倭の五王 倭の五王の概要

倭の五王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/28 22:28 UTC 版)

概要

中国六朝(南朝六代:呉、晋、宋、斉、梁、陳)の第三王朝である宋帝国の正史『宋書』(513年ごろ完成)には、宋代(420-479)を通じて倭の五王の遣宋使が貢物を持って参上し、宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが記されている。宋に続くの正史『南斉書』(537年)、の正史『梁書』(619年)、南朝四代:宋、斉、梁、陳の正史『南史』(659年)においても、宋代の倭王の遣使について触れられている。また宋に先立つの正史『晋書』(648年)にも五王の先駆とも考えられる記事がある(後述)。一方、日本側の史料である『古事記』と『日本書紀』は宋への遣使の事実を記していないが、『日本書紀』は倭の五王に比定される歴代大王(天皇)のうち応神天皇仁徳天皇雄略天皇の時代に「」との間で遣使の往来があったとする(後述)[注 2]。「呉」は六朝(南朝)最初の王朝であり、中華帝国そのものを意味したと考えられる[1]

倭の五王の遣宋使の目的は、中国の先進的な文明を摂取すると共に、中国皇帝の威光を借りることによって当時の倭(ヤマト王権)にまつろわぬ諸豪族を抑え、国内の支配を安定させる意図があったと推測される。倭王は自身のみならず臣下の豪族にまで官爵を望んでおり、このことから当時のヤマト王権の支配力は決して超越的なものではなく、まだ脆弱だったと見る向きもある[2]。438年の遣使では、「珍」が「」ら13人に「平西・征虜・冠軍・輔国将軍」の除正(承認)を求めているが、このとき「珍」が得た「安東将軍」は宋の将軍表の中では「平西将軍」より一階高い位でしかなく、倭王の倭国内における地位は盟主的な存在であった可能性が窺える[注 3]。451年にも、やはり倭済が23人に軍郡(将軍号・郡太守号)の授与を申請している[3]

また朝鮮半島諸国との外交を有利に進め[注 4]、なおかつ4世紀後半以降獲得した朝鮮半島における権益に関して国際的承認を得ることも遣宋使の重要な目的であった[4]5世紀の倭の五王はそれぞれ南朝の宋に対して、いずれも官爵を要請したことが知られるが、その政策の背景には、高句麗の南下に対抗して、朝鮮半島における軍事権を確保しようとする意図があったことが指摘されている[5]。この倭王の官爵要請は、中国王朝から冊封されることによって、中国王朝を中心とする政治的秩序構造に参加し、それによって自国の権威を高め、高句麗に対抗しようとしたものであり、このことを最も明確に示しているのが、かの有名な武の上表であり、武の上表には、倭は宋の遠辺に位置するその藩国であり、宋のために周辺の小国を平定して宋の範囲を拡大したことが記載されており、これは宋を天下の中枢とみなし、宋による世界秩序を至上の秩序とする態度に外ならない[5]。その為、倭王たちは宋帝に朝鮮半島の軍事的支配権を承認してくれるよう繰り返し上申し、上述の通り438年に珍は「使持節 都督 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」の承認を要求したが、「安東将軍倭国王」以外は却下された。

451年に南朝は百済の一字を名乗る済に対して倭本国、新羅、任那加羅秦韓、慕韓の軍事的支配権を承認し、武も「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」を授与されたが、南朝と国交のある百済だけは承認せず、武は百済に対する軍事的支配権の承認を繰り返し要求したことが記録されている[6]

宋書』倭国伝にある武の478年遣使の際の上表文には「東は毛人55国を征し、西は衆夷66国を服す。渡りては海北95国を平ぐ云々」とあって、大和朝廷の国土統一、朝鮮半島遠征の状況過程を伝え[7]、百済の国名と父・済の名を出して思いを訴えている。

