堀田盛重
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堀田 盛重(ほった もりしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣家の譜代家臣。大坂七手組の1人。諱は勝嘉[1]や正高[1]など複数伝わるが、通称の堀田図書の名で知られる。
- ^ a b c d e f g h i j k 高柳 & 松平 1981, p. 217
- ^ a b 『松浦古事記』の名護屋城の陣場所の割り当てに「堀田右衛門尉」なる人物が登場する。この時期に堀田姓の大名は盛重しかいないことから、盛重の仮名が右衛門尉であった可能性はある。
- ^ a b c d 堀田正敦国立国会図書館デジタルコレクション 『寛政重脩諸家譜. 第4輯』國民圖書、1923年、409頁 。
- ^ a b c d 国書刊行会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 堀田系図」『系図綜覧. 第二』国書刊行会、1915年、220-223頁 。
- ^ 一方で、『尾張群書系図部集』は道悦の法名を持つ正貞(正定)が『信長公記』の道空で、道空は初めての入道号で道悦は法名であろうとする説を載せている。これに従うならば、盛重(正高)が『信長公記』の道空の子ということになる。
- ^ これが『信長公記』に登場する斎藤道三の家臣堀田道空と同一人物ならば、年齢が100歳近くなってしまい無理があるが、法名が同じだけの別人ならばありえるだろう。ただ、正高についての事績が何も書かれておらず、名前以外に符号する部分はないので、人物比定は困難である[5]。
- ^ a b 『信長公記』には道空以外にも織田信長の御手廻衆の中に堀田孫七と堀田左内という堀田姓の人物が2人登場するが、左内と同じく槍の名手とされた人物に伊東清蔵(長久)がおり、その子は七手組の伊東長次である。長次の娘は、堀田盛正(加賀守)の妻で、その子・長行は長次の養子となっている。
- ^ 『寛政重修諸家譜』には正貞の七男(末弟)として、堀田図書頭とされる長正(長政)なる人物も書かれている[3]。重縁を考慮し[7]、同じ組頭である伊東長次と盛重の年齢は大きく変わらないと想定すれば、盛正の父・図書頭長正(長政)の享年63を大坂の陣にあてはめると、天文22年(1553年)生まれで、年齢的に無理がなく通称の図書も符号する。長正・盛正は共に従五位下の官位が書かれているが、誰に仕えていたかは書かれていない。また末弟を図書とするのは「堀田系図」と同じであり、同系図には逆に長正なる人物は書かれていない[4]が、図書助の子を加賀守としている点も「堀田系図」と同じ[4]であるから、『寛政譜』の長正は「堀田系図」の正高に比定できる。
- ^ 「堀田系図」では、正高の道号を記しておらず、道空説は否定している。
- ^ 歴史読本編集部 編『歴史読本 2005年8月号 特集 織田・豊臣・徳川家』中経出版、2005年、103頁。JAN 4910096170852。
- ^ 東京大学史料編纂所 編「国立国会図書館デジタルコレクション 明智氏一族宮城家相伝系図書」『大日本史料. 第11編之1』東京大学、1927年 。
- ^ 桑田1971, p. 69.
- ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 編「国立国会図書館デジタルコレクション 豊臣秀吉小田原陣陣立」『大日本古文書. 家わけ 三ノ一(伊達家文書之一)』東京帝国大学、1908年、622頁 。
- ^ a b c 桑田1971, p. 70.
- ^ ただしこの話は『武家事紀』による[1][14]。
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