立川談志
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芸歴
- 1952年 - 五代目柳家小さんに入門、「小よし」を名乗る。
- 1954年3月 - 二ツ目昇進、「小ゑん」に改名。
- 1963年4月 - 真打昇進、立川談志を襲名。
- 1971年 - 第9回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬し、初当選。
- 1975年12月 - 三木内閣の沖縄開発政務次官に就任する。
- 1983年 - 落語協会を脱会し、落語立川流を創設、家元となる。
- 1997年 - 食道癌を摘出。
- 2009年8月 - 長期休養を発表。
- 2011年11月 - 喉頭癌のため死去。
人物
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落語家として
落語家としての全盛期の実力に対する評価は概して高いものの、直情径行な性格により数々の過激な争いを起こし続けており、敵を作ることも厭わない「暴れん坊」ぶりもあって、毀誉褒貶の激しい人物でもあった。談志の落語で特筆すべき点は、師匠から受け継いだ型を大事に伝承する古典落語において、「己を語る」独自の型を発明したことである。現代に生きる人々の価値観や美意識を内容に投入し、噺の途中で「このストーリーのここがおかしい」「こういう人情は違う」と、談志の意見や解説、哲学が入る。故に「客は『噺』ではなく『談志』を聴きにくる」と言われたほどである。その芸を邪道とする意見も少なくなかったが、熱心なファンを獲得し続けた。山藤章二は「落語の伝統の部分だけで生きていれば、間違いなく平成の名人として落語史に名を連ねただろう」と述べている。
楽屋ネタや同業者をネタにする噺家は少なくないが、談志もまた、生前は敵味方・先輩後輩にかかわらず同業者にネタにされた。落語『地獄めぐり』では、地獄に来た落語家を並べ立てるくだりにおいて、「立川談志……あれ、あいつまだ生きてんじゃなかったか……ああ小さく書いてある、えーと『近日来演』」(まもなく死んで地獄に来るという趣旨。オリジナルは3代目桂米朝の『地獄八景亡者戯』で、本来は演者自身の名前が入る)というネタが出てくる。
落語そのものについては「落語とは人間の業の肯定である」との見解を常々表明していたが、晩年は「イリュージョン」という独自の域に達したと自認していた。弟子の立川志らくと立川談笑は、イリュージョン落語について以下の特徴を挙げている[62]。
- (落語はマクラも含めて)己れ(=談志)の感覚でしゃべるもの
- 登場人物が談志と被っている
- 落語ではなく談志という人間が面白い
晩年の談志は太田光との対談で「テツandトモとラーメンズが最近の芸人では面白い」と発言していたが、これについて太田は「テツandトモは正統派の面白さだが、ラーメンズは師匠(談志)の言うイリュージョンの面白さだと思う」と分析していた。
5代目小さんとの関係
師匠5代目柳家小さんとは口論になることが多かった。ある時は、当時落語協会会長であった師匠を目の前にして「今度、俺を会長にしてもらえねーかね」と言ったことがあり、これに激怒した小さんは「お前なんか破門だ!」と言い放ったという。しかし基本的に人間関係は悪くなかった。真打昇進試験に弟子が合格できず、その当時会長であった小さんとは方針が合わないとして落語立川流を設立、これにより建前上「破門」される。談志の著書によれば、その後も何度か互いの芸を貶したり、どちらが先に死ぬかなどと口論したり、取っ組み合いの喧嘩もしたそうだが、基本的には二人の間で自然と収まった。
ある新年会では、小さんの客を気に入らなかった談志が、その客に対して酒や膳の上のものを片っ端からぶつけて帰ったが、小さんは「客が悪いよ」と談志を庇ったという。また、喧嘩にしても小さんは「本気でやれば、俺の方がよっぽど強い」と、談志の自由に頭を締めさせていた[注釈 14]。5代目小さんの生前、孫である柳家花緑との座談では「(小さん)師匠に『(落語)協会に戻って来い』と頭を下げられたら困る。それを断ることは日本教に反する」と語り、小さんに対する意識を垣間見せた。