高句麗王は、395年慕容宝によって「平州牧」となり「封遼東・帯方二国王」に封ぜられ、413年安帝より「使持節 都督 営州諸軍事 征東将軍 高句麗王 楽浪公」に封冊され、420年には武帝より「征東大将軍」に、422年には「散騎常侍」を加え「督平州諸軍事」を増され、時の高句麗王の称号は「使持節 散騎常侍 都督 営平二州諸軍事 征東大将軍 高句麗王 楽浪公」ということとなった。この称号の意味するところは、高句麗王の「楽浪」地方の支配権はもとより、北燕勢力下の「営・平二州」の軍事権をも認めたもので、実力が伴うならば、この地方を征服して治下におさめてもよろしいというの承認を、高句麗王は得たこととなる[8]

倭王は、430年までに「使持節 都督 倭・新羅・任那・秦韓・慕韓五国諸軍事 安東大将軍 倭王」に封ぜられていたものとみられるが、451年には確実に「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に封冊されている。倭王は、百済を除く南朝鮮の軍事的支配権を認められていた[8]

倭の五王と中国王朝との交渉は421年の讃の宋への遣使にはじまるが、宋は前年の王朝創建時に周辺諸国王の将軍号を進め、高句麗王・百済王もその地位を薦められたが、倭王はこの昇進にあずからず、翌年、遣使して初めて任官されており、この違いは、宋の前王朝である東晋との交渉の有無と関係があり、倭が東晋と正式な交渉をもっていなかったことを物語る、という指摘がある[9]

478年の遣宋使を最後として、倭王は宋代を通じて1世紀近く続けた遣宋使を打ち切っている。『日本書紀』における21代オホハツセノワカタケル=大迫瀬幼武天皇(雄略天皇)の在位期間は「興」及び「武」の遣使時期と重なり(後述)、このワカタケルと思しき名が記された稲荷山古墳出土鉄剣の銘文では、中国皇帝の臣下としての「王」から倭の「大王」への飛躍が認められる。また、江田船山古墳出土鉄刀の銘文には「治天下大王」の称号が現れている。このことから、倭王が中華帝国の冊封体制から離脱し自ら天下を治める独自の国家を志向しようとした意思を読み取る見方もある[10][11][12]

あるいは、倭の五王が宋に使節を派遣したのは、宋が倭王の権威の保障となる存在であったからであり、斉に1度使節を派遣したものの2度目以降が無かったのは、斉が倭王の権威の保障にならない存在であったからであるとする見方もある[13]

七支刀の時代について『日本書紀』は百済との関係を百済側が積極的に交渉を求めて来たのだと記述している。つまり、日本は百済に対してさほど関心がなかったということである[14]。当時の百済は高句麗と激闘を繰り返し、高句麗王斯由を戦死に追い込むほど国力が盛んであり、372年には東晋から鎮東将軍・領楽浪太守の地位を与えられ、高句麗領の「楽浪」を支配する名目的な地位を獲得した。当時の百済は南方の任那にさして関心はなく、倭との関係を求めたのは、この任那に勢力を伸ばして来ている倭に関心をもったからであろう[14]。関心はやがて積極的に倭軍を利用しようとする動きに変わるが、その状況を物語るのが好太王碑である。好太王の主要な敵は日本(倭)であり、しかも繰り返し倭軍を攻撃している。倭がはるか平壌近くまで出兵する理由は百済の介在によって明らかとなり、百済の求めに応じて倭は派兵し、高句麗はそのため倭軍と戦わざるを得なかった。百済の救援要請は当然のことながら倭王の地位を高めることになり、それが倭の五王の「都督百済諸軍事」(百済を軍事的に支配する権限)の背景となる。好太王碑に好太王が新羅の要請を入れて倭軍と戦った記事もあり、倭の五王が称号に新羅における軍事支配権(「都督新羅諸軍事」)を主張する背景がここにある。しかも、新羅は高句麗の勢力を背景にして倭の勢力を排除するが、高句麗の勢力下に組み込まれたために、今度はこの高句麗を排除するため、倭の軍事力に依存しようとしたとも伝えられている。それがますます倭王の新羅に対する優位性、つまりは「都督新羅諸軍事」の主張の背景となった[14]。「秦韓」は辰韓で新羅の母体であり、「慕韓」は馬韓で百済の母体である。これらの地域を新羅や百済が完全に制圧するまでは新羅や百済に支配されることを望まない勢力があり、これらは倭に依存し、それが倭王の「都督秦韓・慕韓諸軍事」の背景となった[14]。「任那」はかつての弁韓であり、新羅百済には属さず、倭の勢力に依存し、独立的な様相を呈していた。「都督任那諸軍事」はこの任那に対する倭王の軍事支配権の主張である。その後、「都督諸軍事」に「加羅」が加号されるが、『南斉書』に建元元年(479年)加羅国王が独自に南斉に朝貢し、その王が「輔国将軍・加羅国王」に封冊されることと関係がある。つまり、高霊加羅の独立的な動きを背景にした称号追加だった[14]

