金村義明 エピソード

金村義明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/19 03:20 UTC 版)

エピソード

プロ入り前

  • 野球以外のスポーツでは、報徳学園中学校時代に、柔道で初段を取得した。また、自身が12歳の頃から実母が宝塚カントリークラブで長らくキャディーを務めていた[37] 縁で、少年時代から折に触れてゴルフをプレー[30]、現役引退後は、チャリティーゴルフコンペにたびたび参加しているほか、香妻陣一朗・浅地洋佑といったプロゴルファーと盛んに交流している[38]
    • 近鉄での現役選手時代に授かった三男の昭典も高校時代まで野球選手を目指していたが、当時10代だった石川遼の活躍に金村が感化されていた影響で、高校野球の名門・浦和学院高等学校から石川の母校(杉並学院高等学校)へ転校。転校後は、杉並学院や日本体育大学のゴルフ部で活動していた。諸般の事情でプロゴルファーへの道を断念してからは、ゴルフ雑誌『EVEN』の編集部員や浅地の専属キャディーを経て、2019年からフリーランスのプロキャディーとして活動している[38]
  • 小学校時代は、体育を含めて学業成績がおおむね優秀で、在学中の6年間にわたって学級委員を務めた。もっとも、実家は裕福と程遠く、実母は宝塚カントリークラブでキャディーを始めるまで内職で家計を助けていた[39]。また、物流用トラックの運転手だった実父からは、中学校からの卒業後に就職することを勧められていた。しかし、報徳学園高校の硬式野球部が甲子園球場の全国大会でたびたび逆転勝利を収めてきた話を実母から聞いたことをきっかけに、プロ野球より同校に憧れを持つようになったという[8]。このような経験から、現役引退後は、高校野球の特待生制度に賛成する立場を表明している[40]
    • 実兄の広雄も報徳学園高校出身(外野手)で、在学中に強打者として鳴らした後に河合楽器へ入社[41]。当時活動していた硬式野球部小川淳司習志野市立習志野高等学校中央大学)とチームメイトになったが、若くして死去した。奇しくも小川は、義明が近鉄から指名された1981年のNPBドラフト会議で、ヤクルトスワローズから4位で指名。現役引退後も、同球団で一・二軍の監督やフロントの要職(ゼネラルマネジャーなど)を務めているほか、義明とも面識がある。
  • 1981年9月の日韓親善高校野球に、日本選抜チームの1人として出場[2]。家族とともに韓国に渡った。当時の金村家は全員が朝鮮籍を保有していたため、渡韓の前には、臨時パスポートの取得に苦労したという[2]。しかし、在韓中に政府の計らいで、実父の幼少期に生き別れになった釜山在住の姉2人とソウルで再会。普段無口だった実父は、再会の際に号泣した。この歓待で「韓国のイメージが変わった」という金村家は帰国後、一家全員で韓国籍に切り替えた[2]。ちなみに、在日2世の実母からは、「ヨッちゃん(義明)は日本人じゃないから、負けたらあかん(ダメ)。(他人の)3倍の努力をせなあかん(しなければならない)」「人間はみんな一緒なんだから堂々と生きろ」と言い聞かされていたという。また、実父は2019年6月に永眠した[37]
    • 金村本人は、試合の合間に現地の女性とお忍びで遊び過ぎたことが祟って、日本への帰国後に泌尿器科医の診察を受けたという。
