日本社会党時代
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終戦直後より政治活動を再開、日本社会党県連組織長や日本農民組合県連組織部長、峡南農民組合委員長を歴任。しかし右派の領袖である平野力三農相らと絶縁の後、山梨社会党を独自に結成。県下の農地解放や食料確保に奔走する。
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日本社会党時代
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1945年、日本社会党の結成に際し、組織部長に就任した。中間派の指導者だった河上丈太郎・三輪寿壮らが公職から追放されたため、自然と浅沼が中間派の中心人物となった。 1947年、書記長だった西尾末広が片山哲内閣に入閣すると書記長代理となり、翌年には正式に書記長となった(国会内では初代衆議院議院運営委員長)。1949年の第24回衆議院議員総選挙で委員長の片山哲が落選すると、特別国会の首班指名で社会党は浅沼に投票した(実際に指名されたのは吉田茂)。一時、書記長を離れるが、1950年に書記長に復帰した。1951年、サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約ともに反対の左派とともに賛成の右派が対立すると、浅沼は講和条約賛成・安保条約反対の折衷案で、党内の対立をまとめようとするが、左右分裂を食い止めることができなかった。その後、右派社会党書記長となった浅沼は寝る間を惜しんで全国の同志たちの応援に駆け回り、そのバイタリティから「人間機関車」の異名を取った。 1955年に社会党再統一が実現すると、書記長に就任する。書記長という役職柄、党内で対立があると調整役にまわって「まあまあ」とお互いをなだめる役割に徹したことから、「まあまあ居士」などとも呼ばれた。また長年にわたって書記長を務めてきた実績と、長年書記長を務めていながらトップである委員長のポストが巡ってこない境遇をかけて「万年書記長」とも呼ばれた。 1959年、第2次中国訪問団の団長として中国を訪問した浅沼は中華人民共和国の「一つの中国」論に賛同し、「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」と発言した。草稿は党内左派で、浅沼が「ゴクサ(極左の誤読)」と呼んだ広沢賢一に命じた物だった。特に「アメリカ帝国主義」を「敵」と名指しした発言は、国内外に大きな波紋を広げた。自民党の福田赳夫はすかさず抗議電報を打ち、「浅沼の失言」アピールに成功した。特に、帰国時に飛行機のタラップを中国の工人帽を着用して降りてきたことについては右翼はもちろん世論、党内の反発を受けた。団員の一人で右派の曾禰益らからは今回の書記長の態度には同意できないとの主張がなされた。また、左派で委員長の鈴木茂三郎も団員の広沢賢一に対して「君が浅沼の秘書役をやりながら一体どうしたものだ」と怒鳴ったとされている。 2015年9月22日の産経新聞のweb記事によると、帰国後間もなく駐日アメリカ大使ダグラス・マッカーサー2世から詰問を受け、釈明しようとするも怒声を浴びせられてすごすごと引き返したとある。ただし、原彬久が勝間田清一へインタビューをした際にはマッカーサーから詰問された際も取り消さないと応じたため大激論となった結果、当初予定の申し入れもなくなったとのことである。また、日本社会党の機関紙局が発行した「邁進 人間機関車ヌマさんの記録」の「浅沼稲次郎のたたかい」によると、安保闘争の強行採決後の1960年5月24日にアメリカ大使館を訪ねた際、マッカーサーから発言の撤回を強く主張してきたが、「取消す必要はない。アメリカ国民に対してではなくて、帝国主義政策と社会党が闘うのは当然である」として、撤回を拒否したとある。 浅沼発言の背景としては、満州事変以来日本は侵略戦争を行ってきたとの考え方に基づき、自身も政治家の一人として積極的に戦争に加担したことにより中国人に損害を与えた悔悟の念を表したのではないかとされている。また、朝鮮民主主義人民共和国から訪中していた黄方秀は、かつて日本にいたことがあり、さらに浅沼の選挙を手伝ったことがあった。黄は事態打開のために「戦闘的な態度」を取るべきだと浅沼らに主張した。草稿を作成した広沢は、「日中両国人民の共同の敵」の「敵」の部分は「課題」など、より穏やかな単語も用意した。浅沼はその中から「敵」を選んだという。ただし、勝間田清一は「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」は中国側の張奚若(中国語版)の発言であり、浅沼は「まあ、そうですね」などと相づちを打ったのが真相だと主張している。 1960年、西尾末広らが社会党を離党して民主社会党(民社党)を結成すると、鈴木茂三郎委員長は辞任し浅沼が後任の委員長に選ばれた。浅沼は安保闘争を前面にたって戦い、岸信介内閣を総辞職に追い込むが、安保条約の廃案を勝ち取ることはできなかった。また民社党は続く1960年総選挙に、麻生久の子で浅沼も目を掛けていた麻生良方を浅沼の対立候補として東京1区に立てるといった、全面対決の姿勢を見せた。 しかし、総選挙の前哨戦として、1960年10月12日に日比谷公会堂で開催された自民・社会・民社3党首立会演説会に参加した浅沼は、演説中に突然壇上に上がって来た17歳の右翼少年・山口二矢に腹部を刺され、非業の最期を遂げた。61歳没。 詳細は「浅沼稲次郎暗殺事件」を参照 社会党は浅沼の妻である浅沼享子を身代わり候補に立て、享子は当選した。一方、麻生良方は落選した(次の総選挙で初当選)。
