李成桂 略伝

李成桂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/19 14:19 UTC 版)

略伝

1335年、李成桂は双城総管府[注 2]の咸州(咸鏡南道咸興市)で李子春永興崔氏中国山東半島登州人で咸鏡道移住していた[9][10]懿恵王后)の子として生まれた[8]

朝鮮王朝建国までの道程

高麗に帰順する以前の李成桂の行跡については、残っている記録がほとんどない。『李朝実録総序』は、若い頃の李成桂が神弓に近い弓術を披露したり、勇猛で北方の野人から畏敬されたという伝説的な話が断片的に伝えている。1356年、高麗の恭愍王は反元政策を掲げ、元に奪われていた領土の収復を推進した[11]。領土奪還のためには全州李氏一族の協力が必要であった[11]。李成桂の父で、当時元朝の斡東千戸所千戸の地位にあった李子春は恭愍王の政策に進んで協力した[11]。恭愍王は双城総管府攻撃の直前に、李子春を開京に呼んで小府尹という高位の官職を与えた[11]。東北面兵馬使柳仁雨率いる高麗軍が双城を攻撃すると、李子春は内部から呼応して高麗軍と共に戦い[11]、双城を容易に陥落させた[11]。この功により李子春は従二品の位を授かり、東北面兵馬使に任じられ[11]、全州李氏一族は高麗に復帰した[11]

双城陥落から4年後の1360年に李子春は朔方道万戸兼兵馬使に任命されたが[12]、その直後に46歳で亡くなった。既に彼の息子である李成桂は武将となっており、翌年には朴儀の反乱を鎮圧して功を立てている[12]。また、この年に李成桂は二つの大きな戦いを経験している。一つ目は紅巾軍の侵入である。1361年、10万の紅巾軍が南侵して首都開京を占領した[12]。首都奪還戦において2000名を率いて開京一番乗りを果たした[12]。この戦いはその後の李成桂の台頭の始まりとなった[13]。二つ目は元軍との戦いである。双城を奪還のために侵攻してきた元の大軍を咸興平野で殲滅し、ここでも勇名を高めた[14]

当時の中国遼東地方では、元の権威が弱まったことに乗じて、元の納哈出(ナガチュ)が行政丞相を自称して強大な勢力をもっていた[12]。納哈出は遼東を支配下に置くと、自ら軍勢を率いて高麗に侵入し、瞬く間に西北部を攻略して三撒(咸鏡南道北青郡)・忽面(咸鏡南道洪原郡)にまで迫った[12]。1362年2月、李成桂は東北面兵馬使として納哈出征討を行い、これを撃破して咸関嶺(洪原の西15km)まで追撃したが納哈出を逃してしまった[12]。同年7月、遼東で兵を補った納哈出は再び高麗に侵入したが、再度これを撃破し、納哈出に高麗侵入を断念させた[12]。1363年、元は高麗の態度を不遜だとし、反元の恭愍王を廃し、恭愍王の叔父である徳興君王譓を王位に就かせようとしたが、高麗は断固としてこの要求を拒んだ[14]。1364年、元は高麗の反逆者崔儒に元兵1万を授けて高麗に侵攻させたが、李成桂は崔瑩らと共に国境近くでこれを殲滅した[14]。この敗北により元は恭愍王の復位を容認して崔儒を高麗に送還し、高麗は元の干渉からほぼ完全に脱却した[15]。そして同年2月、遼東から大軍で侵入して和州(咸鏡南道金野郡)以北を占領していた女真族を李成桂は討伐して領土を奪還した[12]。この女真討伐戦の時に文官として従軍したのが、親友でありながら後に李成桂と対立した鄭夢周である[12]。李成桂は1370年には東北面元帥として東寧府を攻め、さらには元の遼陽までも制圧した[14]

南方の対倭寇戦では、1377年に智異山で倭寇を殲滅したことによって名声を確固たるものにし[12]、同年8月にも西海道(黄海道)一帯の倭寇を大破していた[14]。そして1380年倭寇が500隻から成る軍勢で侵入し、その中で最も強力な倭寇の集団が雲峰(全羅北道南原市)の引月駅を占領したため、高麗側は9人の元帥に攻撃させたが敗北して二人の元帥が死んだ。この事態を受けて李成桂は総指揮官に任命され、首領阿只抜都率いる倭寇を引月駅に進撃してこれを破った(荒山戦闘)[12]

