日本社会党委員長とは? わかりやすく解説

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日本社会党委員長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/29 14:23 UTC 版)

日本社会党中央執行委員会委員長(にっぽんしゃかいとうちゅうおうしっこういいんかいいいんちょう)は、1945年から1996年にかけて存在した日本社会党の最高責任者であり、党首に相当する。




「日本社会党委員長」の続きの解説一覧

日本社会党委員長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 04:06 UTC 版)

土井たか子」の記事における「日本社会党委員長」の解説

1986年衆参同日選挙惨敗受けて石橋政嗣委員長引責辞任すると、同年9月副委員長から昇格し第10代社会党委員長就任党史上初の女性委員長であり、憲政史上でも初の女性党であった書記長山口鶴男前・石体制末期階級政党からの脱皮国民政党への指向をうたう「日本社会党の新宣言」が難航の末に採択されたばかりでそのしこりもあり、従来社会党委員長同様に党内左右対立をまとめる党運営求められた。しかし、土井はっきりした物言いキャラクター一般からの好感獲得したことが土井立場後押しした時の首相は、改憲論者として知られる中曽根康弘であったが、土井護憲軍縮掲げてこれに対抗。しかし中曽根改憲動きには出ないものの、社会党堅持強く求めていた防衛費1%枠撤廃している。一方で内閣提出した売上税法案に対して社公民および社民連の4党統一組織構築して抵抗その間行われた参議院岩手補選第11回統一地方選挙勝利し廃案追い込んでいる。中曽根から政権引き継いだ竹下登消費税導入強行するが、土井消費税導入およびリクルート事件激しく追及宮澤喜一大蔵大臣辞任させ、そして竹下内閣退陣追い込む1989年第15回参院選では、消費税リクルート事件追及の際に強化され社公民路線基礎とし、連合の会候補を3党が推薦するといった選挙協力体制構築する結果社会党改選議席の倍以上を獲得改選分では社会党第一党、総議席では自民党過半数割れ比較第一党という結果となる。これは土井個人的人気支えられた面も大きく、「土井ブーム(おたかさんブーム)」と評された(新人女性議員当選目立った点からは「マドンナブーム旋風)」とも呼ばれた)。この時の土井の「山が動いた」も名文句として有名になった(与謝野晶子の詩「そぞろごと冒頭「山の動く日来たる」をふまえている)。 選挙後社公民路線維持し与野党逆転した参議院での主導権を握る。その皮切りとして女性初の参議院内閣首班指名受けた衆議院の優越により、首相に衆議院指名され自民党総裁海部俊樹41年ぶりの両院協議会不一致)を経て就任)。また、消費税廃止公約参院選大勝要因であったこともあり、消費税廃止法案社会党公明党連合の会民社党の4党で提出し12月11日参議院可決通過させた(衆議院廃案)。 1990年第39回総選挙でもブーム続き土井総選挙で180人の候補擁立する計画立てたものの、中選挙区制目標満たすには複数候補擁立必須になることから、2人目を立てる対象になった選挙区現職候補や、他の野党などから反発起きた。また資金難から勧誘した人物条件折り合わないことも多く実際候補者149人に留まった(他に無所属として推薦7、公認漏れ3)。それでも総選挙結果社会党136議席(他、追加公認3で139議席)と51議席増やした。しかし、自民党275議席(他、追加公認11286議席)と安定多数維持した。さらに、野党内での社会党一人勝ち公明党民社党は距離を置き、両党は連合政権協議打ち切り自公民路線に舵を切った。そのため前回参議院内閣首班指名の際と参議院構成はほぼ変わっていないにも拘らず、両党が決選投票棄権したため、今度海部参議院でも首班指名を受けることとなった1991年第12回統一地方選挙社会党敗北し土井委員長引責辞任した。

※この「日本社会党委員長」の解説は、「土井たか子」の解説の一部です。
「日本社会党委員長」を含む「土井たか子」の記事については、「土井たか子」の概要を参照ください。


