日本社会党時代とは? わかりやすく解説

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日本社会党時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/09 00:11 UTC 版)

深沢義守」の記事における「日本社会党時代」の解説

終戦直後より政活動再開日本社会党県連組織長や日本農民組合県連組織部長、峡南農組合委員長歴任。しかし右派領袖である平野力三農相らと絶縁の後、山梨社会党独自に結成県下農地解放食料確保奔走する

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日本社会党時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:24 UTC 版)

浅沼稲次郎」の記事における「日本社会党時代」の解説

1945年日本社会党結成際し組織部長に就任した中間派の指導者だった河上丈太郎三輪寿壮らが公職から追放されたため、自然と浅沼中間派の中心人物となった1947年書記長だった西尾末広片山哲内閣入閣すると書記長代理となり、翌年には正式に書記長となった国会内では初代衆議院議院運営委員長)。1949年第24回衆議院議員総選挙委員長片山哲落選すると、特別国会首班指名社会党浅沼投票した実際に指名されたのは吉田茂)。一時書記長離れるが、1950年書記長復帰した1951年サンフランシスコ講和条約日米安全保障条約ともに反対左派とともに賛成右派対立すると、浅沼講和条約賛成安保条約反対折衷案で、党内対立まとめようとするが、左右分裂食い止めることができなかった。その後右派社会党書記長となった浅沼は寝る間を惜しんで全国同志たちの応援駆け回り、そのバイタリティから「人間機関車」の異名取った1955年社会党再統一実現すると、書記長に就任する。書記長という役職柄、党内対立があると調整役まわって「まあまあ」とお互いなだめる役割徹したことから、「まあまあ居士」などとも呼ばれた。また長年わたって書記長務めてきた実績と、長年書記長務めていながらトップである委員長ポスト巡ってこない境遇をかけて「万年書記長」とも呼ばれた1959年第2次中国訪問団の団長として中国訪問した浅沼中華人民共和国の「一つの中国」論に賛同し、「アメリカ帝国主義日中両国人民共同の敵」と発言した草稿党内左派で、浅沼が「ゴクサ(極左誤読)」と呼んだ広沢賢一命じた物だった。特に「アメリカ帝国主義」を「敵」名指しした発言は、国内外大きな波紋広げた自民党福田赳夫すかさず抗議電報打ち、「浅沼失言アピール成功した。特に、帰国時に飛行機タラップ中国工人帽を着用して降りてきたことについては右翼はもちろん世論党内反発受けた団員一人右派曾禰益らからは今回書記長態度には同意できないとの主張なされたまた、左派委員長鈴木茂三郎団員広沢賢一に対して「君が浅沼秘書役をやりながら一体どうしたものだ」と怒鳴ったとされている。 2015年9月22日産経新聞web記事によると、帰国間もなく駐日アメリカ大使ダグラス・マッカーサー2世から詰問を受け、釈明しようとする怒声浴びせられすごすご引き返したとある。ただし、原彬久勝間田清一インタビューをした際にはマッカーサーから詰問された際も取り消さない応じたため大激論となった結果当初予定申し入れなくなったとのことである。また、日本社会党機関紙局が発行した邁進 人間機関車ヌマさんの記録」の「浅沼稲次郎たたかい」によると、安保闘争強行採決後の1960年5月24日アメリカ大使館訪ねた際、マッカーサーから発言撤回強く主張してきたが、「取消す要はない。アメリカ国民に対してではなくて帝国主義政策社会党闘うのは当然である」として、撤回拒否したとある。 浅沼発言の背景としては、満州事変以来日本侵略戦争行ってきたとの考え方に基づき自身政治家一人として積極的に戦争加担したことにより中国人損害与えた悔悟の念を表したではないかとされている。また、朝鮮民主主義人民共和国から訪中していた黄方秀は、かつて日本にいたことがあり、さらに浅沼選挙手伝ったことがあった。黄は事態打開のために「戦闘的な態度」を取るべきだと浅沼らに主張した草稿作成した広沢は、「日中両国人民共同の敵」の「敵」部分は「課題」など、より穏やかな単語用意した浅沼はその中から「敵」選んだという。ただし、勝間田清一は「アメリカ帝国主義日中両国人民共同の敵」は中国側の張奚若(中国語版)の発言であり、浅沼は「まあ、そうですね」などと相づち打ったのが真相だと主張している。 1960年西尾末広らが社会党離党して民主社会党民社党)を結成すると、鈴木茂三郎委員長辞任し浅沼後任委員長選ばれた。浅沼安保闘争前面にたって戦い岸信介内閣総辞職追い込むが、安保条約廃案勝ち取ることはできなかった。また民社党は続く1960年総選挙に、麻生久の子浅沼目を掛けていた麻生良方浅沼対立候補として東京1区立てるといった、全面対決姿勢見せた。 しかし、総選挙前哨戦として、1960年10月12日日比谷公会堂開催され自民社会民社3党首立会演説会参加した浅沼は、演説中に突然壇上上がって来た17歳右翼少年山口二矢腹部刺され非業の最期遂げた61歳没。 詳細は「浅沼稲次郎暗殺事件」を参照 社会党浅沼の妻である浅沼享子身代わり候補立て、享子は当選した一方麻生良方落選した次の総選挙初当選)。

