日本社会党委員長
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日本社会党中央執行委員会委員長(にっぽんしゃかいとうちゅうおうしっこういいんかいいいんちょう)は、1945年から1996年にかけて存在した日本社会党の最高責任者であり、党首に相当する。
- 1 日本社会党委員長とは
- 2 日本社会党委員長の概要
日本社会党委員長
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1986年、衆参同日選挙の惨敗を受けて石橋政嗣委員長が引責辞任すると、同年9月、副委員長から昇格し第10代社会党委員長に就任。党史上初の女性の委員長であり、憲政史上でも初の女性党首であった。書記長は山口鶴男。前・石橋体制の末期に階級政党からの脱皮と国民政党への指向をうたう「日本社会党の新宣言」が難航の末に採択されたばかりでそのしこりもあり、従来の社会党委員長同様に党内の左右対立をまとめる党運営が求められた。しかし、土井のはっきりした物言いのキャラクターが一般からの好感を獲得したことが土井の立場を後押しした。 時の首相は、改憲論者として知られる中曽根康弘であったが、土井は護憲・軍縮を掲げてこれに対抗。しかし中曽根は改憲の動きには出ないものの、社会党が堅持を強く求めていた防衛費1%枠を撤廃している。一方で内閣が提出した売上税法案に対しては社公民および社民連の4党統一組織を構築して抵抗、その間に行われた参議院岩手補選と第11回統一地方選挙で勝利し、廃案に追い込んでいる。中曽根から政権を引き継いだ竹下登は消費税導入を強行するが、土井は消費税導入およびリクルート事件を激しく追及、宮澤喜一大蔵大臣を辞任させ、そして竹下内閣を退陣に追い込む。 1989年の第15回参院選では、消費税・リクルート事件の追及の際に強化された社公民路線を基礎とし、連合の会候補を3党が推薦するといった選挙協力体制を構築する。結果、社会党が改選議席の倍以上を獲得、改選分では社会党が第一党、総議席では自民党が過半数割れの比較第一党という結果となる。これは土井の個人的人気に支えられた面も大きく、「土井ブーム(おたかさんブーム)」と評された(新人女性議員の当選が目立った点からは「マドンナブーム(旋風)」とも呼ばれた)。この時の土井の「山が動いた」も名文句として有名になった(与謝野晶子の詩「そぞろごと」冒頭「山の動く日来たる」をふまえている)。 選挙後も社公民路線を維持し、与野党が逆転した参議院での主導権を握る。その皮切りとして女性初の参議院内閣首班指名を受けた(衆議院の優越により、首相には衆議院で指名された自民党総裁の海部俊樹が41年ぶりの両院協議会(不一致)を経て就任)。また、消費税廃止公約が参院選大勝の要因であったこともあり、消費税廃止法案を社会党・公明党・連合の会・民社党の4党で提出し、12月11日、参議院で可決・通過させた(衆議院で廃案)。 1990年の第39回総選挙でもブームは続き、土井は総選挙で180人の候補を擁立する計画を立てたものの、中選挙区制で目標を満たすには複数候補の擁立が必須になることから、2人目を立てる対象になった選挙区の現職候補や、他の野党などから反発が起きた。また資金難から勧誘した人物と条件が折り合わないことも多く、実際の候補者は149人に留まった(他に無所属として推薦7、公認漏れ3)。それでも総選挙の結果、社会党は136議席(他、追加公認3で139議席)と51議席増やした。しかし、自民党も275議席(他、追加公認11で286議席)と安定多数を維持した。さらに、野党内での社会党の一人勝ちに公明党、民社党は距離を置き、両党は連合政権協議を打ち切り、自公民路線に舵を切った。そのため前回の参議院内閣首班指名の際と参議院の構成はほぼ変わっていないにも拘らず、両党が決選投票で棄権したため、今度は海部が参議院でも首班指名を受けることとなった。 1991年の第12回統一地方選挙で社会党は敗北し、土井は委員長を引責辞任した。
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日本社会党委員長