また、談志は小さんの妻である生代子夫人から可愛がられており、夫人が死去した際には葬儀委員長を務めた。
奇しくも、小さんと談志の誕生日は同じ1月2日である[注釈 15]。
上方落語の噺家である3代目桂べかこの3代目桂南光襲名披露パーティーでは、偶然、談志と5代目小さんが南光の楽屋で鉢合わせになり、口論となった。その時楽屋にいたべかこの大師匠3代目桂米朝が、両者の口論を制止したこともある。
落語における「大名跡」の価値を評価しており、「いずれ、オレは小さんに、5代目圓楽は圓生に、志ん朝は志ん生になるべき」と『現代落語論』で書いている。そのため、本来の実力からは自身の弟弟子であった10代目柳家小三治が継ぐべきとしていた「小さん」を、先代の息子である3代目柳家三語楼が襲名したことを批判した。
手塚治虫との関係
手塚治虫の熱烈なファンで親交も深く、「天才とはレオナルド・ダ・ヴィンチと手塚治虫のことをいう」と語り、手塚が使っていたベレー帽を宝物にしていた。マンガの「神様」と呼ばれた手塚から自身の芸が認められていたことも誇示している。2005年に放送されたNHK教育テレビ『知るを楽しむ 「私のこだわり人物伝」』では、「談志が語る手塚治虫」(全4回)と題して手塚と作品について語った(番組テキストも出版された)。参議院議員を一期限りで引退したのも、手塚から「もう出ないで下さいね」と言われたことが影響しているという[63]。
手塚が知人の有名人に「一言出演」を依頼したアニメ映画『千夜一夜物語』にはモブキャラの声優として友情出演し、手塚の没後に製作された『ジャングル大帝』では密猟者ハムエッグ役の声優を務めた[注釈 16]。また、『ブラック・ジャック』の文庫本にもメッセージを寄せている。
音楽活動
無類の歌謡曲ファンで、青春時代は歌声喫茶に通いつめた。晩年には『談志絶唱 昭和の歌謡曲』という本を出版もしている。ディック・ミネ、田端義夫、三橋美智也などのファンとしてほとんどの曲を歌えるほどで、落語家になってからはミネとは交流もあった。
- 談志自身が企画し司会を務めたテレビ番組『笑点』のテーマソングである。談志31歳の頃の作品。すべての歌唱パートを談志が受け持つ。「笑点グループ」のメンバーは上記のとおりの6人であるが、サビの部分のバックコーラスのみの担当である。
- 談志と当時の『笑点』メンバーが日本劇場での三橋美智也ショーのゲストとして招かれ、この曲を披露したことがある。談志と三橋が友人だったからでもある。当時、東京都千代田区有楽町にある日本劇場は最高のステータスを誇る劇場であったが、2代目三遊亭歌笑を除く落語家とはもともと無縁のところだった。反対に、日劇に併設された日劇ミュージックホールには、談志は非常に若い二ツ目時代からレギュラー出演していた。泉和助やE・H・エリックらとコントを演じていたほか、洋装で立ったまま喋るスタンダップ・コメディを披露していた。しかし、談志とメンバーが対立して大喜利メンバー全員が降板した1969年以降、この曲は一切放送に使用されなくなった。
- その後、『笑点音頭』は企画盤のうちの一曲として、複数のレコード会社からCD化され、談志逝去後の2012年2月にはタワーレコード限定販売品としてシングルCDの再発売が行われた。
- 『やらせろ/ぐちぐち』
- 1983年、「けしかけ女の会」(代表:木村万里)の企画で自主制作したスタンダップトークを収録したソノシート。ジャケットイラストは霜田恵美子による談志のイラスト。1000円で販売。
- 『アメリカ』
- 2003年9月11日に「談志2REVOLUTION」名義でシングルCDとして発売。ラップミュージックとなっている。
- 『国会』
- 2004年3月24日に「談志2REVOLUTION」名義でシングルCDとして発売。『アメリカ』同様にラップミュージックとなっている。
『アメリカ』『国会』は、2023年11月に立川談志十三回忌記念プロジェクトとして限定再販売。同時に、未発表音源による『金ぇ〜(まね~)』も発売された[64]。
