安堵
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安堵(あんど)とは、日本史において、主人が従者との主従関係や従者のもつ所領知行を承認する行為を指す概念[1]。特に鎌倉後期以降は、その支配領域内人々の規制、所領知行の公的な認定を意味した[1]。
- ^ a b c d e f g h i j 松園潤一朗「室町幕府安堵の様式変化について」『人文』第8巻、学習院大学人文科学研究所、2010年3月、268-248頁、hdl:10959/1337、ISSN 1881-7920、CRID 1050282677911498112、2023年6月15日閲覧。
- ^ 近藤成一 「本領安堵と当知行安堵」(初出:石井進 編『都と鄙の中世史』(吉川弘文館、1992年)/所収:近藤『鎌倉時代政治構造の研究』(校倉書房、2016年) ISBN 978-4-7517-4650-9)
本領安堵
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「関ヶ原の戦いの戦後処理」の記事における「本領安堵」の解説
関ヶ原で西軍に付きながら、幸運にも所領を安堵された大名は以下の通りであるが、特に目立つのが丹後田辺城の戦いに従軍した大名であり、全体のほとんどを占める。田辺城は細川忠興の父である細川幽斎が籠城しており、小野木重勝を大将として丹波・但馬・豊後の大名が攻撃した。だが攻撃軍には谷衛友ら幽斎の歌道の弟子が多く、一部の大名は積極的に攻撃しなかった。これを城内より観察した幽斎が戦後家康に伝え、取り成された大名は本領を安堵されている。ただし小野木は細川忠興の怒りを買い本戦終了後に福知山城を攻められ自害に追い込まれ、総大将の責めを負い自刃。一旦許された斎村政広は鳥取城攻略での落度により自刃した。斎村は東軍に寝返った武将では唯一の死亡者である。 このほか関ヶ原本戦で果敢な退却戦を見せた島津義弘は武備恭順の姿勢で交渉に当たり、根負けした家康から本領安堵を勝ち取った。鍋島直茂はそもそも東軍に付く予定が、嫡男である鍋島勝茂が愛知川で西軍の関所に阻まれ西軍に付いたため、家康と頻繁に音信をとって内通し勝茂の進軍を中止させた。本戦後は勝茂を直ちに家康に謝罪させ、筑後平定を条件に本領安堵を許された。生駒親正・蜂須賀家政・小出吉政はそれぞれ嫡男や二男を東軍に派遣しており、息子達の功績で所領安堵されている。宗義智については、李氏朝鮮との国交回復をにらむ家康の深慮によって詰問に留めている。 また、豊臣秀頼の親衛隊である大坂城七手組の武将も立場上、大坂城に残った者や実際に出馬した人物を含めて全員が西軍に加担したと言える状況であったが、秀頼の側近ということもあってか処分された人物は居なかった。 武将名領地石高(石)合戦での動向備考青木一重 摂津豊島 10,000 大坂城留守居 石高は豊臣領に含まれる。七手組。元徳川家臣。 生駒親正 讃岐高松 171,800 丹後田辺城攻撃 自身は病気と偽り出陣せず。家臣・大塚采女を田辺城攻撃に派遣。嫡男・一正を東軍に付かせ、本戦での功により所領安堵。高松で蟄居する。 伊東祐兵 日向飫肥 57,000 近江大津城攻撃 大坂で病床に伏せており、身動きが取れずやむなく西軍へ参加を表明し、家臣を大津城攻撃に派遣するも嫡男・祐慶を日向で東軍として活動させ所領安堵。 伊東長実 備中岡田 10,300 近江大津城攻撃 石高は豊臣領に含まれる。七手組。大津城攻撃検使役。本戦に参加していたという説もある。密かに西軍の挙兵を徳川家康に報告。 織田信包 丹波柏原 36,000 丹後田辺城攻撃 老犬斎。子・信重は東軍。 片桐貞隆 播磨国内 10,000 近江大津城攻撃 兄・且元は徳川家と豊臣家の仲介に尽力。大和小泉に移封。 川勝秀氏 丹波国内 3,500 丹後田辺城攻撃 本戦後、細川忠興と共に小野木重勝の篭る丹波福知山城攻撃に参加。丹波何鹿郡から丹波氷上郡・船井郡に転封。 桑山一晴 紀伊和歌山 20,000 近江大津城攻撃 叔父・元晴は東軍。10月に自領に戻り祖父・重晴と共に西軍の堀内氏善の新宮城を攻略した功により赦される。 小出吉政 但馬出石 60,000 丹後田辺城攻撃 弟・秀家が東軍に付き、その本戦での功により所領安堵。 小出秀政 和泉岸和田 30,000 近江大津城攻撃 家臣を大津城攻撃に派遣。二男・秀家が東軍に付き、その本戦での功により所領安堵。 郡宗保 美濃国内 3,000 近江大津城攻撃 石高は豊臣領に含まれる。大津城攻撃の軍監役 島津義弘 薩摩鹿児島 609,000 本戦 井伊直政の周旋により、島津義久の継嗣忠恒(義弘の実子)に対し安堵。 