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1977年、同年の参院選敗北の責任を取り辞任した成田知巳の後任として日本社会党委員長に就任し、その3ヶ月後に横浜市長を辞任する。しかし地元の支持者たちからは市長辞任を反対され、飛鳥田は地盤の横浜から国政選挙に出馬することができなくなり、1979年の第35回衆議院議員総選挙にて旧東京1区(千代田区・港区・新宿区)から出馬し当選した。しかし、支持基盤のない東京1区からの出馬は飛鳥田に他の社会党国会議員の選挙応援に行く余裕を失わせ、飛鳥田の求心力を奪っていった。1978年の首班指名選挙で社会党は党首である飛鳥田委員長が非国会議員のため、副委員長の下平正一に投票した。 飛鳥田は委員長就任の条件として全党員による委員長公選制導入を成田委員長に実現させ、開かれた党を目指してイタリア共産党(当時)の「カード党員」をヒントにした百万党建設運動による党員拡大に力をいれたり、1983年の参議院議員通常選挙において一致する政策を期限を切って58の市民団体と政治契約を締結した。また、党本部書記に対しては綱紀粛正を指示したが、疲弊した党の再建は容易ではなかった。美濃部亮吉都知事が不出馬を表明した後で行われた1979年の都知事選挙に際しては経済学者の都留重人を擁立しようとしたが、支持母体である総評が議長を務めた太田薫の出馬を譲らず、最終的に押し切られる形となった。飛鳥田は、教条主義的と批判されていた「日本における社会主義への道」の改定に乗り出す。1980年の公明党との社公連合政権構想により、公明党・民社党との連携(社公民路線)にかじを切り、結果として成田委員長時代まで共闘の対象としていた日本共産党との関係を断絶することとなった。 同年、社会党は大平内閣不信任決議案を提出。その採決に自民党内反主流派の福田派・三木派が造反し欠席したため、不信任決議案が可決され(ハプニング解散)、衆参同日選挙へ突入した。選挙戦では、社会党が「自民党は金権腐敗で軍事大国の道を歩んでいる」と批判するのに対し、共産党が「社会党は反革命である」と社会党を批判。さらには連合政権構想で連携している民社党から「社会党の防衛政策は不明確である」と批判され、本来「反自民」で協調するべき野党内の足並みの乱れが目立った。さらに選挙中に大平正芳首相が急死したため自民党に同情票が流れ、自民党に復調の機会を与えることとなった。飛鳥田自身、東京1区(定数3)でのトップ当選どころか自民党の与謝野馨(中曽根派)・大塚雄司(福田派)に追い越され野党第1党の党首でありながら最下位で当選し、首相の座から遠のいた印象を与えた。飛鳥田は「俺が苦戦するのもしょうがねえや、ろくに地元にいねえんだもんな」と語ったという。 定員3人の東京1区では自民党の与謝野、大塚と、民社党系無所属の麻生良方が現職で、社会党元衆議院議員の加藤清政が次点と言う構図だったが、加藤に勝ち目は無く、人気の高い飛鳥田の1区参入により社会党は議席を獲得しようと言う目論見だった。加藤は参議院に鞍替えし、東京選挙区から立候補したが落選した。このため、加藤の支持者からは飛鳥田に対する反発が起こった。選挙後、加藤は社会党を離党し、翌1981年1月の千代田区長選に自民党推薦で立候補し、当選、同年5月には自民党に入党することになった。 1981年12月20日~21日には党員による委員長公選を実施し、社会主義協会・三月会・勝間田派などの支持によりこれに出馬。選挙戦では右派の求める公明党との共闘深化に対して慎重な立場を打ち出す。投票総数6万票弱のうち得票率68%を得て武藤山治、下平正一に圧勝。 1982年には左派若手の馬場昇を書記長に抜擢したことをきっかけに右派が反発して、党内では次第に孤立していった。1983年、参議院選挙での敗北を理由に委員長を辞任し、政界も同時に引退し佐々木秀典が地盤継承も落選。その後は市民派の弁護士として活躍した。1990年10月11日、脳梗塞のため75歳で死去。
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