  • 『在日魂』によれば、近鉄からはドラフト前の時点で、「(東海大学から前年に読売ジャイアンツへドラフト1位で入団した)原辰徳の契約金(推定8,000万円)と年俸(推定840万円)を上回る金額と、(関連会社の近鉄不動産が扱っている)土地を用意する」という条件を出されていたとされる。しかし、ドラフト会議後に球団社長と代表が交代したことから、球団スタッフの顔触れも一新。上記の条件が口頭での約束に過ぎなかったことを理由に、白紙の状態で入団交渉を始めたため、金村本人は「まるで詐欺やないか」と思ったという。そのため、交渉はしばしば決裂。在阪スポーツ紙などから実母がバッシングを受ける事態にまで至ったが、契約金6,000万円、年俸380万円(金額はいずれも推定)という条件で近鉄に入団した。ちなみに入団後は、契約金を全額両親に渡したうえで、両親のために近鉄不動産から実勢価格より3%安い金額で土地を購入したという[42]。また。実母は金村の入団を機に、宝塚カントリークラブを退職。自宅のある宝塚市内で長らく焼肉店を営んでいたが、閉店を経て隠居している[37]

近鉄時代

  • 入団時の背番号は28であったが、それまで28番を付けていた花房健が着ていたユニフォームが、背ネームのワッペン(HANABUSA)を外しただけで入団会見の直前に金村へ引き継がれた。当時の近鉄球団ではそのような引き継ぎが当たり前で、入団記者会見の際に新品のユニフォームをあてがわれた新人選手は、金村と同じく高校3年時に夏の選手権全国大会の決勝で投げた経験を持つ太田幸司(1970年にドラフト1位で入団)だけであったという[43]。ちなみに太田は、金村が入団した1982年のみチームメイトだったが、1983年に読売ジャイアンツへ移籍。1984年に阪神タイガースで現役を引退してからは、金村と同じく、毎日放送の野球解説者として活動している。
  • 近鉄への入団当時は、「球友寮」(当時の本拠地の1つ・藤井寺球場の場外にあった球団合宿所)に住んでいた。しかし、前述した入団までの経緯に加えて、高卒ルーキーながらパンチパーマで入寮したことから、入寮後はドラフト1位入団の金村をやっかむ先輩選手から陰湿ないじめに遭った。金村によれば、寮の自室に保管していた金銭を盗まれることが何度もあったとのことで、現役引退後のインタビューや出演番組では当該選手の名を伏せながらもいじめの実態をたびたび明かしている[15]。ただし、当時一軍のレギュラーだった栗橋茂平野光泰両外野手や、当時一軍で売り出し中だった内野手の森脇浩司など、厳しくも優しい姿勢で金村に接していた先輩選手も少なからずいる[44]
    • 森脇はとりわけ金村を気に入っていたが、シーズン中に一軍へ帯同することが多かったため、金村は球友寮で孤立。球団の待遇や寮の食事に辟易していたこともあって、門限破りや(球団に無断で購入し、寮から離れた駐車場に置いていた)自家用車でのドライブを繰り返すようになった。当時の近鉄球団では独身で入団した選手に入団後3年間の寮生活を義務付けていたが、結局は寮長からの勧めを受けて1年で退寮。実家が本拠地(藤井寺球場や日生球場)から遠い宝塚市にあったことから、退寮の直後には、本拠地の近辺に住む知人の家を転々としていた。この時期には、当時懇意にしていた藤井寺球場近くの理髪店の一室を間借りしたことや、自家用車で寝泊まりしたこともあったという。金村自身は、現役からの引退後に、「環境の悪さから(球友寮を)逃げ出したようなもので、入団してからすぐにプレーで結果を残せなかったのも、そのような環境に耐えられるほど心が強くなかったからだと思う。入団1年目に戻れるものならやり直したい」と語っている[15]
  • 2年目の1983年(昭和58年)の選手名鑑で趣味の欄には「カラオケ、酒」。
  • 現役生活でオールスターゲームに出場したのは1990年だけで、当時近鉄の監督だった仰木彬の推薦によるものだった。ちなみに、金村が同球団の一軍で正三塁手に定着していた1980年代後半から1990年代前半までは、ファン投票のパ・リーグ三塁手部門で石毛宏典松永浩美の後塵を拝していた。
