島直茂そもそも東軍に付く予定が、嫡男である鍋島勝茂愛知川西軍関所阻まれ西軍付いたため、家康頻繁に音信をとって内通し勝茂の進軍中止させた。本戦後は勝茂を直ち家康謝罪させ、筑後平定条件に本領安堵を許された。生駒親正蜂須賀家政小出吉政それぞれ嫡男二男東軍派遣しており、息子達功績所領安堵されている。宗義智については、李氏朝鮮との国交回復をにらむ家康深慮によって詰問留めている。 また、豊臣秀頼親衛隊である大坂城七手組武将立場上、大坂城残った者や実際に出馬した人物含めて全員西軍加担したと言える状況であったが、秀頼の側近ということもあってか処分され人物は居なかった。 武将領地石高(石)合戦での動向備考青木一重 摂津豊島 10,000 大坂城留守居 石高豊臣領に含まれる七手組元徳家臣生駒親正 讃岐高松 171,800 丹後田辺城攻撃 自身病気偽り出陣せず。家臣大塚采女田辺城攻撃派遣嫡男一正東軍に付かせ、本戦での功により所領安堵高松蟄居する。 伊東祐兵 日向飫肥 57,000 近江大津城攻撃 大坂病床伏せており、身動き取れずやむなく西軍参加表明し家臣大津城攻撃派遣する嫡男・祐慶を日向東軍として活動させ所領安堵伊東長実 備中岡田 10,300 近江大津城攻撃 石高豊臣領に含まれる七手組大津城攻撃検使役。本戦参加していたという説もある。密かに西軍挙兵徳川家康報告織田信包 丹波柏原 36,000 丹後田辺城攻撃 老犬斎。子・信重は東軍片桐貞隆 播磨国10,000 近江大津城攻撃 兄・且元は徳川家豊臣家仲介尽力大和小泉移封川勝秀氏 丹波国内 3,500 丹後田辺城攻撃 本戦後、細川忠興と共に小野木重勝篭る丹波福知山城攻撃参加丹波何鹿郡から丹波氷上郡船井郡転封桑山一晴 紀伊和歌山 20,000 近江大津城攻撃 叔父・元晴は東軍10月に自領に戻り祖父・重晴と共に西軍堀内氏善新宮城攻略した功により赦される。 小出吉政 但馬出石 60,000 丹後田辺城攻撃 弟・秀家が東軍付きその本戦での功により所領安堵小出秀政 和泉岸和田 30,000 近江大津城攻撃 家臣大津城攻撃派遣二男・秀家が東軍付きその本戦での功により所領安堵郡宗保 美濃国内 3,000 近江大津城攻撃 石高豊臣領に含まれる大津城攻撃軍監島津義弘 薩摩鹿児島 609,000 本戦 井伊直政周旋により、島津義久継嗣忠恒(義弘実子)に対し安堵杉原長房 但馬豊岡 20,000 丹後田辺城攻撃 縁戚である北政所浅野長政からの嘆願よる。 宗義智 対馬厳原 10,000 近江大津城攻撃 家臣柳川調信大津城攻撃派遣家康から詰問されたが所領安堵建部光重 摂津尼崎 700 伊勢安濃津城攻撃 石高豊臣領に含まれる豊臣尼崎3万石代官西軍軍事行動積極的に加わるも池田輝政取り成し本領尼崎代官職共々安堵谷衛友 丹波山家 16,000 丹後田辺城攻撃 本戦後、細川忠興と共に小野木重勝篭る丹波福知山城攻撃参加歌道師匠である細川幽斎取り成しで本領安堵。 津軽信建 陸奥堀越 (45,000) 大坂城留守居 父・為信は東軍石田重成三成二男)を助け領内匿う中川秀成 豊後竹田 70,000 丹後田辺城攻撃 家臣中川右衛門田辺城攻撃派遣本戦の後、西軍属した臼杵城太田一吉攻め立て所領安堵長谷川宗仁 美濃国内など (10,000) 丹後田辺城攻撃 家督は既に当時子・守知が相続親子ともども西軍も守知は東軍内通し所領安堵蜂須賀家政 阿波徳島 173,000 北国守備 自身病気偽り出陣せず。家臣高木法斎北国口に派遣嫡男・至鎮を東軍に付かせ、本戦での功により所領安堵速水守久 (不明) 15,000 近江大津城攻撃 石高豊臣領に含まれる七手組筆頭大津城攻撃検使役。 別所吉治 但馬八木 15,000 丹後田辺城攻撃 本戦後、細川忠興と共に小野木重勝篭る丹波福知山城攻撃参加。弟・孫次郎東軍堀田盛重 (不明) 10,000 丹後田辺城攻撃 石高豊臣領に含まれる七手組伏見城攻撃軍監務めた後、田辺城攻囲に加わる。密かに西軍挙兵徳川家康報告前田茂勝 丹波亀山 (50,000) 丹後田辺城攻撃 父・玄以は中立を通す。丹後田辺城派遣され後陽成天皇勅使一行供奉開城交渉に当たる。 毛利高政 豊後国20,000 丹後田辺城攻撃 藤堂高虎取り成し安堵。のち豊後佐伯転封

