李成桂 家系

李成桂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/19 14:19 UTC 版)

家系

宗室

  • 正室:承仁順聖神懿王后(安辺韓氏)追尊(朝鮮建国の1年前に亡くなる)
    • 鎮安君[注 6] 李芳雨
    • 定宗(永安君) 李芳果
    • 益安君 李芳毅
    • 懐安君 李芳幹
    • 太宗(靖安君) 李芳遠
    • 徳安君 李芳衍 -(早世)
    • 慶慎公主(生年不詳 - 1426年。上党府院君 景粛公 李薆に降嫁。1男を儲けた)
    • 慶善公主(青原君 沈淙に降嫁。1女を儲けた)
  • 継室:順元顕敬神徳王后(谷山康氏)李氏朝鮮王朝初代王妃

※高麗時代は一夫多妻制であり、故郷に住む第一夫人が神懿王后韓氏、神徳王后康氏は、都の開京に住む第二夫人であった。

  • 後宮:誠妃元氏朝鮮語版(生年不詳 - 1449年。本貫は原州元氏
  • 後宮:貞慶宮主劉氏朝鮮語版(本貫は高興柳氏)
  • 後宮:和義翁主金氏朝鮮語版(生年不詳 - 1428年。名は七点仙。金海出身)
    • 淑慎翁主朝鮮語版(生年不詳 - 1453年。唐城尉 洪海に降嫁。3男1女を儲けた)
  • 後宮:賛徳周氏朝鮮語版(生没年不詳)
    • 宜寧翁主(生年不詳 - 1466年。啓川尉 李䔲に降嫁。4男3女を儲けた)

李氏の出自

李成桂の祖先について

李氏朝鮮王室の根元である全州李氏の始祖は『太祖実録』によると新羅司空を努めた李翰である。

李翰とその子孫たちは全州の有力者として影響力を持ち、1170年武臣の乱を契機に開京の中央政界に進出した[11]。しかし全州李氏一族の発展はすぐに躓くことになる。李成桂の六代前の李璘は兄の李義方と共に武臣政権成立の勢いに乗じて中央で活躍したが、1174年に李義方が鄭仲夫により粛清されると、李璘も開京から追放され、故郷の全州に都落ちする身となった[8]。李璘の子の李陽茂も苦難の日々を過ごした。そして彼らは都での権力闘争に敗れると、全州で一揆を起こした疑いまでかけられるようになる[11]。ついに李成桂の四代前、李陽茂の子である李安社は180戸に及ぶ一族郎党を率いて故郷を離れた。

最初彼らは三陟に定住したが、中央からの追手に見つかったため、宜州(現在の元山市)に移り、後にモンゴル元朝)に投降した[11]。朝鮮王室の記録では「穆祖(李安社)が山城別監(地方の役人)と官衙の妓を巡って激しく対立し、その別監が何かにつけて揚げ足をとり、軍隊を動員して穆祖を害そうとした。それに堪えられなかった穆祖は一族郎党を率いて三陟に避難したが、その別監が人事異動で三陟の按廉使(地方長官)として来ることになったので、再び一族郎党を率いて海路を通じて東北面の宜州に移住した[11]。高麗朝廷は、穆祖を宜州兵馬使に任命し、高原を守って元軍を防ぐようにした。当時、双城の以北は開元路に属し、元朝の山吉大王が双城に駐屯し鉄嶺(現在の高山郡)以北を取ろうとした。山吉が穆祖に何度も人を送り投降するよう促すと、穆祖はやむを得ず1千戸を伴い元朝に投降した[29]。そこは元朝の影響下にあり、国外亡命の様相を呈した」[30]と記している。しかし現在では研究が進んだ結果、これが事実ではないことが明らかとなった。その実態は中央政府の監視や圧力に耐えられなかったか、すすんで中央に反旗を翻した末に敗北して亡命に至ったと考えられている[11]

斡東(現在の慶興郡)に亡命した李安社は元朝からダルガチの職責を与えられ周辺の女真族の統治を任された[31]。しかし女真族との間に徐々に対立が生じると、李成桂の曾祖父の李行里(翼祖)は一族郎党を率いて南方の登州(現在の安辺郡)に移住して[31]、妻である貞淑王后崔氏(本貫は登州[32][33]であり、登州で戸長を務めていた崔基烈の娘)とのあいだに李椿を授かり、一族は磨天嶺以南(以北には女真族の集落が散在)の東北面を管轄する大勢力となり一種の独立政権を築いた[31]