一連の戦いで名声を得た李成桂のもとには、新興官僚[注 3]や地方豪族が集まっていくことになる[16]。1388年、が高麗領である鉄嶺以北の割譲を一方的に通告してきたため、高麗の第32代国王王禑と崔瑩は遼東地域を支配下に置くことで明の圧力を退けようと計画した[15]。李成桂は右軍都総使に任じられ[8]、前線指揮を担った[17]。李成桂は四つの不可論[注 4]を理由に出兵を反対していたが、王禑は崔瑩の意見に従い反対論を無視し遠征を開始した[8]。実はこの出兵には遼東支配以外にも新興官僚勢力や李成桂ら武人の勢力を削るという目的があった[15]。王禑は遠征軍の勝利に興味がないと公言し、出征の日に激励の言葉を一つもかけなかった[11]。また、反乱に備えて遠征する武将らの家族は王宮に来させて人質(回軍の時には全員脱出した)とした[11]

1388年5月、遠征軍は鴨緑江河口の威化島に到達したが、大雨による増水で河を渡ることが出来ず、日が経つにつれて逃亡する兵士が後を絶たず、食糧の補給も難しくなっていた[8]。このような状況を理由に李成桂は撤退を要求したが、これも認められなかったため、李成桂は独自に撤退を開始した(威化島回軍[8]。回軍を聞いて遠方から2000名以上が李成桂を助けるべく馳せ参じた[11]。また民衆も回軍を歓迎し[11]、李成桂に希望を持つ歌が流行した[注 5]。一方の高麗朝廷は既に民からすでに見放されており[11]、回軍の報せを受けた崔瑩が抵抗軍を組織しようとしたが集まる者は殆どいなかった[11]

6月1日に開京に着いた李成桂は、王禑に遠征の責任を問い、崔瑩の処罰を要求した。しかし、王禑は李成桂らを反逆者として、彼らを殺したものに褒賞を与えるという触書を出したため[11]、李成桂は交渉を諦めて王宮を攻め崔瑩を捕虜とした[11]。崔瑩は処刑されずに遠方に流され(二か月後に処刑されている)、王禑は王の地位を失わなかったが、権力を失い名ばかりのものとなった[11]。王禑は王権を取り戻すべく、内侍80名に李成桂らの私邸を襲わせたが失敗して追放され[11]、子の王昌曹敏修らに擁立されて王位に就いた[11]

しかし、李成桂らに擁立された恭譲王に1389年、王位を奪われ[8]、王昌と王禑は処刑された。恭譲王も朝鮮王朝樹立の2年後の1394年には李成桂の命令で処刑された(李成桂自身は王氏一族を内地に復帰させて自由に暮らすのを認めようとしていたが、臣下達の強い要請によって処刑せざるを得なかったとされる)[11]。このとき李成桂により王氏(高麗王家)一族の皆殺しも行なわれた。即位の後3年間王氏一族を巨済島などの島々に集めて監視し、1394年4月に一斉に海に投げたり斬殺したりして王氏を虐殺した。元々王氏一族ではなかったが高麗王家から姓を賜った者たちは死は免れたものの、本姓に戻るよう命じられた。王氏一族の一部は姓を変えて隠れることができたが、文宗により王氏掃討の令が解かれた後にも王氏一族の多くは復姓しなかったとされる。文宗の時になって隣人の密告で捕まった王氏が許され一族を継いだが、韓国統計庁が2000年に行なった本貫調査によると開城王氏の人口は2.0万人と極端に少なかった。高麗王家では日本の武家同様、後継者に危害の及ばぬように後継者以外の王子は出家させたり母側の姓にすることが一般的であり王氏の数は元々少なかった上、このときの皆殺しで王氏の数が激減したことも原因とされる。

政治の実権を握った李成桂・鄭道伝・趙浚らは親元的な特権階級、権力と結びつき腐敗した仏教勢力が私有地を拡大したために国庫が尽きている現状を痛烈に批判し、1390年から田制改革を強行した[8]