性格
- ハスキーな声でシニカルかつマイペースに振る舞い、時に有言不実行ぶりをはばからないなど、一筋縄ではいかないキャラクターの持ち主であった。1980年代以降は髭をたくわえるようになり、さらに頭にヘアバンドを巻くようになった。高座以外、特にテレビ出演時には色付きメガネを着用することも多かった。晩年になると髭は剃ることが多かったが、ヘアバンドとメガネは愛用し続けた。頬やあごをなでたり掻いたりする癖がトレードマークで、よくものまねされるポーズとなっている。
- 評価できない人物に対しては正直に罵倒混じりの辛辣な批評を飛ばし、高座では差別用語も遠慮無く連発するなど、タブーを物ともしない過激な毒舌家として有名だが、一方では自他共に認めるフェミニストであり日和見主義でもある。そのタブーを物ともしない姿勢として特に有名なのが吉本興業批判で、自著では初代桂春団治が晩年に非業の死を遂げた例を挙げて「あそこ(吉本興業)の使い捨て体質は戦前から(創業時からの伝統)なんだよ」と批判していた。これに対し、談志の著書で名指しで批判されたことがある元吉本興業社長中邨秀雄は『私の履歴書』の中で「談志は芸に対しては謙虚な男」と述べ、談志の芸への姿勢を評価している。同著によると、中邨と談志は若手の頃から付き合いがあり、談志はかつて中邨から受けたアドバイスを守り続けていたという。また、談志は何度か吉本の劇場・なんば花月に足を運んで気になる芸人を細かく観ていたほか、談志自身も花月で独演会を開いたことがあった。弟子がよく語るところによれば、「芸人100点、人間0点(人格は最低だが芸は最高)」。
- 自他共に認める無鉄砲なまでの冗談・いたずら好きであり、洒落か本気か分からない行動による武勇伝は極めて多い。エピソードの一つとして、リポーターやナレーション業で知られる神太郎が付き人だった時の話がある。地方興行の折、夜中に突如「トランプを買ってこい!」と無理難題を押しつけられたが(当時はコンビニはおろか深夜営業する店も少なかった時代)、機転を利かせた神はバーへ行き、バーテンダーからトランプを調達して、談志を唸らせたという。一方で「芸人という消費文化の担い手である以上、真っ当に働くな」との趣旨で「泥棒しろ。ただし俺の家は駄目だぞ」と弟子に発言したこともあるという。
- 新作落語を演じたことは少なく、著書の中でも「古典しかやらない」という趣旨の文章を書いている[65]。ただし新作落語自体を否定しているわけではなく、前述の文枝をはじめ、多くのいわゆる新作派の噺家とも交流があった他弟子の一部も新作落語を演じている。
- 肉が好物であるため、弟子はしくじった際に機嫌をとるために高級肉を談志宅へ持ち込むことがある。談志の自宅には多数の冷蔵庫があり、賞味期限が切れた食材は弟子に食べさせる。戦中・戦後の貧しい時代が青春時代であったために食に対するこだわりも多く、特に食べ物を粗末することを嫌い、前日残った食材を朝の味噌汁に入れたり、カレーに入れたりする[66][67]。楽屋にも余程のことがない限りは手作り弁当を持参し、楽屋弁当は用意させなかった。基本的に「アゴ・アシ付き(食事代と交通費がついた上で仕事料を貰う)」な落語家としては珍しいことである。ただし、地方公演などで用意させる場合は食事の内容や飲み物の銘柄[68]などに細かい注文がついた。
- 大変な外国映画好きであり、『談志・陳平の言いたい放だい』(TOKYO MX)でも洋画解説コーナーが設けられていた。取り上げられるのは主に黎明期から黄金期にかけてのハリウッド映画やフランス映画で、中でもMGMミュージカルを好んだ。『今夜は最高!』(日本テレビ)にゲスト出演した際には、好きなミュージカル映画である『雨に唄えば』のパロディを展開した(談志はジーン・ケリーに扮した)。敬愛する映画監督はビリー・ワイルダー。好きなスターはフレッド・アステアで、アステアが亡くなった日の晩には泣き通したという。