論点

李成桂の出自は公的には全州李氏とされているが、三田村泰助は「がんらい李成桂は、全羅道全州の名門の出といわれるが、疑わしく、数代まえより、北朝鮮の咸鏡道にいた」と述べている[34]池内宏は、全州李氏という如きは決して信じるべきではないと斥けている[35]六反田豊は、高祖父の李安社の時代に全州から東北面に移住して、元朝に入仕した後各地を転々とした。あるいは父の李子春は、双城などの千戸として元朝に仕えたが、1355年に高麗に内応して小府尹に任命され、翌年高麗が行った双城総管府攻撃の際に、恭愍王の命令を受けてこれを攻撃して戦功を立て咸鏡道の万戸・兵馬使の任命されたというのは「伝説」として[36]、「こうした伝説は、『高麗史』『太祖実録』『竜飛御天歌』等にみられるが、どこまで史実を反映したものであるかは疑問である」と述べている[37]生母懿恵王后崔氏は、もと中国山東半島登州人であり、咸鏡道移住して暮らしていた[9][10]。一方、李成桂を女真族とする説やモンゴル軍閥とする説もある。

女真族説

池内宏[38]岡田英弘[39]山内弘一[40]などは、李成桂が女真族あるいは女真族の血を引いている可能性を指摘している。宮嶋博史は、「全州李氏の一族とされるが、女真族の出身とする説もある。父の李子春は、元の直轄領となっていた咸鏡道地域の双城総管府に使える武人であった。この地域は女真族が多く住んでいた。李成桂が武臣として台頭するにあたっても、その配下の女真人の力が大きく作用した[41]」「女直とは女真族であり、朝鮮と女真との関係は李朝の建国以後においても、格別深いものがあった。李朝を建国した李成桂の配下には、多くの女真族が含まれていた。彼が高麗末に傑出した武将としての地位を占めることができた理由の一つが、女真族の武力の吸収にあったのである[42]」と記している。

モンゴル軍閥説

韓国の東洋史学者・尹銀淑(ユンウンスク)と中国のモンゴル人学者・エルデニ・バタル(内モンゴル大学教授)は博士の学位論文を通じて、李成桂はモンゴル軍閥出身で、李成桂の家門は旧高麗領に置かれた元の直轄統治機構である双城総管府でほぼ100年間にわたりモンゴルの官職を務め、勢力を伸ばしたために、李朝を建国することができたという新しい学説を提唱している[43][44][45]

尹銀淑は学位論文『蒙元帝国期オッチギン家の東北満州支配』において13~14世紀に東北・満州地域を元のオッチギン家が支配したという事実に注目したと述べている。チンギス・カンが1211年に征服した土地を近親者に分け与え、弟のテムゲ・オッチギンには東北・満州地域を統治させた。オッチギンは遊牧と農耕を基盤にこの地で独立的な勢力を形成していた。

李成桂の高祖父の李安社は全州から豆満江流域の斡東地域に移り、後の1255年に千戸長、ダルガチの地位をモンゴル皇帝から賜ったが、千戸長はモンゴル族以外の人が任命されることが非常に珍しい高位の職であることから、実質的にはオッチギンから認められた軍閥勢力が就任していたと述べている。1290年にオッチギン家で内紛が起きたため、李安社の子の李行里は斡東の基盤を失って咸興平野に移住したが、千戸長、ダルガチの職位は李行里の曾孫である李成桂の時まで五代に渡って世襲された。エルデニ・バタルは学位論文『元・高麗支配勢力関係の性格研究』において李成桂一門はオッチギン家を通じ、当時最先端にあったモンゴル帝国の軍事技術を直接吸収し、その後、オッチギン家直属の斡東と双城総管府の多くの条件を活用して自らの勢力を育てた。李成桂は1362年に元の将軍ナガチュとの戦闘で、この先端技術を用いて勝利していると述べている。

