李成桂 年表

李成桂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/19 14:19 UTC 版)

年表

  • 1335年:咸州(現在の咸鏡南道咸興市附近、双城総管府のあった所)で、元朝の斡東千戸所千戸兼ダルガチ李子春の次男として産まれる。
  • 1355年:父と共に高麗朝廷に入朝し、恭愍王に謁見する。
  • 1356年:李子春、高麗に寝返り、双城総管府陥落の手引を行なう。
  • 1361年:父の死に伴って高麗の官吏になる。同年に高麗へ侵入する紅巾軍と交戦して、都の開京を奪還。
  • 1362年:咸鏡道に入り込んだ納哈出(ナハチュ)軍を撃退する。
  • 1363年:元朝、恭愍王を廃位し、代わりに徳興君王譓を王位に建てようとする。
  • 1364年:崔儒と徳興君王譓が引率した元軍を迎撃して殲滅させる。
  • 1370年遼東地域に侵攻する為に遠征を行う。
  • 1374年:恭愍王、宦官に殺され、庶子の王禑が李仁任の推戴により第32代高麗王に擁位される。
  • 1376年:倭寇が公州を落とし開京が危機に陥ったため倭寇討伐に赴く。
  • 1377年:李成桂の相やけである池奫が李仁任と対立して粛清される。
  • 1380年:倭寇の首領アキバツ(阿只抜都)の軍を雲峰で撃退した(荒山戦闘)。
  • 1382年:女直のホバツが朝鮮東北部を荒らしたのでこれを撃退した。
  • 1385年:咸州に入り込んだ倭寇を撃退。
  • 1388年:崔瑩と協力して李仁任一派を粛清し、守門下侍中(副宰相)を拝命される。同年5月、鉄嶺以北の割譲を要求してきたに対抗して遼東への攻略を命じられたが、兵を開京へ向け軍事クーデターを起こし、崔瑩を追い出す(威化島回軍)。王禑を退位させ、世子の王昌を第33代高麗王に擁立する。配流に処せられた崔瑩は処刑される。
  • 1389年:王禑と王昌を殺害し、第20代神宗の7代孫を恭譲王として第34代高麗王に擁立する。
  • 1390年:権勢家の私田を没収する田制改革が実行される。これを通じて新王朝建国に必要な経済力を確保する。
  • 1392年恭譲王を廃位して、高麗王として即位(権知高麗国事)。
  • 1393年:明より王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、洪武帝が「国号はどう改めるのか、すみやかに知らせよ」といってきたので、高麗のほうでは「朝鮮」(朝の静けさの国)と「和寧」(平和の国)の二つの候補を準備して洪武帝に選んでもらった。「和寧」は北元の本拠地カラコルムの別名であったので、洪武帝は、むかし前漢武帝にほろぼされた王国の名前である「朝鮮」を選んだ、そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより朝鮮を国号とした。和寧(和州)と言うのは李成桂の出身地の名であり、現在では国号の本命ではなかったとの意見が多い[28]
  • 1394年:漢陽(漢城、現在のソウル)に遷都。三陟に追放していた恭譲王を謀反の疑いを理由にその子とともに殺害する。
  • 1398年:李成桂は八男の李芳碩を後継にしようとしたが、五男の李芳遠が反乱を起こし李芳碩を殺してしまう(第一次王子の乱)。この時病床にありこの争いに嫌気が差した李成桂は、国事を放棄し、李芳遠の推挙した次男の李芳果(定宗)に国事を譲る。
  • 1399年:定宗、開京に遷都。
  • 1400年:定宗の弟で、李成桂の四男である李芳幹が第二次王子の乱を起こし、その鎮圧に功の有った李芳遠(太宗)に定宗は国事を譲位する。李成桂は、ショックで咸州に引きこもってしまう。
  • 1401年:明から正式に国王号が認められる。
  • 1402年:太宗と和解し、開京に戻る。
  • 1405年:漢陽に再々還都する。
  • 1408年昌徳宮にて死去(73歳)。晩年は念仏三昧の日々を送ったという。

注釈

  1. ^ 太祖実録の総序によれば、「太祖康献至仁啓運聖文神武大王, 姓李氏, 諱旦, 字君晋, 古諱成桂, 號松軒, 全州大姓也。」であるので、本貫は全州李氏となる。
  2. ^ 元々、高麗の領土であったが、1258年のモンゴル軍の第四次侵略において、高麗の土着の豪族が投降する動きがあり、これに対応してモンゴルは、和州に設置し、周辺を領土化した。 村井(1999)
  3. ^ 儒教の知識を持ち、腐敗した仏教勢力やこれに連なる貴族が有する膨大な土地と人を国家に取り戻すことなどを訴えた。 李(2006)
  4. ^ 第一は小を以て大に逆らうのが不可であり、第二は夏に軍を動員するのが不可であり、第三は国を挙げて遠征すれば、倭寇がその虚に乗じてくるから不可であり、第四は暑くて雨の多い時に当たり、弓弩の膠(にかわ)が解け、大軍が疫疾にかかりやすいから不可である(姜在彦『歴史物語 朝鮮半島』朝日新聞社、2006年、120頁より引用)
  5. ^ 平壌城では火が燃えさかり、安州城の外では煙が立ちこめている。平壌と安州の間を往復する李将軍よ、願わくは蒼生(人民)を救いたまえ。(李大淳監修李成茂著『朝鮮王朝史(上)』金容権訳、日本評論社、2006年、57頁 - 58頁より引用)
  6. ^ “大君”の称号ができたのは1401年(太宗元年)。