倭の五王は『日本書紀』にはまったく記述がなく、『三国史記』にも直接的な対応史料はない。倭の五王は朝鮮諸国との関係からみれば、「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」(倭珍)とか、「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」(倭武)などの称号からうかがうことができるように倭国は当然のこととして、百済、新羅、任那、秦韓、慕韓、加羅の南朝鮮全体を軍事的に支配しているようにみえるが、他方、倭王は宋に服属し、自らをその藩王の地位に位置づけていた[14]。推古朝以来、「日出處天子致書日沒處天子無恙(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや)」と、自らをの皇帝と同じく天子と位置づけ、中国との対等外交を求めた日本の古代貴族にとって、倭の五王の外交は認め難いことが、『日本書紀』編者が倭の五王に関する『宋書』などの中国史料の記述を採用せず、倭の五王について無視してしまった最大の理由とみられる。それでは『日本書紀』に倭の五王の関係記事がまったくないのかといえば必ずしもそうでもない[14]。前述のように『日本書紀』には応神天皇、仁徳天皇、雄略天皇の時に呉国と交渉をもったことが記されているが、呉国は三国時代の呉の地を指し、この地は倭の五王が交渉をもった宋の地である[14]。また、倭讃司馬曹達を宋に派遣したが、呉国に派遣されたのは、応神朝では阿知使主都加使主、雄略朝では身狭村主青檜隈民使博徳であったといい、雄略天皇は「大悪天皇」と天下の誹謗をうけたが、「唯愛寵する所は、史部の身狭村主青と檜隈民使博徳等のみ」であったといい、呉国に派遣されたのは渡来系の人々、しかも「史部」という文筆に携わっていた人々であった[14]

倭の五王の官職号

倭王たちは宋帝に半島南部の軍事的支配権を承認してくれるよう繰り返し上申した。珍は認められず、百済の一字を取って改名したかもしれない済は「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東将軍 倭国王」を授与された。新羅任那加羅秦韓・慕韓の統治についての公認を得たものの、百済に関してはその後の武も含めてついに認められなかった。この理由としては、宋が北魏を牽制するため戦略上の要衝にある百済を重視したこと、倭と対立する高句麗(『宋書』における呼称は高驪)の反発を避けようとしたものと考えられる[15]。また、倭王の将軍号は高句麗王・百済王と比較して常に格下であったが、これも同様に高句麗・百済の地政学的な重要性を考慮したものとする主張があり[16]、特に韓国では、中国の官職制度は、四安将軍→四鎮将軍→四征将軍と昇進するため、高句麗王(「征東(大)将軍」)、百済王(「鎮東(大)将軍」)、倭王(「安東(大)将軍」)軍号には上下優劣関係がある、すなわち、東夷の諸王に正式に除正された地位は、高句麗を最上位とし、続いて百済、最後に倭という序列は、南北朝時代を通じて変わることはなく[17]、その叙任にあたっては三国に対する重要度が反映しており、宋代を通じて三国間に身分の違いがあり、将軍号の序列において百済王より劣る倭王が百済の軍事的支配権を意味する「都督百済諸軍事」号を要求することなど論外という評価がある[18]。朴鐘大は、「同じ時期の冊封が百済は鎮東大将軍であり、倭は序列が低い安東将軍に過ぎないにも拘わらず、百済を包含する韓半島南部を軍事的に支配したというのは論理的に成立しえない主張である」と述べている[18]。これに対して、一見すると序列があるようにみえるが、事実は南朝(東晋・宋)への入貢順に東方将軍号の上位から授けられたもので、南朝側による格付けでもなく、また国際的評価によるものでもなく、三国間に上下優劣の関係はなく、倭に対する評価が高句麗・百済よりも低く、それが「安東(大)将軍」に表れているとみなすことはできないという反論がある[19]