尹銀淑は1388年の威化島回軍も、モンゴルの内部事情に精通している李成桂が、明軍の攻勢によってブイル・ノールの戦いで惨敗した北元の軍事力が崩壊されたことを把握した上で起こした「旧モンゴル将軍の裏切り」と見るべきだと述べている。従って、李氏朝鮮の建国は朝鮮半島の自生的産物としてだけでは見る事は出来ず、モンゴル帝国の中心地である北東アジアで、13世紀から14世紀に起きた激変の歴史の総体的果実として生まれた王朝が李氏朝鮮であり、朝鮮王朝は表面では親明事大を標榜していたにもかかわらず、パクス・モンゴリカ体制の中心である北方遊牧帝国の伝統を事実上維持し続けていたと述べている。

李成桂と箕子朝鮮の関係

李成桂は、李氏朝鮮建国前に北方民族を懐柔するための榜文のなかで、朝鮮征服して箕子朝鮮を建国した中国殷王朝政治家である箕子について、「と並び立つ武王が箕子を朝鮮に封じ、遼河の西の疆域を下賜した」と主張するなど、箕子の業績を顕彰、その威徳を讃えている[46]。また明朝に国号の命名を要請し、新王朝の樹立の正統性を明から得た後も「箕子,始興教化之君」を語り、箕子による朝鮮人教化の意義を強調している[46]。李成桂は箕子の祭祀について、「箕子が朝鮮に封じられ、文化の礎となった。前朝(高麗王朝)の始祖は、三韓統一に尽力した人物なので、祭田を設けて祭祀をおこなうのが妥当であろう」と主張し、国家歴史文化の象徴である箕子の業績を顕彰、その威徳を讃えるため、箕子を祭祀することを主張した[46]


注釈

  1. ^ 太祖実録の総序によれば、「太祖康献至仁啓運聖文神武大王, 姓李氏, 諱旦, 字君晋, 古諱成桂, 號松軒, 全州大姓也。」であるので、本貫は全州李氏となる。
  2. ^ 元々、高麗の領土であったが、1258年のモンゴル軍の第四次侵略において、高麗の土着の豪族が投降する動きがあり、これに対応してモンゴルは、和州に設置し、周辺を領土化した。 村井(1999)
  3. ^ 儒教の知識を持ち、腐敗した仏教勢力やこれに連なる貴族が有する膨大な土地と人を国家に取り戻すことなどを訴えた。 李(2006)
  4. ^ 第一は小を以て大に逆らうのが不可であり、第二は夏に軍を動員するのが不可であり、第三は国を挙げて遠征すれば、倭寇がその虚に乗じてくるから不可であり、第四は暑くて雨の多い時に当たり、弓弩の膠(にかわ)が解け、大軍が疫疾にかかりやすいから不可である(姜在彦『歴史物語 朝鮮半島』朝日新聞社、2006年、120頁より引用)
  5. ^ 平壌城では火が燃えさかり、安州城の外では煙が立ちこめている。平壌と安州の間を往復する李将軍よ、願わくは蒼生(人民)を救いたまえ。(李大淳監修李成茂著『朝鮮王朝史(上)』金容権訳、日本評論社、2006年、57頁 - 58頁より引用)
  6. ^ “大君”の称号ができたのは1401年(太宗元年)。

