倭の五王
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倭の五王の関係性(『珍』と『済』の続柄について)
議論の経緯
1968年に刊行された「倭の五王」のなかで藤間生大は「宋書」倭国伝が『珍』と『済』の血縁関係を記さなかったのは、血縁関係がなかったからか、あったとしても済はその事実を無視して本人が初代であると主張したかのどちらかだという、当時としては斬新な問題提起を行った。
藤間の問題提起を積極的にうけとめたのが、原島礼二の「倭の五王とその前後」であった。さらに藤間ー原島説を継承する川口勝康の「巨大古墳と倭の五王」も発表され「二つの大王家」論は有力な説となった。
しかし吉村武彦は、最初の倭の五王は倭国の「倭」の字を姓として倭讃を名乗っていたこと。その後、元嘉15年の使者の派遣の際に「倭隋」ら13人に平西・征虜などの将軍号が除正され認められているが、この倭隋も「倭」が姓で「隋」が名である王族の一人と推定される。問題となる珍と済との血縁関係は『宋書』文帝紀、元嘉28年条に『安東将軍倭王倭済』という記述があり、「倭王である倭済」とあり中国側は倭国王を父系の同一氏族集団として扱っており続柄が記されていないのはミスであろうと述べている[43]。
また「倭」が倭国王の姓であることは、古く菅政友が「漢籍倭人考」で指摘し、朝鮮史研究者の武田幸男が「平西将軍・倭隋の解釈」の論文で説得的に述べたとも紹介している[44]。
ちなみに「梁書」には珍と済は父子関係になっている[45]。
血縁の有無を巡る説
単一系統・同族集団説
2018年には河内春人が『倭讃』は「近年の研究で『倭』は国名ではなく姓であり、『讃』が名前にあたる」とし、一文字の名乗りは百済の影響であると論じている。続柄が不明な事から王朝交替説もある『倭済』についても遠縁からの即位など何等かの断絶があった可能性は認めつつも[46]、基本的には「それ以前の倭国王と同族だったことは間違いない」として「父系の同族集団」であったと見ている。
水谷千秋は坂本義種、武田幸男が倭の五王は「倭」が姓で「讃」や「隋」が名前であることを明らかにしたとし、初代の讃から武まで一貫して倭という姓を名乗っている。関和彦はこのことから、「珍」と「済」は続柄こそ記されていないが、同じ父系親族の一員であると主張したとした。また倭王武の上表文を挙げてもし藤間らの考えるように珍と済に血縁関係はないとするならば、「武」にとっての「祖禰」は父の「済」と兄の「興」のふたりだけになるが、「祖禰」という表現はどう考えても数世代前の人々を含む表現であるとし、やはり五人の倭王は同じ父系親族に属していたと考えるのが順当だろうとしている[47]。
王統交代・多系統並立説
古市晃(神戸大学教授)は、珍と済の間に血縁関係を記してないことに対し、『宋書』は他の王朝の血縁関係には注意を払っており、珍と済に血縁関係が無いのは事実とみるべきであるとし、「記紀」の王統譜との対応関係を重視すれば、讃、珍はそれぞれ履中、反正であるとし、『宋書』と「記紀」の系譜の対応関係に注目するならば、済すなわち允恭以降とそれ以前の倭王とでは血縁関係がなく、倭王を輩出する王族集団は少なくとも複数存在したことになるのである。と指摘している[48][疑問点 ]
佐藤長門は、珍と済の続柄が記されていないのは、そこで王統の断絶が起こっており、血縁関係の無い王族グループが複数存在し、その中から王権の継承が行われていたとしている[49]。
森公章は倭王が「倭」姓を共通としていることや百済と比べて家臣等と官爵の格差が少ないことから、倭国は王と同族または拮抗する多くの人々が王権を補佐する構造であり、讃、珍と済、興、武のつながりは不明としながらも二つの王統があった可能性を指摘している[50]。
注釈
- ^ 5代5人ならば王位の継承は4回行われたはずであるが『宋書』倭国伝では3回に留まり、珍の死と済の即位は記されていない。『梁書』倭伝では4回である。
- ^ 『書紀』の応神天皇紀三十七年二月条「遣阿知使主都加使主於呉令求縫工女」、四十一年二月条「阿知使主等自呉至筑紫」、仁徳天皇紀五十八年十月条「呉国高麗国並朝貢」、雄略天皇紀五年条「呉国遣使貢献」、八年二月条「遣身狭村主青檜隈民使博徳使於呉国」十年九月条「身狭村主青等将呉所献二鵝」など。
- ^ ただし、倭隋の「倭」を姓として倭王の一族と見る説もある。
- ^ 倭の遣使が東晋の南燕征服による山東半島領有(410年)以後、北魏の南進が本格化する470年代にかけての時期に集中しているのは、山東半島の南朝支配によって倭および三韓からの南朝への航海の安全性が増す一方で、東晋の東方諸国に対する政治的・軍事的圧力を無視できなくなったという見解を大庭脩や川本芳昭はとっている。
- ^ 「開府儀同三司」は官庁を開き官僚を置くことのできる名誉職で、当時倭国と対立する高句麗の長寿王が任ぜられていた。
- ^ 鎮東大将軍→征東将軍では進号にならないため、征東大将軍の誤りとされる。
- ^ しかし当時激しく敵対していた高句麗と倭国が共に入貢するとは到底考えづらい。
- ^ 続柄が無いのではなく、後述する通り「珍死(続柄)済立」という一連の王位継承過程全部が無いのである。
- ^ 和風諡号『古事記』品陀和氣命、『日本書紀』譽田天皇。『日本書紀』一伝に笥飯大神と交換して得た名である譽田別天皇、『播磨国風土記』品太天皇、『上宮記』逸文凡牟都和希王
- ^ 和風諡号『日本書紀』多遅比瑞歯別尊、『古事記』水歯別命
- ^ 和風諡号『日本書紀』雄朝津間稚子宿禰尊、『古事記』男淺津間若子宿禰王
- ^ 和風諡号『日本書紀』穴穂天皇。穴穂皇子
- ^ 皇極天皇3年1月1日条「中臣鎌子連、為人忠正、有匡済心」とある。済の場合、高句麗を討って百済を救う意味も含まれるか。
- ^ 『日本書紀』雄略天皇21年春3月条「天皇聞百濟爲高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其國」から「興」は父と共に百済を救い興す意図で選ばれたと考えられる。
- ^ 通説では「済=允恭、珍=反正」とするが、反正は437年に没しており、珍は438年に朝貢している。
- ^ この説は那珂通世によって提唱されたが、『宋書』による限り「珍」と「済」は改名した同一人物かもしれず、その場合は茅渟(ちぬ、珍努または珍とも表記)に行宮があったと伝わる允恭天皇が該当すると考えられ、珍と反正天皇の年代の矛盾は解消する。即ち「倭の四王」となる。
- ^ この説は前田直典によって提唱された。
出典
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- 1 倭の五王とは
- 2 倭の五王の概要
- 3 「都督百済諸軍事」について
- 4 年表
- 5 天皇と倭の五王
- 6 倭の五王の関係性(『珍』と『済』の続柄について)
- 7 『古事記』『日本書紀』の紀年との対応関係
- 8 脚注
固有名詞の分類
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