- 毎年ゴールデンウィークの時期になると、自宅のある根津のマンション1Fのせんべい屋の前で「談志のガレージセール」と題して2010年まで毎年私物を売るイベントを開催していた[69][56]。購入したファンには、その場で書いたサイン色紙をつけていた。没後、2017年と2019年には「物を大切にしていた談志師匠の遺志を継ぐ」という談志役場の意向を受けた業者経由で、遺品を複数回ヤフオクで販売、完売した。出品された品物にはすべて談志役場からの証明書がついている[70][71]。
- 5代目圓楽によると「案外気の小さいところがある」という。実際、「志ん朝が真打に昇進する時には本人に『強次(志ん朝の本名)、昇進を辞退しろ』と直談判に行ったが、自分(5代目圓楽)の時には人にボロクソ言ったわりに直接言いには来なかった」「自民党の大物政治家たちと同じテーブルに座っているのをみて『圓楽の馬鹿はああいうところに座ってる』と言っておきながら自分はそこに座ろうとはしなかった」などといったエピソードを著書で紹介されている。
- 弟子たちに理不尽な要求をしたり、何度も土壇場で仕事をキャンセルするなど、自由奔放なイメージが強いが、その印象とは裏腹に弟子入り志願者を門前払いにしたことはなかったとされる。暴言や罵倒が多い一方で暴力を嫌っており、弟子には手を挙げたことがないと立川志らくが証言している[72]。他の師匠のように自らの私用に弟子を使ったり、家事を弟子に任せるなどの使いっ走りをすることは少なかったという。談志曰く「お前らは俺に弟子入りしたんであって家族に弟子入りしたわけじゃない」との理由であった[73]。なお、志らくによれば、「落語家たるもの、貧乏と寒さ、飢えを知らないと落語を語れない。俺はわざわざそれを経験させてやっているんだ」との談志なりの理論に基づいて弟子に雑用をさせていたという[74]。一方で志らくはマクラで談志のことを「パワハラの塊」とも表現している。
- 『笑点』降板時には初代林家木久蔵(現:林家木久扇)を大喜利メンバーにするよう番組スタッフに推薦し、木久蔵には「木久蔵は与太郎だよな。その線で行ってみな」とキャラクター造形を提案した。このことから、木久扇は「談志さんは人の柄の見つけ方がうまかったですね。大喜利で座布団をあげたり取ったりするルールを考えたのも談志さん。天才でした」と評している[75]。木久扇は高座でも談志について「意地悪に見えるんですけど本当は優しい人」と明かしている。
自殺の危惧
同業の先輩である8代目林家正蔵(のちの林家彦六)からは「談志は自殺するのでは」と危惧された。正蔵がそう発言したのは、談志が国会議員になったばかりの絶好調の頃であったのだが、正蔵に言わせると「談志はやることなすことが全て当たり、成功したので、現実の世の中が馬鹿馬鹿しく思えるのではないか」とのことだった。正蔵は談志本人に直接そのことを指摘しなかったが、他の多くの人物には語っていた。その1人である川戸貞吉がこの事実を本に書き、公の知るところになった。
晩年の談志は、テレビで「死ぬつもりでいたからね。(でも)自殺ができないってことになって……。本当の話だもん」と、自殺願望が抑え切れなくなっていることを告白し[76]、「談志は自殺する」という正蔵の予言について「(今から見れば)当たっている」と評した[77]。公式ホームページ『地球も最後ナムアミダブツ』の日記欄「今日の家元」にも自殺をしたくてもできない葛藤が書き込まれたが、この危惧は現実とはならなかった。
逸話
- バスケットボールリーグNBAのファンとしても知られ、落語のネタにできるほどの知識を持っていた。特にサクラメント・キングスとジェイソン・ウィリアムスを熱心に応援していたという。
- 立川流創設後は、自らが弟子に落語の稽古をつけることは日に日に少なくなった[78]。立川談之助曰く「弟子の噺は 立川談春以外は皆師匠とは似ていない。売れっ子になった弟子は、勝手に育って行った」とのことである[73]。
- 浪曲、講談、色物等の演芸全般から映画や音楽にも造詣が深いことで知られていたが、噺家にも贔屓が多い歌舞伎には関心が薄かった。ただ歌舞伎俳優との親交はあり、17代目中村勘三郎には立川流創設時に顧問になってもらっている。その縁で17代目の息子・18代目勘三郎とも交遊を持ち、当時「市川染五郎」を名乗っていた松本幸四郎を評価していた。18代目勘三郎は、談志没後の2012年2月20日に追悼も含めた落語会「落語立川流 in 平成中村座」を開催している[79]。