日本社会党委員長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 15:06 UTC 版)

飛鳥田一雄」の記事における「日本社会党委員長」の解説

1977年同年参院選敗北責任取り辞任した成田知巳後任として日本社会党委員長に就任しその3ヶ月後に横浜市長辞任する。しかし地元支持者たちから市長辞任反対され、飛鳥田は地盤横浜から国政選挙に出馬することができなくなり1979年第35回衆議院議員総選挙にて旧東京1区千代田区港区新宿区)から出馬し当選した。しかし、支持基盤のない東京1区からの出馬飛鳥田に他の社会党国会議員選挙応援に行く余裕を失わせ、飛鳥田の求心力奪っていった。1978年首班指名選挙社会党党首である飛鳥委員長が非国会議員のため、副委員長下平正一投票した飛鳥田は委員長就任条件として全党員による委員長公選導入成田委員長実現させ、開かれた党を目指しイタリア共産党当時)の「カード党員」をヒントにした百万建設運動による党員拡大に力をいれたり、1983年参議院議員通常選挙において一致する政策期限切って58市民団体政治契約締結したまた、本部書記に対して綱紀粛正指示したが、疲弊した党の再建は容易ではなかった。美濃部亮吉都知事不出馬表明した後で行われた1979年都知事選挙に際して経済学者都留重人擁立しようとしたが、支持母体である総評議長務めた太田薫出馬を譲らず、最終的に押し切られる形となった飛鳥田は、教条主義的と批判されていた「日本における社会主義への道」の改定乗り出す1980年公明党との社公連合政権構想により、公明党民社党との連携社公民路線)にかじを切り、結果として成田委員長時代まで共闘対象としていた日本共産党との関係断絶することとなった同年社会党大平内閣不信任決議案提出。その採決自民党内反主流派福田派三木派造反欠席したため、不信任決議案可決されハプニング解散)、衆参同日選挙突入した選挙戦では、社会党が「自民党金権腐敗軍事大国の道を歩んでいる」と批判するのに対し共産党が「社会党反革命である」と社会党批判さらには連合政権構想連携している民社党から「社会党防衛政策不明確である」と批判され、本来「反自民」で協調するべき野党内の足並み乱れ目立った。さらに選挙中に大平正芳首相急死したため自民党同情票が流れ自民党復調機会与えることとなった飛鳥自身東京1区定数3)でのトップ当選どころか自民党与謝野馨中曽根派)・大塚雄司福田派)に追い越され野党第1党党首ありながら最下位当選し首相の座から遠のいた印象与えた飛鳥田は「俺が苦戦するもしょうがねえや、ろくに地元にいねえんだもんな」と語ったという。 定員3人の東京1区では自民党与謝野大塚と、民社党無所属麻生良方現職で、社会党元衆議院議員加藤清政次点と言う構図だったが、加藤勝ち目無く人気の高い飛鳥田の1区参入により社会党議席獲得しようと言う目論見だった。加藤参議院鞍替えし、東京選挙区から立候補した落選したこのため加藤支持者からは飛鳥田に対す反発起こった選挙後加藤社会党離党し、翌1981年1月千代田区長選に自民党推薦立候補し当選同年5月には自民党に入党することになった1981年12月20日21日には党員による委員長公選実施し社会主義協会三月会・勝間田派などの支持によりこれに出馬選挙戦では右派求め公明党との共闘深化に対して慎重な立場打ち出す投票総数6票弱のうち得票率68%を得て武藤山治下平正一圧勝1982年には左派若手馬場昇書記長抜擢したことをきっかけ右派反発して党内では次第孤立していった。1983年参議院選挙での敗北理由委員長辞任し政界同時に引退し佐々木秀典地盤継承落選その後市民派弁護士として活躍した1990年10月11日脳梗塞のため75歳死去

※この「日本社会党委員長」の解説は、「飛鳥田一雄」の解説の一部です。
「日本社会党委員長」を含む「飛鳥田一雄」の記事については、「飛鳥田一雄」の概要を参照ください。

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