  • 1988年のオフシーズンに、『クイズ仕事人』(朝日放送)へゲスト出演。この年の10.19(前述)第2試合で近鉄が有藤通世(当時はロッテの監督)からの抗議をはさんだ時間切れ引き分けでパ・リーグ優勝を逃したことを背景に、司会の島田紳助から「有藤監督のこと嫌いやろ」と訊かれた。金村は当初「試合の勝敗がかかっていることですので・・・」と言葉を濁したものの、紳助から「この番組、(ロッテの当時の本拠地で「10・19」の舞台にもなった川崎球場のある)関東には映ってへんで」と水を向けられた弾みで「大嫌いです!」と言い放った。なお、この番組で当時アシスタントを務めていた坂口美津穂は、翌1989年に星野伸之(当時はオリックス・ブレーブス投手)と結婚。結婚後に、朝日放送の番組審議委員を務めている。
  • 前述した球友寮での経験を踏まえて、退寮後に選手会長を務めるなど、選手の待遇や球団施設の改善にも尽力した。
    • 近鉄では1984年にメジャーリーガードン・マネーを好待遇で入団させたが、マネーが球場内のロッカーや選手用浴場の汚さに失望したあげく、短期間で退団した。また、本拠地には球団役員専用の駐車場がありながら、選手専用の駐車場が設けられていなかった。野茂英雄の在籍中には、本拠地の公式戦で開幕投手を任された野茂が自家用車で球場に向かったところ、球団職員から駐車を拒否されている。金村は選手会長時代に、上記の実態を解決すべく、球団の幹部と粘り強く交渉。その結果、選手専用駐車場の確保や浴場の改装などが実現したという[45][46]。さらに、本人曰く「右手有鉤骨の骨折(1988年10月)による痛みが1989年に入ってからも(前述したように)引かなかったのは、当時のチームドクター(球団専属の医師)の誤診に沿って(最初の)手術を受けたせい」とのこと[15] で、回復後に球団へ掛け合ってチームドクター制度を廃止させた。これを機に選手会の総意でトレーニングコーチに招聘したのが立花龍司で、同年のパ・リーグ優勝の足掛かりを作ったほか、トレーニングに対する若手・中堅選手の意識を大きく変えた。しかし、仰木に代わって鈴木が監督に就任した1993年には、金村と同様に鈴木と対立。結局、金村より先に同年限りで近鉄を退団したが、退団後も野茂や吉井理人を自主トレーニングなどで指導している。
    • チームがパ・リーグを制した1989年のシーズン終了後には、球団の優勝記念旅行で、家族と共にハワイ島オアフ島へ赴いた。4泊6日の旅行だったが、家族の参加費の負担を求められるなど球団の対応が悪く、金村を筆頭に参加した選手が日本への帰国後に「今度優勝したら、球団主催の旅行を辞退する代わりに、選手と家族だけで(金村の地元・兵庫県内にある)有馬温泉に泊まろう」と申し合わせるという有様だった[15]
      • もっとも、近鉄が後に優勝したのは金村引退後の2001年だけで、球団もオリックス・ブルーウェーブへの吸収合併やオリックス・バファローズの発足(2004年)を機に消滅した。ちなみに、近鉄およびブルーウェーブ最後の公式戦(2004年9月27日にヤフーBBスタジアムで催されたパ・リーグのレギュラーシーズン最終戦)では、関西テレビが同日深夜の録画放送向けに中継を組んだことから、近鉄OBの金村がブルーウェーブOBの星野伸之と共に中継の解説を担当。人目を憚らずに涙を流しながら、両球団の最期を見届けている。
  • 当時西武のコーチを務めていた伊原春樹とは野茂がフォークボールを投げる際に、手を出さないよう掛け声で合図する行為が許せなかった事から、「盗人」「汚い野球をするな」と罵倒しており伊原とはよく口論になっていた。伊原はこの事をかなり根に持っていたようで金村が西武に移籍した際は入団直後に呼び出して長時間の正座をさせたり、ミーティングで嫌味を繰り返すなど陰湿な報復を受けたという。

中日時代

西武時代