杉原長房 但馬豊岡 20,000 丹後田辺城攻撃 縁戚である北政所や浅野長政からの嘆願による。 宗義智 対馬厳原 10,000 近江大津城攻撃 家臣・柳川調信を大津城攻撃に派遣。家康から詰問されたが所領安堵。 建部光重 摂津尼崎 700 伊勢安濃津城攻撃 石高は豊臣領に含まれる。豊臣領尼崎3万石の代官。西軍の軍事行動に積極的に加わるも池田輝政の取り成しで本領、尼崎代官職共々安堵。 谷衛友 丹波山家 16,000 丹後田辺城攻撃 本戦後、細川忠興と共に小野木重勝の篭る丹波福知山城攻撃に参加。歌道の師匠である細川幽斎の取り成しで本領安堵。 津軽信建 陸奥堀越 (45,000) 大坂城留守居 父・為信は東軍。石田重成(三成二男)を助け、領内に匿う。 中川秀成 豊後竹田 70,000 丹後田辺城攻撃 家臣・中川平右衛門を田辺城攻撃に派遣。本戦の後、西軍に属した臼杵城の太田一吉を攻め立て所領安堵。 長谷川宗仁 美濃国内など (10,000) 丹後田辺城攻撃 家督は既に当時子・守知が相続。親子ともども西軍も守知は東軍に内通し所領安堵。 蜂須賀家政 阿波徳島 173,000 北国口守備 自身は病気と偽り出陣せず。家臣、高木法斎を北国口に派遣。嫡男・至鎮を東軍に付かせ、本戦での功により所領安堵。 速水守久 (不明) 15,000 近江大津城攻撃 石高は豊臣領に含まれる。七手組筆頭。大津城攻撃検使役。 別所吉治 但馬八木 15,000 丹後田辺城攻撃 本戦後、細川忠興と共に小野木重勝の篭る丹波福知山城攻撃に参加。弟・孫次郎は東軍。 堀田盛重 (不明) 10,000 丹後田辺城攻撃 石高は豊臣領に含まれる。七手組。伏見城攻撃の軍監を務めた後、田辺城攻囲に加わる。密かに西軍の挙兵を徳川家康に報告。 前田茂勝 丹波亀山 (50,000) 丹後田辺城攻撃 父・玄以は中立を通す。丹後田辺城に派遣された後陽成天皇の勅使一行に供奉。開城交渉に当たる。 毛利高政 豊後国内 20,000 丹後田辺城攻撃 藤堂高虎の取り成しで安堵。のち豊後佐伯に転封。
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本領安堵
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天正17年(1589年)秋田実季と和睦し、自らではなかったが家臣・八木橋備中を上洛させることができ、石田三成を介して豊臣秀吉に名馬と鷹を献上、津軽三郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)ならびに合浦一円の所領を安堵された。しかし後の奥州総検地ではこの所領高4万5,000石のうち3万石が津軽領地高で、残り1万5,000石は太閤蔵入地とされてしまう。秀吉の小田原征伐の際には家臣18騎を連れて為信自身が、天正18年(1590年)3月駿河国三枚橋城へ参向し、小田原へ東下する秀吉に謁見している。 一方、南部家では前田利家を頼って、為信を惣無事令に違反する逆徒として喧伝し秀吉に訴え、一度は為信は征伐の対象にされかける。だが早くから豊臣政権に恭順の意を示すなど工作し、天正18年4月小田原へ兵1,000を連れて参陣した南部信直に先駆け、その前月に小田原への途上の沼津で秀吉に謁見を果たしていた為信は、石田三成、羽柴秀次、織田信雄を介しての釈明が認められ独立した大名として認知されることに成功した。これには、秀吉、秀次、織田信雄の三名とも鷹狩りを好んだことを聞きつけた為信が、津軽特産の鷹を贈って友誼を結んだことも本領安堵に繋がったと見られている。 また、大浦政信が近衛尚通の落胤だという伝承にちなみ、為信は早くから近衛家に接近して折々に金品や米などの贈物をしており、上洛した際に元関白近衛前久を訪れ「自分は前久公の祖父・尚通殿が奥州遊歴なされた際の落胤」と主張した。近衛家に限らずその頃の公家は窮乏しており、関白職に就きたいが家柄の無い羽柴秀吉を猶子にして藤原姓を授けた近衛前久は、為信からの財政支援増額により為信も猶子にした。このときから為信は本姓を藤原として、近衛家紋の牡丹に因む杏葉牡丹の使用を許され、姓を大浦から津軽に改めている。これで形式上は、秀吉と為信は義兄弟となった。 その後は九戸政実の乱の討伐や文禄・慶長の役、伏見城普請などに功績を挙げた。文禄3年(1594年)には大浦城から堀越城へ居城を移している。慶長2年(1597年)為信は千徳政氏の子・政康が居る浅瀬石城を攻めて、かつて盟友関係にあった千徳氏を滅ぼした。
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