権知高麗国事から権知朝鮮国事

1392年7月、国家の方針を決定する都評議使司は新興官僚層が推戴した李成桂に即位を要請し、恭譲王を追放した[8]。「禅譲」の形式による新国家樹立であった[8]。李成桂は、「権知高麗国事」を正式に名乗ったが、「知」「事」が高麗を囲んでおり、「権」は日本の権大納言権中納言と同じで「副」「仮」という意味であり、「権知高麗国事」とは、仮に高麗の政治を取り仕切る人という意味である[18]。このように李成桂は、事実上の王でありながら、「権知高麗国事」を名乗り朝鮮を治めるが、それは朝鮮王は代々中国との朝貢により、王(という称号)が与えられたため、高麗がから王に認めてもらったように、李成桂もから王に認めてもらうことにより、正式に李氏朝鮮となる。小島毅は、「勝手に自分で名乗れない」「明の機嫌を損ねないように、まずは自分が高麗国を仮に治めていますよというスタンスを取り、それから朝貢を行い、やがて朝鮮国王として認めてもらいました」と評している[19]。王位に就いた壬申年7月17日(旧暦)、つまり1392年8月3日(陽暦)から癸酉年2月14日、つまり西暦1393年3月26日まで李成桂は形式上では高麗の王であり、1393年3月27日から正式に朝鮮王となった。吉田光男によると、明の初代皇帝朱元璋は李成桂には1392年に権知高麗国事という称号を与え、国号を変更を迫った後に李成桂が提案した「和寧」「朝鮮」の二つから朝鮮へ変えることを1393年に認めた後も権知朝鮮国事とさせた。その結果、第三代権知朝鮮国事だった太宗が1401年に明の建文帝から朝鮮国王の称号を受けたときは、王朝開設から12年が過ぎていてた。そのため、死後に太宗によって、初代朝鮮国王の称号が与えられた[7]

李成桂と国号下賜

李成桂は1392年、明が冊封した高麗王禑王昌王恭譲王を廃位して高麗王位を簒奪して高麗王を称した後、すぐにに使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められたが、洪武帝は王朝が交代したことで、国号を変更するよう命じた。これをうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、朝鮮と和寧の二つの候補を準備し、洪武帝に選んでもらった[20]。和寧は李成桂の出身地の名であったが[20]北元の本拠地カラコルムの別名でもあったので、洪武帝は、前漢武帝にほろぼされた王朝(衛氏朝鮮)の名前であり、平壌付近の古名である朝鮮を選んだ。そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより、朝鮮は正式な国号となった。和寧が単に李成桂の出身地であるだけなのに対し、朝鮮はかつての衛氏朝鮮・箕子朝鮮檀君朝鮮の正統性を継承する意味があったことから本命とされており、国号変更以前からそれを意識する儀式が行われていた[21]

国号が朝鮮という二文字なのは、中国の冊封体制に、新王朝の君主が外臣として参加して、一文字の国号を持つ内臣より一等級格下の処遇を与えられていることを意味する[22]

国号を洪武帝に選んでもらったことは、事大主義を象徴していると揶揄されるが(例えば黄文雄は、「李朝の太祖・李成桂は、『易姓革命』によって高麗朝を簒奪した事実と実権支配の獲得を太祖に認知させるため、国家主権を明に売り渡し、明の属国と決め込んだ。朝鮮の国号王位を明によって下賜されるかたちをとったのである」と述べている[23][20]、新王朝が擬定した朝鮮の国号は、朝鮮初である檀君朝鮮と朝鮮で民を教化した箕子朝鮮を継承する意図があり[24]、首都が漢陽に置かれたのは、檀君朝鮮と箕子朝鮮の舞台であるためである。新王朝は、檀君箕子を直結させることにより、正統性の拠り所にする意図を持っていた。朝鮮という国名は、の賢人箕子が、武王によって朝鮮に封ぜられた故事に基づく由緒ある中国的な呼称であるため[25]、洪武帝は、新王朝が箕子の伝統を継承する「忠実な属国」となり、自らは箕子を朝鮮に封じた武王のような賢君になりたいと祈念した[21]。従って、中国への事大主義を国是とする新王朝が、周の武王が朝鮮に封じた箕子の継承を意図する朝鮮の国号を奏請したことは適切であった[26]

後継者争いと失意の晩年

李成桂は、八男の李芳碩(神徳王后康氏の子)に後を継がせようとし、神懿王后韓氏を後宮(側室)にした。建国に奔走した神懿王后韓氏の生んだ王子たち、特に五男の李芳遠はその仕打ちに激しく反発し、1398年に反乱を起こした(第一次王子の乱)。これにより、李芳碩と功臣鄭道伝が五男の李芳遠に殺されてしまうと、李成桂は李芳遠の奨める次男の李芳果(定宗)に譲位し、退位してしまう。その後も李成桂の王子達の反目は続き、1400年、今度は四男の李芳幹が反乱を起こす(第二次王子の乱)。この乱は李芳遠によって鎮圧され、乱後に李芳遠は定宗から王位を譲位され即位した(太宗)。