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日本社会党時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 22:39 UTC 版)

伊藤忠治」の記事における「日本社会党時代」の解説

1983年昭和58年12月18日初当選をした第37回衆議院議員総選挙では、候補者であり自分の名前「伊藤忠治」を覚えてもらうのから取り組み全電通労組組織力15歳から働いてきた真面目な勤労者イメージ好感呼び十万票(108062票)の大台にのせてトップ当選する総務委員会所属した1986年昭和61年7月6日衆参ダブル選挙社会党逆風吹いていたが、同時に民社党中井洽にも逆風吹き伊藤忠治最下位(5位)で90204票を獲得して滑り込み当選中井洽落選する。1990年平成2年2月18日総選挙消費税争点に、消費税解散第39回衆議院議員総選挙が行われて、土井たか子委員長のもと土井ブームで風が吹き119582票を獲得してトップ当選する強さだった。 1992年平成4年)のPKO法案の決議護憲掲げた日本社会党が「戦争に繋がる」と反対した際に、日本社会党執行部は、対抗措置として日本社会党所属衆議院議員全員伊藤忠治は他の議員と共に議員辞職願」を提出した1993年平成5年)に日本社会党書記長人事があり、党内改革派として日本社会党再建期待されていた伊藤忠治副書記長から格上げされる形で書記長候補となるが、党内政治改革主張する伊藤忠治書記長就任反対する議員がいて、この時1993年平成5年)の55年体制最後となる日本社会党書記長人事混乱して書記長就任断念された。結局山花貞夫委員長赤松広隆書記長抜擢する1993年平成5年5月大前研一結成した平成維新の会研究会をまず井上一成議員川島實議員呼びかけて、その後平成維新の会勉強会日本社会党内に呼びかけ参加議員20名を得る1993年平成5年6月には、日本社会党政策集団として平成フォーラム結成して伊藤忠治代表者就任する引退時の記者会見1993年平成5年)の落選時、トップ当選2回の実績から、伊藤忠治大丈夫とマスコミ当確言われて、安心しきっていたことを振り返っている。日本社会党の特に伊藤忠治出身組織である全電通労組組織力強さ脅威考えていて、労働組合社会主義支援する組織であると警戒して中曽根康弘首相新自由主義政策国鉄からJRグループへの国鉄分割民営化日本専売公社JTへの民営化日本電信電話公社NTTへの民営化行って弱体化させようとした。伊藤忠治中心に3公社民営化反対したが、結果労組弱体化して1986年昭和61年)の第38回衆議院議員総選挙社会党敗北したが、伊藤忠治当選1993年平成5年7月18日日本社会党大敗した選挙では、津市内にあるNTT三重体育館婦人バレーボール大会NTT主催)に出席して、「日本政治ベルリンの壁壊れた。今、政治が変わらなければ世界笑いものになる」と主婦たち約300人に訴えた落選危機感から政治改革派の議員としてアピールする作戦にして、衆議院選挙キャッチフレーズを「改革する男」とした。自身日本社会党労組稼動せず無党派層支持票が岡田克也に票を奪われ、88317票の6位で落選をした。 当選後から大衆政治家として庶民に日の当たる政治実行している。好物はうどん(特に地元三重県伊勢うどん)で三重県内のおいしい店に詳しく庶民らしい大衆政治家である。 中選挙区三重1区日本社会党社会党左派社会党右派の両派が統一されてからずっと議席守ってきた安全圏であった1993年平成5年東京都議会議員選挙日本社会党敗北直後第40回衆議院議員総選挙でも逆風吹いている事は実感していたが、最低でも滑り込み当選ができると思っていた。その後引退会見で、日本新党推薦候補となったのが中井洽だった。日本新党民社党との関係を強調して無党派層支持をえた中井洽頑張っていた。自分安心していたので最後議席争い負けてしまったと振り返っている。1993年平成5年)に実施され第40回衆議院議員総選挙日本社会党候補の中では東海地方唯一の落選者となり、日本社会党副書記長に就任していた日本社会党幹部党内改革派として活躍していた伊藤忠治落選日本社会党大敗した事の典型結果であった

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