  • 中日時代に続いて、家族を(近鉄の本拠地がある)大阪府内の自宅に残したまま単身で生活。ただし、名古屋市内でのマンション暮らしだった中日時代と違って、20歳ほど若い選手(松井稼頭央大友進小関竜也、大塚など)と一緒に球団合宿所の「若獅子寮」で生活していた。プレーでは近鉄の主力選手時代ほどにはチームへ貢献できなかったものの、前述した「10・19」のVTRを「若獅子寮」で見せるなど、近鉄時代の熱い経験を若手選手に伝えた。金村が現役引退後に述懐したところによれば、「西武での3年間は、球団の厚意で若獅子寮へ入れていただいたうえに、若い選手と仲良くしながらリーグ優勝を2回も経験できたので楽しかった」という[15]。「西武でも優勝旅行でハワイに行かせて貰ったが、近鉄の時とは雲泥の差でとても良かった」とも答えている。
  • 近鉄へ在籍していた1980年代の後半から、「容姿が(西武へ入団したばかりの左打者)鈴木健と似ている」と言われていた。1988年、西武と近鉄が最後まで優勝を争った際、はた山ハッチ(やくみつる)は自身執筆の『パロ野球ニュース』(1988年8月)で両人と思われるトランクス姿の人物を描き、「今年はウチが優勝だ」と宣言する四コママンガを描き、同じコマに登場する中日の星野仙一監督が「お前は近鉄の金村か?西武の鈴木健か、どっちだ」と突っ込むネタを描いている。その鈴木とは西武移籍時にチームメイトとなり、この際にも『パロ野球ニュース』や[48]日刊スポーツでネタにされていた[49]。2人が似ていることは当人達も自覚していて、西武でチームメイトになったことを機に、鈴木は金村を「お兄ちゃん」と呼ぶほど慕うようになった。金村によれば、現役引退後に野球解説者としての仕事で球場やキャンプを取材した際にも、居合わせファンからよく「鈴木健さんですよね?」と呼び掛けられるという。
  • 1999年9月30日の引退試合、対千葉ロッテマリーンズ戦の第1打席(現役最後の打席)であえなく凡退している。金村は前出のラジオ番組で「現役最後の打席でこれまでの選手生活を思い出すと涙が溢れ、ボールが見えづらかった。にもかかわらず、マリーンズ先発の薮田安彦は容赦なくフォークボールを投げてきた。空気を読んで欲しかった。」と語っている。このシーンをモノマネする芸人は「現役最後の打席で涙に溢れながらもチンポジ(男性器の位置)を気にする金村選手」として演じている。

現役引退後

  • 近鉄入団時の守備走塁コーチで、後に一軍監督を務めた仰木には、現役を引退してからも深い恩義を感じており、親交が深かった。
    • 西武時代のチームメイトだった大塚光二とのコンビで現役引退後に進行役を務めた『ガンバレ日本プロ野球!?』(J SPORTS)では、仰木が2度にわたってゲストで出演した。この縁で、同番組の放送期間中から、日本プロ野球の春季キャンプ取材を必ずオリックスのキャンプ地から始めている。
    • 仰木がオリックス・ブルーウェーブの一軍監督を務めていた1990年代中頃に、仰木が肺癌を患っていることを知った。仰木から口止めを懇願されたことを機に、仰木が2005年12月15日に逝去するまで、その事実を誰にも言わなかった。また、仰木の晩年には、ゴルフなどで親交を続けていた。
    • 仰木がオリックスの一軍監督を務めていた時期から、野球解説者への転身後は、春季キャンプ期間中にオリックスブルーウエーブおよび後継球団のオリックス・バファローズの一軍キャンプを最初に取材。2015年までは毎年、キャンプインの初日(2月1日)から、キャンプ地の宮古島宮崎市へ取材に赴いていた[50]
    • 仰木の逝去当時は、『ベリーベリーサタデー!』(関西テレビ制作土曜朝のワイドショー)内のスポーツコーナー「Weeklyベリスポ!」に、コメンテーターとしてレギュラーで出演。逝去翌々日(2005年12月17日)の「Weeklyベリスポ!」で仰木の生前葬を取り上げた際には、全国向けの生放送中にもかかわらず、思わず号泣した[51]。翌2006年には、仰木とのエピソードを記した著書『仰木彬 パリーグ魂:命をかけてプロ野球を救った男』も出版している。
    • 2018年12月11日(火曜日)に放送された『金村義明のええかげんにせぇ~!』では、仰木の命日直前の生放送であったことから、金村が仰木との思い出話をほぼ全編にわたって熱弁。その内容が放送批評懇談会に高く評価されたことから、同番組は第56回ギャラクシー賞のラジオ部門で奨励賞を受賞した[52]
