イタリア共産党
イタリア共産党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 04:43 UTC 版)
「パルミーロ・トリアッティ」の記事における「イタリア共産党」の解説
第一次世界大戦前、イタリア社会党に入党。戦後1919年に、トリノでアントニオ・グラムシの「L'Ordine Nuovo」(新秩序)誌のグループの一員となる。1921年にイタリア共産党に参加し、1922年の第2回党大会で中央委員に選出される。1926年にグラムシがベニート・ムッソリーニのファシスト政権によって投獄された後、イタリア共産党の最高指導者となった。 しかし後の後ムッソリーニ政権下でフランス、スペイン、ソビエト連邦などを放浪し、1934年にソ連に亡命(その間、1935年のコミンテルン第7回大会では、統一戦線問題に関しての報告を担当している)を余儀なくされるものの、ヨシフ・スターリンによる粛清下で生き延びた。また1936年から1939年にかけて、コミンテルン代表としてスペイン内戦に関与した。
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イタリア共産党
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「エンリコ・ベルリンゲル」の記事における「イタリア共産党」の解説
ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党がイタリアを支配していた1937年に、地元のサルデーニャ島の反ファシスト運動組織に身を投じ、その後ムッソリーニが第二次世界大戦に枢軸国として参戦したものの、連合国に降伏し失脚した1943年にイタリア共産党に入党した。 その後共産党の最高指導者を長く勤めたパルミーロ・トリアッティを父親から紹介され、1944年には連合国軍により解放されたサルデーニャ島の党組織を任されるものの、第二次世界大戦終結後の1946年には書記長となったトリアッティにローマの党本部に招かれ、イタリア共産党の中枢を占める一員となる。 その後は、共産主義が否定する貴族の家柄にもかかわらず党内で頭角をあらわし、1957年には世界民主主義青年連盟の会長に就任するなど要職を歴任し、度々モスクワを訪れた。
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