出典

  1. ^ 『李朝太宗実録』巻十五, 太宗八年五月壬申条による。
  2. ^ 日本大百科全書李成桂』 - コトバンク
  3. ^ “<Wコラム>朝鮮王朝おもしろ人物列伝~朝鮮王朝を建国した初代王・太祖”. wowKorea(ワウコリア). (2016年6月7日). http://www.wowkorea.jp/section/column/read/167648.htm 2020年11月28日閲覧。 
  4. ^ 日本国語大辞典李成桂』 - コトバンク
  5. ^ a b c d 第2版, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,デジタル大辞泉,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典. “李成桂とは”. コトバンク. 2022年9月15日閲覧。
  6. ^ 百科事典マイペディア,日本大百科全書(ニッポニカ). “李朝(朝鮮)とは”. コトバンク. 2022年9月15日閲覧。
  7. ^ a b 吉田光男 (2009年). 近世ソウル都市社会研究: 漢城の街と住民 - 58 ページ. 草風館 
  8. ^ a b c d e f g h i j k 姜(2006)
  9. ^ a b 斗山世界大百科事典
  10. ^ a b rootsinfo
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 李(2006)
  12. ^ a b c d e f g h i j k l 麗(1989)
  13. ^ 伊藤(1986)
  14. ^ a b c d e 李(1989)
  15. ^ a b c 水野(2007)
  16. ^ 旗田(1974)
  17. ^ 金(2002)
  18. ^ 小島毅『「歴史」を動かす―東アジアのなかの日本史』亜紀書房、2011年8月2日、129頁。ISBN 4750511153 
  19. ^ 小島毅『「歴史」を動かす―東アジアのなかの日本史』亜紀書房、2011年8月2日、130頁。ISBN 4750511153 
  20. ^ a b c 矢木毅 2008, p. 43
  21. ^ a b 矢木毅 2008, p. 44
  22. ^ 矢木毅 2008, p. 40
  23. ^ 黄文雄『日本の植民地の真実』扶桑社、2003年10月31日、137頁。ISBN 978-4594042158 
  24. ^ 矢木毅 2008, p. 45
  25. ^ 矢木毅 2008, p. 41
  26. ^ 矢木毅 2008, p. 49
  27. ^ 太宗実録 2年の記事。「遣上護軍朴淳于東北面, 被殺于彼軍中。淳至咸州, 教都巡問使朴蔓及州郡守令, 勿從思義, 遂被殺于彼軍中。」
  28. ^ 武田幸男 編『朝鮮史』山川出版社〈世界各国史〉、2000年8月1日、143頁。ISBN 978-4634413207 
  29. ^ 『李朝実録総序』
  30. ^ 李大淳監修李成茂著『朝鮮王朝史(上)』金容権訳、日本評論社、2006年、78 - 79頁より引用
  31. ^ a b c 「壬辰倭乱、ヌルハチと朝鮮 2」、Kdaily(朝鮮語)、2007年2月8日
  32. ^ 『国朝紀年』「貞淑王后崔氏籍登州」
  33. ^ 東国輿地勝覧』巻48『定陵碑』「皇曾祖諱行里、襲封千戸、今封翼王、陵號曰智、配登州崔氏、今封貞妃、陵號曰淑」
  34. ^ 三田村泰助『明帝国と倭寇』人物往来社〈東洋の歴史〉、1967年、153頁。 
  35. ^ 池内宏『李朝の四祖の伝説とその構成』中央公論美術出版〈満鮮史研究 近世編〉、1972年、29頁。 
  36. ^ 六反田豊 1986, p. 45
  37. ^ 六反田豊 1986, p. 77
  38. ^ 池内宏『李朝の四祖の伝説とその構成』中央公論美術出版〈満鮮史研究 近世編〉、1972年。 
  39. ^ 岡田英弘『モンゴル帝国の興亡』筑摩書房、2001年10月1日。ISBN 978-4480059147 
  40. ^ 山内弘一 著、武田幸男 編『朝鮮王朝の成立と両班支配体制』山川出版社〈朝鮮史〉、2000年8月1日。ISBN 978-4634413207 
  41. ^ 岸本美緒宮嶋博史『明清と李朝の時代』中央公論社〈世界の歴史 (12)〉、1998年4月1日、17頁。ISBN 4124034121 
  42. ^ 岸本美緒宮嶋博史『明清と李朝の時代』中央公論社〈世界の歴史 (12)〉、1998年4月1日、247頁。ISBN 4124034121 
  43. ^ “李成桂の家系はモンゴル軍閥”. 朝鮮日報. (2009年10月4日). http://www.chosunonline.com/news/20091004000002 
  44. ^ “一歷史學家主張“李成桂是高麗系蒙古軍閥”有望引起爭論”. 朝鮮日報. (2006年9月5日). オリジナルの2010年4月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100430111049/http://chinese.chosun.com/big5/site/data/html_dir/2006/09/05/20060905000004.html 
  45. ^ (朝鮮語) 보르지기다이 에르데니 바타르 (ボルジギダイ・エルデニ・バタル) 『팍스몽골리카와 고려 (パックス・モンゴリカと高麗)』, 혜안 (2009/08). ISBN 9788984943674
  46. ^ a b c 姜智恩 (2017年6月). “朝鮮儒者中華認同的新解釋 ─「天下」與「國家」的整合分析” (PDF). 中央研究院近代史研究所集刊 (中央研究院) (96期): p. 50. オリジナルの2020年2月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200216221629/http://www.mh.sinica.edu.tw/MHDocument/PublicationDetail/PublicationDetail_3253.pdf 






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