  • プロ野球ニュース』が地上波(フジテレビ)で最後に放送された2000年度オフシーズンに、同番組のレギュラー解説者として出演したロケ企画で片岡篤史(当時は日本ハムファイターズ内野手)の実家(京都府久世郡久御山町)を訪れた際に、「片岡が自費で実父に贈った」という檜造りのサウナへいち早く入浴した。片岡は翌2001年のシーズン終了後に国内FA権の行使を経て阪神タイガースへ移籍したが、移籍直後の応援歌では、日本ハム時代から使われている応援歌の歌詞に「リフォーム」「檜風呂」の言葉を用いたファンファーレが本人に無断で追加された。前述の企画から「片岡の実家には檜風呂がある」という誤った噂が流れたことによるもので、球団公認の応援団がただちにファンファーレを作り直したものの、金村は後に「片岡には申し訳ないことをした」と述べている[53]
    • 片岡は現役引退後の2005年から、阪神のコーチ時代をはさんで、金村と同じフジテレビ・関西テレビの野球解説者として活動。金村ともゴルフなどを通じて親交を深めているため、金村はフィル・ミケルソンプロゴルファーで片岡と同じく左利き)にちなんで、出演番組で片岡のことを「浪花(なにわ)のミケルソン」と呼んでいる。
  • 現役引退後の2017年12月からは、高砂市への居住経験がないにもかかわらず、同市出身の花*花と共に高砂応援大使を委嘱されている。委嘱のきっかけは、近鉄の選手時代から高砂市内へ頻繁に足を運んでいることを、『上泉雄一のええなぁ!』で頻繁に明かしていることによるという。同年11月に市内で講演会を実施したことも、応援大使への就任につながった[1]
  • 2018年夏の第100回全国高等学校野球選手権記念大会前後には、「高校野球100年の歴史を彩ったレジェンドの1人」として、大会関連の番組・イベント・インタビュー企画に多数登場。全国大会3回戦の8月17日には、第1試合の常葉大学附属菊川高校近江高校戦を前に、記念大会の特別企画である「甲子園レジェンド始球式」へ臨んだ。
    • 数年来患っている痛風五十肩の影響で利き手(右手)の腫れが収まらないまま登板した[54] ため、投げたボールはワンバウンドで、外角に大きく外れてしまった。金村自身は、始球式直後の取材で苦笑いを浮かべながら、「お恥ずかしい。緊張し過ぎて体が言う事を聞かなかった。近江高校のキャッチャー(有馬諒)が(ワンバウンドの投球を)よく捕ってくれた」というコメントを残した[55]。ちなみに、登板の前日からは、痛風を鎮めるために主治医から処方されていた座薬を体内へ何錠も注入。その一方で、大会の終了後には、妻の代筆ながら有馬へ感謝の手紙を送った。さらに、有馬率いる新チームが翌2019年夏の選手権滋賀大会で2年連続の本大会出場を決めた際に自費で差し入れするなど、有馬が2020年3月に近江高校を卒業(関西大学へ進学)するまで交流を続けた。
    • 奇しくも、金村は37年前(1981年)のこの日に、報徳学園高校の投手として第63回大会準決勝で愛工大名電高校(当時の校名は名古屋電気高校)と対戦。前述したように、工藤から3安打を放ったばかりか、工藤を相手に完投勝利を収めた[54]。また、始球式の翌日(18日)に開かれた準々決勝には、小園海斗を擁する報徳学園高校が第2試合へ登場している(結果は済美高校の前に2- 3というスコアで惜敗)。
  • 近鉄の選手時代から豪放磊落な生活を続けてきたことの反動で、前述した痛風を2009年から数回発症。サウナへの入浴、(痛風に効果があるとされる)ナタマメ茶の飲用、診療所でのニンニク(ビタミンB群)注射などで体調の維持に努めてはいるが、テレビ番組の企画で健康診断や人間ドックへ臨むたびに、診断した医師から生活習慣の改善を強く求められている。