坂元義種は、南朝が倭王の百済に対する軍事的支配権を承認しなかったのは、北魏を封じ込めるために国際政策上百済を重視し、「南朝が、最強の敵国北魏を締めつける国際的封鎖連環のなかに百済をがっちりとはめこんで、その弱化を認めまいとする、南朝の国際政策」であり[20]、南朝が倭王の席次や軍号が百済王より下位であるため百済に対する軍事的支配権を承認しなかったという主張は、南朝は倭王の軍号を高めて百済の上位にすることはいくらでも可能であるため、「本末転倒した主張」と指摘している[20]

石井正敏は、倭王が百済王よりも下位であるなら、上位である「鎮東(大)将軍」である百済の軍事的支配権を、下位である「安東(大)将軍」である倭王が執拗に要求しているのは何故かという素朴な疑問が生じることを指摘している[18]。南朝から冊封され、希望する官爵を自称し、除正を求めるだけでなく、部下にも南朝の将軍号を仮授した上で除正を求めている倭王が、南朝の官爵制度を理解していないことは考えられず、百済の軍事的支配権を主張した倭王は「安東(大)将軍」でも「都督百済諸軍事」号要求は可能であることを認識していたと考えざるを得ず、何故なら倭王が、自らの「安東(大)将軍」が百済王の「鎮東(大)将軍」よりも下位であり、「都督百済諸軍事」号要求が不当な要求であることを認識していたならば、百済王と同等の「鎮東(大)将軍」、さらに上位の「征東(大)将軍」を自称し、除正を要求する、あるいは承認されないことを承知の上でも自称するはずであり、それは高句麗との対決を明確にした武は、高句麗王と同等の待遇である「開府儀同三司」を自称し、除正を求めていることからも裏付けられる[21]。 

坂元義種は、百済王に鎮東将軍が授与された40年後に高句麗王に百済王よりも上位である「征東将軍」が授与されていることから、任官の先後が、軍号の上下を決定するものではないと主張している[21]

義熙九年(四一三)、東晋は数十年ぶりに使者を送ってきた高句麗王に征東将軍を授けたが、この将軍号は百済王の鎮東将軍よりも上位のものであった。なお、この間、百済王は咸安二年(三七二)に余句が、太元十一年(三八六)には余暉が、それぞれ鎮東将軍に任命され、また咸安二年・太元九年の朝貢も知られている。このことは、対中交渉の時期や交渉回数の多寡、あるいは任官時期のあとさきが、かならずしも任官内容を決定するものではないことを示しているといえよう。つまり、任官内容を決定するものは、中国王朝の国際政策や諸国に対する国際的評価などであったと思う。 — 坂元義種、倭の五王

これに対して石井正敏は、高句麗王が南朝から将軍号を授与された初見は413年であるが、高句麗の故国原王355年前燕に遣使して征東大将軍を授与されていること、また、高句麗王が336年343年に東晋に朝貢しており、『晋書』には冊封の有無は記録されていないが、同一王(故国原王)による2度の朝貢に際して、朝貢しておきながら、見返りである官爵を求めなかったことは考え難いことから、少なくとも2度目の朝貢では軍号を授与されていることは考えられ、また東晋・宋が、いつ朝貢するかも分からない高句麗のために東方将軍号の最上位を空席にして待っていたとも考え難く[22]、高句麗に先行して朝貢した百済に「征東将軍」を授与するのが自然であるにもかかわらず、百済王に「鎮東将軍」が授与されていることは、336年ないし343年の朝貢に際して高句麗王に「征東将軍」を授与されている可能性が高い[22]。したがって、軍号授与は、高句麗→百済→倭の順となり、高句麗、百済、倭に対する東方将軍号は、南朝への入貢順に東方将軍号の上位から授与されたものであり、高句麗王、百済王、倭王に上下優劣があるという主張には従えず、倭王は南北朝時代を通じて「安東大将軍」を自称するに留まり、「鎮東(大)将軍」「征東(大)将軍」を要求しなかったのは、百済の軍事的支配権要求は「安東(大)将軍」で十分かつ「安東(大)将軍」は「鎮東(大)将軍」に劣るとは認識しておらず、実際に「安東(大)将軍」で「都督百済諸軍事」を得られると理解していたからであり、「安東(大)将軍」のままで「都督百済諸軍事」を要求したことに問題はなかったことを指摘している[19]。また、倭王による「都督百済諸軍事」要求は、百済領は一地域二軍事権の対象外であり、制度上許可できないため、南朝が「都督百済諸軍事」を倭王に承認しなかったのは、すでに百済王に「都督百済諸軍事」を授与していたからであり、倭王の軍号が百済王の軍号に劣るという理由に基づくものではないことも指摘している[23]