- 強烈な匂いを持つことで知られる果物・ドリアンが大好物であった。娘の松岡ゆみこによれば、談志が大量にドリアンを食べた後に飛行機に乗った際、機内でゲップをしてしまい、その強烈な匂いで飛行機を止めてしまったこともあったという[80]。また弟子である立川談四楼も、「本来ならば持ち込み禁止であるはずのホテルに談志がドリアンを持ち込んでしまい、結局そのことがホテル側にバレて弟子である自分が代わりに謝罪した」というエピソードを明かしている[81]。
- ある日談志が弟子とタクシーに乗った時のこと、運転手が談志に「いいよね、アンタたちは。テレビ出て旨いもん食ってたくさん金もらえるんだろ」「俺たちはこんな苦労していくらしか貰えない」と僻みっぽく絡んできた。横についていた弟子は師匠がキレるのではないかとビクビクしたが、談志は逆にニッコリ笑って「その通りだよ。なんでアンタやらないんだい?」と返した。これには絡んだ当の運転手も何も言い返せず、黙ってしまったという[82]。
- 劇作家・評論家の大西信行とは「浪曲好き」という共通点はあったが、本人どうしは犬猿の仲であった[83]。
- 家族と住む家以外に仕事場兼住居をもう一軒所有していたが、談志没後は空き家状態で、酷い湿気があるなど問題となっていた。そこに前座時代から通っていた弟子の志らくが住みたいと申し出たため、談志の長女・松岡ゆみこが『大改造!!劇的ビフォーアフター』にリフォームを依頼。2014年11月30日と2015年1月11日にリフォームの工程が放送され、実際に志らくが居住している。
- 所属事務所・談志役場がX(旧Twitter)で明かしたところによると、談志は怪しい投資話で大金を騙し取られたことが二度あったという[84]。
家族
息子(長男[85])は所属事務所・有限会社「談志役場」社長の松岡慎太郎。談志のマネージャーも務めていた。
弟は松岡由雄。談志が社長を務めた「談志プロダクション」の後続会社「まむしプロダクション」でマネージャーを務めた後、立川企画で社長を務めた。2016年10月8日死去[86]。
娘は東京都中央区銀座のクラブの所有者でタレントの松岡ゆみこ。かつての芸名は松岡まことで、一度引退したのち、談志の死去以降に現名でタレント活動を再開している。ゆみこが2011年12月に刊行した『ザッツ・ア・プレンティー』[注釈 18](本名の松岡弓子名義、亜紀書房刊)には2011年3月に気道切開手術を受けてから亡くなるまでの談志の様子が描かれている。談志はゆみこのためなら人に頭を下げるのを厭わず、ゆみこが明石家さんまと共演する際にもさんまに「娘が今度お世話になるのでよろしく」と頭を下げたという[88]。
注釈
- ^ これは戸籍上の生年月日であり、実際は1935年(昭和10年)12月2日生まれである[1]。
- ^ 大喜利では圓楽は回答者に回る。のちに降板するが、しばらくして同番組の司会者として復帰する。
- ^ 同番組は2024年4月7日放送分で立川晴の輔がレギュラー入りするまでは立川流に所属する落語家がレギュラー出演したことは無く[7]、立川流の出演は演芸や若手大喜利など少数に限られていた(ただし、志の輔の弟子の立川晴の輔や談志の直弟子である立川志らくが6代目三遊亭円楽の休演時に代理メンバーとして大喜利に出演したことがある)[8][9]。また、昇進披露口上にも立川流の新真打出演経験もあるが、他流派では通常出演する各協会・所属団体のトップが進行役として出演したことはない。
- ^ 最晩年に気道切開手術を受けた後も談志は東京都知事となった石原のことを気にかけており、亡くなる2か月前に石原本人から電話があった時に談志は声が出せない状態ながら意思を伝えるために電話口の前でうなずいたり首を振ったり、しゃべろうとして咳き込んだりしていたという[15]。
- ^ ただし、彦六は共産党のイデオロギーに共感していたわけではなく、本人は判官贔屓としている。