    • 『ジャンクSPORTS』レギュラー放送の初期には、「血液サラサラ選手権」で血流の流れの速さを測定するたびに、元・プロ野球選手とは思えないほどの「ドロドロ血」(血液の流れの悪さ)を露呈。選手権の開始当初は3回連続で最下位を記録していたが、自身の希望で2006年に開かれた「血液ドロドロ選手権」(同年10月2日放送分)では、3位にとどまったことで「世界王者」という汚名を辛うじて免れた。
    • 2009年にテレビ東京主治医が見つかる診療所』(4月6日放送分「春の健康診断スペシャル!」)の企画でMRI検査を受けたところ、診断の時点で東京マラソン2009フルマラソンの部への出場(『ジャンクSPORTS』との連動企画)に向けて毎日10kmの距離を走っていたにもかかわらず、脳梗塞を発症する危険性があることが判明(マラソン自体は5時間48分20秒というゴールタイムで完走)。4年後(2013年)に「芸能人徹底検査!人間ドックスペシャル」(6月24日放送分)の企画で人間ドックへ入った結果、発症のリスクがさらに高まっていることが分かったため、近鉄時代から続けていた喫煙の習慣を止めることを番組内で公約する羽目に陥った。金村自身は放送後に喫煙をこっそり再開するつもりであったが、番組側が密着取材を続けていたことで観念。取材が終わってからも、タバコを1本も吸っていないことを公言している。
    • 2020年に『名医のTHE太鼓判!』(TBSテレビ)最終回(3月2日放送分の「このまま放っておくとヤバイ芸能人が集結!春の芸能人余命宣告3時間スペシャル」)の企画で大腸の内視鏡検査血液検査を受けたところ、大腸に直径1.5cmのポリープ、心臓の冠動脈に硬化、脳内に4カ所の「隠れ脳梗塞」の形跡が判明。診断した医師から、生活改善への強い希望を込めて、番組のエンディングに「今のままの生活を続けた場合の余命は1年」と宣告される事態に至った[56]。金村の身を案じる旨のメッセージが関係者やファンなどから相次ぐなど、この宣告が大きな波紋を呼んだことから、金村は生活習慣の大幅な見直しに着手。(水分の摂取ではなく)飲酒をはさみながらサウナへの入浴を繰り返していたことが宣告の一因に挙げられたため、行く先々でのサウナ通いを止める代わりに、自宅で重炭酸湯へ入浴するようになった。さらに、多い時には1日で5 - 6回に達していた食事の回数を2回に減らすなど、余命を1年から15年に伸ばすことを目標に体質の改善を図っている[57]
    • 2021年に発売されたくるりの13枚目のアルバムに収録されている楽曲『野球』の中で、間奏中に「金村!」と岸田繁が叫ぶ声が収録されており、歌詞カードにも記載されている(ただし、岸田は広島東洋カープのファンを公言している)。

  1. ^ a b 女性デュオ「花*花」、元プロ野球・金村さん高砂応援大使に(『神戸新聞』東播版2018年1月6日付記事)
  2. ^ a b c d 朝日新聞 2017年3月15日 23面
  3. ^ ダイナマイト鉄『名選手たちの甲子園』竹書房。 
  4. ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vol.05「1981年8月21日 全試合をひとりで投げ抜き、悲願の全国制覇達成」(『Web Sportiva2010年8月16日付記事)[リンク切れ]
  5. ^ 【甲子園V腕座談会】(2)池田もPLも練習しなかった(『スポーツ報知2015年8月9日付記事)
  6. ^ 亀梨和也 NHK甲子園特番ナビゲーターに「感動体感したい」(『スポーツニッポン2015年7月21日付記事)
  7. ^ 【甲子園V腕座談会】(4)3年生・水野VS1年生・桑田(『スポーツ報知2015年8月9日付記事)
  8. ^ a b 【甲子園V腕座談会】(1)池田もPLも練習しなかった(『スポーツ報知2015年8月9日付記事)