長男から六男までが神懿王后韓氏の子で、七男と八男が、神徳王后康氏の子である李成桂は自分の息子達の争いに嫌気がさし咸興に引きこもって仏門に帰依した。1402年、神徳王后康氏の親戚であった安辺府使の趙思義がむごい仕打ちを受けた神徳王后康氏の仇を討つべしと咸鏡道の豪族たちを率いて決起した(趙思義の乱)。太宗に恨みがあった李成桂もこれを後ろで支持したとされる。乱が鎮圧された後、李成桂は太宗と和解してソウルに帰って来て、国璽を太宗に授け正式に朝鮮王として認めた。

太宗は父から後継者として認められようと咸興に使者(差使)を送ったが、李成桂はソウルから差使が来る度に遠くから矢で射て殺してしまったとされ、そこから任務を遂行しようと行った人が帰って来ない状態、またはそのような人を指す「咸興差使함흥차사)」という故事成語を生じた。しかしこれはあくまで伝説であり、最後の咸興差使としてもっとも有名な朴淳は実は趙思義の乱に加わった都巡問使の朴蔓を説得するべく戦地に向かい殺されている[27]。その後李成桂は政治には関心を持たず念仏三昧の生活をしていたと言う。

1408年、74歳で薨去した。御陵は健元陵(京畿道九里市、東九陵の一つ)である。また李成桂は自分を神徳王后康氏と一緒に葬るべしとの遺言を残したが、神徳王后を恨んだ太宗はこれを守らなかったため神徳王后は健元陵に葬られることはなく、御陵は都の外へ移された後破壊されその墓石は橋の修理に使われ民がこれを踏みにじると言う酷い侮辱を受けた。


注釈

  1. ^ 太祖実録の総序によれば、「太祖康献至仁啓運聖文神武大王, 姓李氏, 諱旦, 字君晋, 古諱成桂, 號松軒, 全州大姓也。」であるので、本貫は全州李氏となる。
  2. ^ 元々、高麗の領土であったが、1258年のモンゴル軍の第四次侵略において、高麗の土着の豪族が投降する動きがあり、これに対応してモンゴルは、和州に設置し、周辺を領土化した。 村井(1999)
  3. ^ 儒教の知識を持ち、腐敗した仏教勢力やこれに連なる貴族が有する膨大な土地と人を国家に取り戻すことなどを訴えた。 李(2006)
  4. ^ 第一は小を以て大に逆らうのが不可であり、第二は夏に軍を動員するのが不可であり、第三は国を挙げて遠征すれば、倭寇がその虚に乗じてくるから不可であり、第四は暑くて雨の多い時に当たり、弓弩の膠(にかわ)が解け、大軍が疫疾にかかりやすいから不可である(姜在彦『歴史物語 朝鮮半島』朝日新聞社、2006年、120頁より引用)
  5. ^ 平壌城では火が燃えさかり、安州城の外では煙が立ちこめている。平壌と安州の間を往復する李将軍よ、願わくは蒼生(人民)を救いたまえ。(李大淳監修李成茂著『朝鮮王朝史(上)』金容権訳、日本評論社、2006年、57頁 - 58頁より引用)
  6. ^ “大君”の称号ができたのは1401年(太宗元年)。