- ^ 上田は落語立川流Bコースに名を連ね、立川流の高座に上がったこともある。
- ^ 家紋・丸に左三蓋松の画像素材
- ^ 実際には談志はこの2日前に喉に入れたカニューレから大量の出血があって緊急入院をしており、また当日の朝も高熱があったため不安定な体調を慮った息子の松岡慎太郎が「コメントだけでいい」と出席を取りやめさせたという[24]。
- ^ 談笑は静岡の独演会の会場で取材を受けている。訃報は休憩時間に柳家喬太郎からの電話で知り、談志から禁じられていた『シャブ浜』を演じた後、客前で号泣した。また、同じ時間帯に立川談春は至近距離の会場の別の会に出演していた。談春は師匠が亡くなったことは知っていたが、舞台ではおくびにも出さず取材も受けていない。終演後、二人は一緒の新幹線で東京に戻った。
- ^ 当時、番組レポーターでもあった。
- ^ 生前にも、本人や一門の書いた文章を集めた『談志が死んだ: 立川流はだれが継ぐ』(2003年、ISBN 4062121859)という本を出版していた。
- ^ ライ坊に腹巻きがしてあったのを見つけた談志に対し、志らくが「風邪を引かないようにと思って」と答えたが、談春が自伝『赤めだか』で「本当は志らくがライ坊をいじめて壊してしまったため」と書いたのが原因。しかし、これは談志が「ライ坊をいじめないでくれ」と弟子たちに言ったのを談春および志らくがネタにしたものであり、談春が談志に事情を説明して騒動は収まった[46]。
- ^ 奇しくも、この日は談志の本来の77回目の誕生日でもあった。
- ^ 小さんは剣道7段の腕前を持ち、徴兵だったとはいえ軍人経験もある。
- ^ ただし前述の通りこれは戸籍上のことであり、実際の誕生日は異なる。
- ^ 声優としての出演には、手塚作品以外に『ドラ猫大将』などがある。
- ^ 『笑点音頭』は、この番組で現在放送されているインストゥルメンタルのテーマミュージックとはまったく別物である。
- ^ ディキシーランドジャズの名曲のナンバー。生前、談志は「死んだら『ザッツ・ア・プレンティ―』をかけてくれ」と語っており[87]、言葉通り出棺時にはこの曲が流されたという。
- ^ のちに、立川談春の落語会に出演してからは「立川梅春(たてかわばいしゅん)」に改名して落語を何度か口演している。
- ^ (1940年5月15日 - 2022年3月11日)本名:佐藤敦之。ボーイズバラエティ協会会員。1998年Bコース真打昇進。弟子に、立川談文(本名:三浦淳一)がいる。談文の命名は談志。文志没後は談文が文志の店舗を運営している。
- ^ Aコース「立川談かん」からビートたけし門下へ移籍、改名後、1986年2月にBコースへ再入門、そのまま「ダンカン」を名乗る。
- ^ 師匠の談志から芸名を付けてもらうにもネタが尽きたらしく(師匠曰く『直木賞作家に敬意を表して』と)、師匠から「芸名は自分で考えて来るように」と言われ困っていたところ、新宿駅でふと見た中央線快速の行き先表示『立川・八王子方面』に、コレだと思って芸名にした、という[90]。景山本人もざこば・鶴瓶らくごのごのゲスト出演の際に立川八王子の由来を同じように語っている。
- ^ 療養のため2010年4月より出演休止していたが、その回が最後の出演となった。
出典
- ^ 立川談志(2)
- ^ a b c 『日本一の落語家』徳間書店、2012年4月15日、16頁。ISBN 9784197102679。
- ^ 『現代落語論』(立川談志著、三一新書刊、1965年)P163。
- ^ a b c ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』105頁
- ^ a b c 『圓楽 芸談 しゃれ噺』(五代目三遊亭圓楽著、百夜書房刊、2006年)193頁。なお、談志は「落語がテレビ向きでない」という主張を『現代落語論』255-260頁でも行っており、その最後で「誰かテレビにおける落語の演出を考えてください。お願いします」と訴えている。