  9. ^ 天才テリー伊藤対談「金村義明」(2)逆境の中で甲子園優勝をもぎ取った | アサ芸プラス
  10. ^ 金村義明さんに聞いた『プロ野球とおカネ』の話 ~前編~ | BASEBALL KING
  11. ^ 【甲子園V腕座談会】(3)金村さんの秘技「おちょくり投法」(『スポーツ報知2015年8月9日付記事)
  12. ^ 【7月23日】1982年(昭57) 一軍未経験ですが…金村義明 “球宴”史上初のサイクル安打(『スポーツニッポン2012年7月23日付「日めくりプロ野球」)
  13. ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vol.04「1982年7月23日、ジュニアオールスターでサイクルヒット&MVP」(『Web Sportiva2010年7月15日付記事)
  14. ^ [1]
  15. ^ a b c d e f g 週刊ベースボール 1958 - 2018球団別ベストセレクション 近鉄編』(2019年2月27日発行)p.99 -101に掲載のインタビューより
  16. ^ 【日本ハム】清宮と同箇所骨折経験持つ金村義明氏「まずは手の筋力取り戻せ」(『スポーツ報知2019年3月4日付記事)
  17. ^ 週刊ベースボール1989年4月10日
  18. ^ あの金村も急造捕手経験 ロッテ・五十嵐は全ポジション出場達成(『スポーツニッポン2014年12月10日付記事)
  19. ^ 中村紀洋 近鉄監督から「調子に乗るな」と釘刺された過去も
  20. ^ 現役引退後に著した『勝てる監督 負けるボス』では、「最低の監督」という表現で鈴木を批判している。
  21. ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vol.10「1995年2月14日 野茂英雄、ドジャース入団」(『Web Sportiva2010年12月21日付記事)
  22. ^ 金村義明氏が明かすFA失敗の舞台裏、口約束で1億円だった年俸は25%に
  23. ^ カネやん「バカヤロー!」 プロ野球審判が語る“猛抗議の舞台裏”
  24. ^ トレードはこうやって決まる!現場とフロントの連携
  25. ^ 金村義明氏「そのパターンでした」 中日から西武へトレード移籍した裏側を明かす(『スポーツニッポン2022年9月1日付記事)
  26. ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vo1.07「1998年10月26日 涙の横浜ベイスターズ、38年ぶり日本一」(『Web Sportiva2010年9月21日付記事)
  27. ^ フーガキャスティングの講師一覧|金村義明
  28. ^ NOMOベースボールクラブ 運営役員紹介
  29. ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vol.06「2000年9月17〜27日 シドニー五輪、初のプロ・アマ合同チームの裏側」(『Web Sportiva2010年9月6日付記事)
  30. ^ a b 金村義明プロフィール 金村義明オフィシャルサイト
  31. ^ 金村義明オフィシャルブログ2018年1月3日付記事「謹賀新年」
  32. ^ ANAクラウンホテル大阪(金村義明オフィシャルブログ2015年12月20日付記事)
  33. ^ 金村義明氏 初の冠番組「ええかげんにせぇ〜!」MBSラジオで10・10開始(『スポーツニッポン2017年9月23日付記事)
  34. ^ “2019年の一大トレンド?プロ野球OBの「Youtubeチャンネル」まとめ”. BASEBALL KING. (2019年12月28日). https://baseballking.jp/ns/213501 2020年4月4日閲覧。 