出典

  1. ^ 『李朝太宗実録』巻十五, 太宗八年五月壬申条による。
  2. ^ 日本大百科全書李成桂』 - コトバンク
  3. ^ “<Wコラム>朝鮮王朝おもしろ人物列伝~朝鮮王朝を建国した初代王・太祖”. wowKorea(ワウコリア). (2016年6月7日). http://www.wowkorea.jp/section/column/read/167648.htm 2020年11月28日閲覧。 
  4. ^ 日本国語大辞典李成桂』 - コトバンク
  5. ^ a b c d 第2版, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,デジタル大辞泉,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典. “李成桂とは”. コトバンク. 2022年9月15日閲覧。
  6. ^ 百科事典マイペディア,日本大百科全書(ニッポニカ). “李朝(朝鮮)とは”. コトバンク. 2022年9月15日閲覧。
  7. ^ a b 吉田光男 (2009年). 近世ソウル都市社会研究: 漢城の街と住民 - 58 ページ. 草風館 
  8. ^ a b c d e f g h i j k 姜(2006)
  9. ^ a b 斗山世界大百科事典
  10. ^ a b rootsinfo
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 李(2006)
  12. ^ a b c d e f g h i j k l 麗(1989)
  13. ^ 伊藤(1986)
  14. ^ a b c d e 李(1989)
  15. ^ a b c 水野(2007)
  16. ^ 旗田(1974)
  17. ^ 金(2002)
  18. ^ 小島毅『「歴史」を動かす―東アジアのなかの日本史』亜紀書房、2011年8月2日、129頁。ISBN 4750511153 
  19. ^ 小島毅『「歴史」を動かす―東アジアのなかの日本史』亜紀書房、2011年8月2日、130頁。ISBN 4750511153 
  20. ^ a b c 矢木毅 2008, p. 43
  21. ^ a b 矢木毅 2008, p. 44
  22. ^ 矢木毅 2008, p. 40
  23. ^ 黄文雄『日本の植民地の真実』扶桑社、2003年10月31日、137頁。ISBN 978-4594042158 
  24. ^ 矢木毅 2008, p. 45
  25. ^ 矢木毅 2008, p. 41
  26. ^ 矢木毅 2008, p. 49
  27. ^ 太宗実録 2年の記事。「遣上護軍朴淳于東北面, 被殺于彼軍中。淳至咸州, 教都巡問使朴蔓及州郡守令, 勿從思義, 遂被殺于彼軍中。」
  28. ^ 武田幸男 編『朝鮮史』山川出版社〈世界各国史〉、2000年8月1日、143頁。ISBN 978-4634413207 
  29. ^ 『李朝実録総序』
  30. ^ 李大淳監修李成茂著『朝鮮王朝史(上)』金容権訳、日本評論社、2006年、78 - 79頁より引用
  31. ^ a b c 「壬辰倭乱、ヌルハチと朝鮮 2」、Kdaily(朝鮮語)、2007年2月8日
  32. ^ 『国朝紀年』「貞淑王后崔氏籍登州」
  33. ^ 東国輿地勝覧』巻48『定陵碑』「皇曾祖諱行里、襲封千戸、今封翼王、陵號曰智、配登州崔氏、今封貞妃、陵號曰淑」
  34. ^ 三田村泰助『明帝国と倭寇』人物往来社〈東洋の歴史〉、1967年、153頁。 
  35. ^ 池内宏『李朝の四祖の伝説とその構成』中央公論美術出版〈満鮮史研究 近世編〉、1972年、29頁。 
  36. ^ 六反田豊 1986, p. 45
  37. ^ 六反田豊 1986, p. 77
  38. ^ 池内宏『李朝の四祖の伝説とその構成』中央公論美術出版〈満鮮史研究 近世編〉、1972年。 
  39. ^ 岡田英弘『モンゴル帝国の興亡』筑摩書房、2001年10月1日。ISBN 978-4480059147 
  40. ^ 山内弘一 著、武田幸男 編『朝鮮王朝の成立と両班支配体制』山川出版社〈朝鮮史〉、2000年8月1日。ISBN 978-4634413207 
  41. ^ 岸本美緒宮嶋博史『明清と李朝の時代』中央公論社〈世界の歴史 (12)〉、1998年4月1日、17頁。ISBN 4124034121 
  42. ^ 岸本美緒宮嶋博史『明清と李朝の時代』中央公論社〈世界の歴史 (12)〉、1998年4月1日、247頁。ISBN 4124034121 
  43. ^ “李成桂の家系はモンゴル軍閥”. 朝鮮日報. (2009年10月4日). http://www.chosunonline.com/news/20091004000002 
  44. ^ “一歷史學家主張“李成桂是高麗系蒙古軍閥”有望引起爭論”. 朝鮮日報. (2006年9月5日). オリジナルの2010年4月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100430111049/http://chinese.chosun.com/big5/site/data/html_dir/2006/09/05/20060905000004.html 
  45. ^ (朝鮮語) 보르지기다이 에르데니 바타르 (ボルジギダイ・エルデニ・バタル) 『팍스몽골리카와 고려 (パックス・モンゴリカと高麗)』, 혜안 (2009/08). ISBN 9788984943674
  46. ^ a b c 姜智恩 (2017年6月). “朝鮮儒者中華認同的新解釋 ─「天下」與「國家」的整合分析” (PDF). 中央研究院近代史研究所集刊 (中央研究院) (96期): p. 50. オリジナルの2020年2月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200216221629/http://www.mh.sinica.edu.tw/MHDocument/PublicationDetail/PublicationDetail_3253.pdf 






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