※この「本領安堵」の解説は、「関ヶ原の戦いの戦後処理」の解説の一部です。
「本領安堵」を含む「関ヶ原の戦いの戦後処理」の記事については、「関ヶ原の戦いの戦後処理」の概要を参照ください。


本領安堵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 10:04 UTC 版)

津軽為信」の記事における「本領安堵」の解説

天正17年(1589年秋田実季和睦し、自らではなかったが家臣八木橋備中上洛させることができ、石田三成を介して豊臣秀吉名馬献上津軽三郡(平賀郡鼻和郡田舎郡ならびに合浦一円所領安堵された。しかし後の奥州検地ではこの所領高45,000石のうち3万石津軽領地高で残り1万5,000石は太閤蔵入地とされてしまう。秀吉小田原征伐の際には家臣18騎を連れて為信自身が、天正18年1590年3月駿河国三枚橋城参向し、小田原東下する秀吉謁見している。 一方南部家では前田利家頼って、為信を惣無事令違反する逆徒として喧伝秀吉訴え一度は為信は征伐対象にされかける。だが早くから豊臣政権恭順の意を示すなど工作し天正18年4月小田原へ兵1,000連れて陣した南部信直先駆け、その前月小田原への途上沼津秀吉謁見果たしていた為信は、石田三成羽柴秀次織田信雄を介して釈明認められ独立した大名として認知されることに成功した。これには、秀吉、秀次、織田信雄三名とも鷹狩り好んだことを聞きつけた為信が、津軽特産贈って友誼結んだことも本安堵繋がった見られている。 また、大浦政信近衛尚通落胤だという伝承にちなみ、為信は早くから近衛家接近して折々金品や米などの贈物をしており、上洛した際に元関白近衛前久訪れ自分は前久公の祖父・尚通殿が奥州遊歴なされた際の落胤」と主張した近衛家限らずその頃公家窮乏しており、関白に就きたいが家柄の無い羽柴秀吉猶子にして藤原姓授けた近衛前久は、為信からの財政支援増額により為信も猶子にした。このときから為信は本姓藤原として、近衛家紋の牡丹因む杏葉牡丹使用許され、姓を大浦から津軽改めている。これで形式上は、秀吉と為信は義兄弟となったその後九戸政実の乱討伐文禄・慶長の役伏見城普請などに功績挙げた文禄3年1594年)には大浦城から堀越城居城移している。慶長2年1597年)為信は千徳政氏の子・政康が居る浅瀬石城攻めて、かつて盟友関係にあった千徳氏滅ぼした

※この「本領安堵」の解説は、「津軽為信」の解説の一部です。
「本領安堵」を含む「津軽為信」の記事については、「津軽為信」の概要を参照ください。

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