  35. ^ a b 金村義明さん有料ニコ動番組が無料ユーチューブに上がり運営側に「だまされた!」広告料1円も入らず(『スポーツ報知2020年3月23日付記事)
  36. ^ チャンネル終了と、3月分会員料金の返済について(会員様宛てメール配信)”. 金村義明のニコ生★野球漫談 (2020年3月24日). 2020年4月4日閲覧。
  37. ^ a b c 金村義明さん 働きづめ、甲子園Vで親孝行(『朝日新聞2019年11月17日付「かあさんのせなか」)
  38. ^ a b 香妻陣一朗が″金村親子″に感謝の上昇 一般社団法人日本プロゴルフ機構公式サイト「アジアパシフィック ダイヤモンドカップゴルフ 2019」大会記事
  39. ^ 輝きピープル 野球解説者・タレント・元プロ野球選手 金村義明さん京都市人権総合情報誌「きょう☆COLOR」Vol.5(平成28年12月号)
  40. ^ 【甲子園V腕座談会】(終)今だから話せる「蔦さん伝説」(『スポーツ報知2015年8月9日付記事)
  41. ^ 週刊ベースボール1981年4月20日号pp.99 - 102「センバツ大会"青春群像"PART1」
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  46. ^ 『在日魂』第3章「プロ野球狂想曲」
  47. ^ 【5月1日】1996年(平成8年) 32分中断 ガルベス“危険球”に山崎武司突進!大乱闘!(2011年5月1日、スポニチアネックス)2014年11月20日閲覧
  48. ^ 1997年5月『パロ野球ニュース』。日本ハムの上田監督(当時)が「西武のベンチ入り人数が一人多い」と抗議したら、実は「右の鈴木健(金村)」と「左の鈴木健(本人)」という二人一組のスイッチヒッターだった、あるいは同じく上田が「西武の三塁手が二人いる」と抗議したら、実は「鈴木健1人だが、時々分身の術を使う(と称して金村が現れる)」という扱いだった、というもの。
  49. ^ 1997年10月、西武が優勝を決めた翌日、やくが中紙面に描いた選手イラストに、NHK連続テレビ小説ふたりっ子になぞらえて、「西武のふたりっ子」と描いた。
  50. ^ 2016年には、2月1日(月曜日)が『上泉雄一のええなぁ!』への出演日と重なっていたため、解説者への転身後初めて同月2日からキャンプを取材(取材先は宮崎市清武総合運動公園)。
  51. ^ 株式会社パートナーシステム・講師プロフィール 金村義明
  52. ^ 第 56 回ギャラクシー賞 ラジオ・テレビの MBS2作品が奨励賞を受賞 毎日放送2019年4月26日付プレスリリース
  53. ^ 鵜飼克郎 (2017年8月5日). “金村義明氏が片岡篤史「檜風呂」応援誕生のきっかけを回顧”. 週刊ポスト. https://www.news-postseven.com/archives/20170805_600223.html?DETAIL 2017年8月7日閲覧。 
  54. ^ a b 「五十肩と痛風…」金村義明さん、ソフト工藤監督に投げ勝った記念日にレジェンド始球式 スポーツ報知 2018年8月17日
  55. ^ 【高校野球】レジェンド始球式で金村義明氏ワンバウンド投球「お恥ずかしい」 東スポWeb 2018年8月17日記事
  56. ^ 金村義明氏 番組史上最悪「余命1年」告知に衝撃 「息子3人の結婚式も見たいし…」(『スポーツニッポン2020年3月2日付記事)
  57. ^ 「余命1年」を宣告された金村義明が、延命のために始めたこと(『現代ビジネス』2020年4月17日付記事)
  58. ^ 関西テレビローカルは『プロ野球中継(西暦)』の番組名
  59. ^ 2009年度より水曜のMCを担当






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