- ^ 桂歌丸『座布団一枚!桂歌丸のわが落語人生』小学館、2010年9月8日。
- ^ “新メンバーは立川晴の輔さん 「笑点」木久扇さん後任”. 共同通信 (2024年4月7日). 2024年4月8日閲覧。
- ^ “「笑点」半世紀ぶりに立川流出演 円楽の代演で晴の輔「暗黒集団から参りました」”. デイリースポーツ (2019年9月15日). 2024年4月8日閲覧。
- ^ “立川志らく、「笑点」に初登場! 初代司会者・立川談志さんの直弟子が大喜利に出るのは初めて”. スポーツ報知 (2022年5月5日). 2024年4月8日閲覧。
- ^ 『歌丸 極上人生』(桂歌丸著、祥伝社黄金文庫刊、2015年)270頁。歌丸は「『(『笑点』を)早くやめた方がいいよ』という方もいらっしゃったが、一番初めに言ったのは談志さんだった」とも述べている。
- ^ 新聞広告『朝日新聞』昭和44年(1969年)12月20日朝刊、12版、15面
- ^ “談志さん、未公開音源蔵出しで“復活””. 産経ニュース (2011年12月11日). 2012年1月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月7日閲覧。
- ^ 参議院選挙 立川談志氏ら初当選 - NHK放送史
- ^ 「タレント候補の泣き笑い -参院選-」No.911_2 中日映画社
- ^ 松岡 2011, p. 288.
- ^ 昭和51年10月28日、参議院運輸委員会会議録7号29頁
- ^ 立川談志がん告白 単独インタビュー - ウェイバックマシン(1998年2月11日アーカイブ分)
- ^ 立川談志きょうがん手術 - ウェイバックマシン(1998年2月11日アーカイブ分)
- ^ 立川談志がん手術、無事成功 - ウェイバックマシン(1998年2月11日アーカイブ分)
- ^ 仮退院桂歌丸、一番の喜びは「談志が生きていたこと」 日テレNEWS24 2010年3月2日閲覧
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- ^ 松岡 2011, p. 298.
- ^ “立川談志さん、喉頭がんで死去…75歳、声失い最後は筆談”. スポーツ報知. (2011年11月24日) 2011年11月24日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 高田文夫/笑芸人編 『落語ファン倶楽部 Vol. 16 談志 だいすき』 白夜書房、2012年4月、ISBN 978-4-86191-902-2。pp.81-87。
- ^ “立川談志さん、余命宣告されていた 長男長女が緊急会見”. ORICON NEWS. 2021年12月22日閲覧。
- ^ 立川キウイのブログの 2011年11月22日の記事[リンク切れ]および 23日の記事[リンク切れ]参照。
- ^ 立川談慶の2011年11月23日のツイート 其の壱[リンク切れ]。後にこの発言は撤回している(立川談慶の2011年11月23日のツイート 其の弐[リンク切れ])。
- ^ 油井雅和(@yuimasakazu) (2021年11月3日). “もう10年ですから言っちゃいましょう”. twitter. 2021年11月3日閲覧。 “冒頭で談慶師匠が話してましたが10年前の11月23日、電話を入れたら驚いた様子で「ガセネタです。間違ってると思いますよ」と言われたのは実は私です”
- ^ 立川談志+落語立川流『シン・談志が死んだ 立川流はどこへ行く 立川志の春「婚礼の日の『ご愁傷様』」』小学館、2023年11月26日、152-155頁。ISBN 9784093891417。
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- ^ 立川談志 - オリコンCM出演情報
- ^ 桑田佳祐、『NHK 紅白歌合戦』で復活。ニューアルバム『MUSICMAN』情報も解禁 バークス
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