出典

  1. ^ 『李朝太宗実録』巻十五, 太宗八年五月壬申条による。
  2. ^ 日本大百科全書李成桂』 - コトバンク
  3. ^ “<Wコラム>朝鮮王朝おもしろ人物列伝~朝鮮王朝を建国した初代王・太祖”. wowKorea(ワウコリア). (2016年6月7日). http://www.wowkorea.jp/section/column/read/167648.htm 2020年11月28日閲覧。 
  4. ^ 日本国語大辞典李成桂』 - コトバンク
  5. ^ a b c d 第2版, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,デジタル大辞泉,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典. “李成桂とは”. コトバンク. 2022年9月15日閲覧。
  6. ^ 百科事典マイペディア,日本大百科全書(ニッポニカ). “李朝(朝鮮)とは”. コトバンク. 2022年9月15日閲覧。
  7. ^ a b 吉田光男 (2009年). 近世ソウル都市社会研究: 漢城の街と住民 - 58 ページ. 草風館 
  8. ^ a b c d e f g h i j k 姜(2006)
  9. ^ a b 斗山世界大百科事典
  10. ^ a b rootsinfo
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 李(2006)
  12. ^ a b c d e f g h i j k l 麗(1989)
  13. ^ 伊藤(1986)
  14. ^ a b c d e 李(1989)
  15. ^ a b c 水野(2007)
  16. ^ 旗田(1974)
  17. ^ 金(2002)
  18. ^ 小島毅『「歴史」を動かす―東アジアのなかの日本史』亜紀書房、2011年8月2日、129頁。ISBN 4750511153 
  19. ^ 小島毅『「歴史」を動かす―東アジアのなかの日本史』亜紀書房、2011年8月2日、130頁。ISBN 4750511153 
  20. ^ a b c 矢木毅 2008, p. 43
  21. ^ a b 矢木毅 2008, p. 44
  22. ^ 矢木毅 2008, p. 40
  23. ^ 黄文雄『日本の植民地の真実』扶桑社、2003年10月31日、137頁。ISBN 978-4594042158 
  24. ^ 矢木毅 2008, p. 45
  25. ^ 矢木毅 2008, p. 41
  26. ^ 矢木毅 2008, p. 49
  27. ^ 太宗実録 2年の記事。「遣上護軍朴淳于東北面, 被殺于彼軍中。淳至咸州, 教都巡問使朴蔓及州郡守令, 勿從思義, 遂被殺于彼軍中。」
  28. ^ 武田幸男 編『朝鮮史』山川出版社〈世界各国史〉、2000年8月1日、143頁。ISBN 978-4634413207 
  29. ^ 『李朝実録総序』
  30. ^ 李大淳監修李成茂著『朝鮮王朝史(上)』金容権訳、日本評論社、2006年、78 - 79頁より引用
  31. ^ a b c 「壬辰倭乱、ヌルハチと朝鮮 2」、Kdaily(朝鮮語)、2007年2月8日
  32. ^ 『国朝紀年』「貞淑王后崔氏籍登州」
  33. ^ 東国輿地勝覧』巻48『定陵碑』「皇曾祖諱行里、襲封千戸、今封翼王、陵號曰智、配登州崔氏、今封貞妃、陵號曰淑」
  34. ^ 三田村泰助『明帝国と倭寇』人物往来社〈東洋の歴史〉、1967年、153頁。 
  35. ^ 池内宏『李朝の四祖の伝説とその構成』中央公論美術出版〈満鮮史研究 近世編〉、1972年、29頁。 
  36. ^ 六反田豊 1986, p. 45
  37. ^ 六反田豊 1986, p. 77
  38. ^ 池内宏『李朝の四祖の伝説とその構成』中央公論美術出版〈満鮮史研究 近世編〉、1972年。 
  39. ^ 岡田英弘『モンゴル帝国の興亡』筑摩書房、2001年10月1日。ISBN 978-4480059147 
  40. ^ 山内弘一 著、武田幸男 編『朝鮮王朝の成立と両班支配体制』山川出版社〈朝鮮史〉、2000年8月1日。ISBN 978-4634413207 
  41. ^ 岸本美緒宮嶋博史『明清と李朝の時代』中央公論社〈世界の歴史 (12)〉、1998年4月1日、17頁。ISBN 4124034121 
  42. ^ 岸本美緒宮嶋博史『明清と李朝の時代』中央公論社〈世界の歴史 (12)〉、1998年4月1日、247頁。ISBN 4124034121 
  43. ^ “李成桂の家系はモンゴル軍閥”. 朝鮮日報. (2009年10月4日). http://www.chosunonline.com/news/20091004000002 
  44. ^ “一歷史學家主張“李成桂是高麗系蒙古軍閥”有望引起爭論”. 朝鮮日報. (2006年9月5日). オリジナルの2010年4月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100430111049/http://chinese.chosun.com/big5/site/data/html_dir/2006/09/05/20060905000004.html 
  45. ^ (朝鮮語) 보르지기다이 에르데니 바타르 (ボルジギダイ・エルデニ・バタル) 『팍스몽골리카와 고려 (パックス・モンゴリカと高麗)』, 혜안 (2009/08). ISBN 9788984943674
  46. ^ a b c 姜智恩 (2017年6月). “朝鮮儒者中華認同的新解釋 ─「天下」與「國家」的整合分析” (PDF). 中央研究院近代史研究所集刊 (中央研究院) (96期): p. 50. オリジナルの2020年2月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200216221629/http://www.mh.sinica.edu.tw/MHDocument/PublicationDetail/PublicationDetail_3253.pdf 






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