注釈

  1. ^ 5代5人ならば王位の継承は4回行われたはずであるが『宋書』倭国伝では3回に留まり、珍の死と済の即位は記されていない。『梁書』倭伝では4回である。
  2. ^ 『書紀』の応神天皇紀三十七年二月条「遣阿知使主都加使主於呉令求縫工女」、四十一年二月条「阿知使主等自呉至筑紫」、仁徳天皇紀五十八年十月条「呉国高麗国並朝貢」、雄略天皇紀五年条「呉国遣使貢献」、八年二月条「遣身狭村主青檜隈民使博徳使於呉国」十年九月条「身狭村主青等将呉所献二鵝」など。
  3. ^ ただし、倭隋の「倭」を姓として倭王の一族と見る説もある。
  4. ^ 倭の遣使が東晋の南燕征服による山東半島領有(410年)以後、北魏の南進が本格化する470年代にかけての時期に集中しているのは、山東半島の南朝支配によって倭および三韓からの南朝への航海の安全性が増す一方で、東晋の東方諸国に対する政治的・軍事的圧力を無視できなくなったという見解を大庭脩川本芳昭はとっている。
  5. ^ 「開府儀同三司」は官庁を開き官僚を置くことのできる名誉職で、当時倭国と対立する高句麗の長寿王が任ぜられていた。
  6. ^ 鎮東大将軍→征東将軍では進号にならないため、征東大将軍の誤りとされる。
  7. ^ しかし当時激しく敵対していた高句麗と倭国が共に入貢するとは到底考えづらい。
  8. ^ 続柄が無いのではなく、後述する通り「珍死(続柄)済立」という一連の王位継承過程全部が無いのである。
  9. ^ 和風諡号『古事記』品陀和氣命、『日本書紀』譽田天皇。『日本書紀』一伝に笥飯大神と交換して得た名である譽田別天皇、『播磨国風土記』品太天皇、『上宮記逸文凡牟都和希王
  10. ^ 和風諡号『日本書紀』多遅比瑞歯別尊、『古事記』水歯別命
  11. ^ 和風諡号『日本書紀』雄朝津間稚子宿禰尊、『古事記』男淺津間若子宿禰王
  12. ^ 和風諡号『日本書紀』穴穂天皇。穴穂皇子
  13. ^ 皇極天皇3年1月1日条「中臣鎌子連、為人忠正、有匡済心」とある。済の場合、高句麗を討って百を救う意味も含まれるか。
  14. ^ 『日本書紀』雄略天皇21年春3月条「天皇聞百濟爲高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其國」から「興」は父と共に百済を救い興す意図で選ばれたと考えられる。
  15. ^ 通説では「済=允恭、珍=反正」とするが、反正は437年に没しており、珍は438年に朝貢している。
  16. ^ この説は那珂通世によって提唱されたが、『宋書』による限り「珍」と「済」は改名した同一人物かもしれず、その場合は茅渟(ちぬ、珍努または珍とも表記)に行宮があったと伝わる允恭天皇が該当すると考えられ、珍と反正天皇の年代の矛盾は解消する。即ち「倭の四王」となる。
  17. ^ この説は前田直典によって提唱された。

出典

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