檜隈民使博徳
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檜隈民使 博徳(ひのくま の たみのつかい はかとこ、生没年不詳)は、日本古代の官吏・側近・豪族。外交官。 雄略朝の史部、文筆に携わった人で、中国南朝の宋王朝、『日本書紀』のいう呉国に使者として、二度にわたって赴いたと伝えられている中国系渡来人[1]。
- ^ a b c d 坂元義種「日本書紀朝鮮・中国関係記事注釈 : 巻第十四雄略天皇」『京都府立大学学術報告 人文・社会』第51巻、京都府立大学学術報告委員会、1999年12月、3-4頁、ISSN 1343-3946。
- ^ 『日本書紀』雄略天皇二年十月条
- ^ 『日本書紀』雄略天皇八年二月条
- ^ 『日本書紀』雄略天皇十二年四月四日条
- ^ 『日本書紀』雄略天皇十四年一月十三日条
- ^ 『続日本紀』巻第三十、神護景雲四年(770年)三月十日条に「民使毗登曰理(たみのつかい ひとわたり)をかりに会賀市司(えがのいち の つかさ)に任じた」という記述が見える。『文書』には経師の民使石山、隠岐国史生である民使古麻呂、民部省の官人である民使豊久などの名が見られる。
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