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日本社会党時代
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1983年(昭和58年)12月18日の初当選をした第37回衆議院議員総選挙では、候補者であり自分の名前「伊藤忠治」を覚えてもらうのから取り組み、全電通労組の組織力と15歳から働いてきた真面目な勤労者のイメージが好感を呼び十万票(108062票)の大台にのせてトップ当選する。総務委員会に所属した。 1986年(昭和61年)7月6日の衆参ダブル選挙は社会党に逆風が吹いていたが、同時に民社党の中井洽にも逆風が吹き、伊藤忠治が最下位(5位)で90204票を獲得して滑り込み当選、中井洽が落選する。1990年(平成2年)2月18日の総選挙は消費税を争点に、消費税解散で第39回衆議院議員総選挙が行われて、土井たか子委員長のもと土井ブームで風が吹き119582票を獲得してトップ当選する強さだった。 1992年(平成4年)のPKO法案の決議に護憲を掲げた日本社会党が「戦争に繋がる」と反対した際に、日本社会党の執行部は、対抗措置として日本社会党所属の衆議院議員全員で伊藤忠治は他の議員と共に「議員辞職願」を提出した。 1993年(平成5年)に日本社会党の書記長人事があり、党内改革派として日本社会党の再建を期待されていた伊藤忠治は副書記長から格上げされる形で書記長候補となるが、党内に政治改革を主張する伊藤忠治の書記長就任に反対する議員がいて、この時1993年(平成5年)の55年体制最後となる日本社会党の書記長人事は混乱して書記長就任が断念された。結局山花貞夫委員長は赤松広隆を書記長に抜擢する。1993年(平成5年)5月に大前研一が結成した平成維新の会の研究会をまず井上一成議員・川島實議員に呼びかけて、その後平成維新の会の勉強会を日本社会党内に呼びかけて参加議員20名を得る。1993年(平成5年)6月には、日本社会党の政策集団として平成フォーラムを結成して伊藤忠治が代表者に就任する。 引退時の記者会見で1993年(平成5年)の落選時、トップ当選2回の実績から、伊藤忠治は大丈夫とマスコミに当確を言われて、安心しきっていたことを振り返っている。日本社会党の特に伊藤忠治の出身組織である全電通労組の組織力の強さを脅威と考えていて、労働組合は社会主義を支援する組織であると警戒して、中曽根康弘首相は新自由主義政策で国鉄からJRグループへの国鉄分割民営化、日本専売公社のJTへの民営化、日本電信電話公社のNTTへの民営化を行って弱体化させようとした。伊藤忠治を中心に3公社民営化に反対したが、結果労組は弱体化して1986年(昭和61年)の第38回衆議院議員総選挙で社会党は敗北したが、伊藤忠治は当選。 1993年(平成5年)7月18日の日本社会党が大敗した選挙では、津市内にあるNTT三重体育館の婦人バレーボール大会(NTT主催)に出席して、「日本政治のベルリンの壁が壊れた。今、政治が変わらなければ世界の笑いものになる」と主婦たち約300人に訴えた。落選の危機感から政治改革派の議員としてアピールする作戦にして、衆議院選挙のキャッチフレーズを「改革する男」とした。自身の日本社会党労組は稼動せず無党派層の支持票が岡田克也に票を奪われ、88317票の6位で落選をした。 当選後から大衆政治家として庶民に日の当たる政治を実行している。好物はうどん(特に地元三重県の伊勢うどん)で三重県内のおいしい店に詳しく庶民らしい大衆政治家である。 中選挙区の三重1区は日本社会党が社会党左派・社会党右派の両派が統一されてからずっと議席を守ってきた安全圏であった。1993年(平成5年)東京都議会議員選挙の日本社会党敗北の直後の第40回衆議院議員総選挙でも逆風が吹いている事は実感していたが、最低でも滑り込み当選ができると思っていた。その後の引退会見で、日本新党の推薦候補となったのが中井洽だった。日本新党と民社党との関係を強調して無党派層の支持をえた中井洽が頑張っていた。自分は安心していたので最後の議席争いに負けてしまったと振り返っている。1993年(平成5年)に実施された第40回衆議院議員総選挙の日本社会党候補の中では東海地方で唯一の落選者となり、日本社会党の副書記長に就任していた日本社会党の幹部で党内改革派として活躍していた伊藤忠治の落選は日本社会党が大敗した事の典型な結果であった。
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