日本山岳会 日本山岳会の概要

日本山岳会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/25 02:59 UTC 版)

公益社団法人日本山岳会
The Japanese Alpine Club
団体種類 公益社団法人
設立 1905年明治38年)
所在地 東京都千代田区四番町5番4号[1]
法人番号 9010005018846
主要人物 橋本しをり(27代会長)
永田弘太郎、桐生恒治、飯田肇(副会長)
長島泰博、南久松宏光、平川陽一郎(常任理事)[2]
活動内容 山岳に関する研究並びに知識の普及及び健全な登山指導、奨励。
会員相互の連絡懇親。
登山を通じてあまねく体育、文化及び自然愛護の精神の高揚。[3]
収入 126百万円(2016年度)[4]
基本財産 270百万円(2016年度)[4]
会員数 4600名
ウェブサイト https://jac1.or.jp/
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概要

1905年明治38年)に設立された日本最初の山岳クラブ。“The Japanese Alpine Club”として世界的に知られる。山登りを中心に、沢登り岩登り、山岳写真、地質や地理、高山植物観察、山岳図書研究など山に関する様々なことを趣味とする個人の集まりである。会員たちはボランティアで、講演や講習、出版などによる啓蒙活動、自然保護などの社会貢献活動にも熱心に取り組む。会員数は約4800名(※2021年現在)、個人加入の山岳団体としては国内最大である。会の運営は会員からの会費によって賄われている。また、日本各地に支部がある(全国33カ所)ことも日本山岳会の特色であり、各支部は本部および支部間での交流を図りつつ、独自の活動を行っている。会員の高齢化と会員数の減少にどのように対処するかが課題となっており、その解消への取り組みの1つとしてYOUTH CLUBが設けられている。

日本山岳・スポーツクライミング協会 (JMSCA) は旧称を「日本山岳協会」といい名称が似ているが、別組織である。JMSCAは日本スポーツ協会の傘下にあり、すべての都道府県にある山岳連盟(もしくは山岳協会)を統括する団体で、日本山岳会とは組織形態が大きく異なる。なお、日本山岳会はJMSCAの加盟団体である東京都山岳連盟に所属していたが、2014年3月に退会。日本山岳会の支部のなかには、各都道府県の山岳連盟に所属しているところもある。

支部

現在、33支部がありそれぞれ支部報を発行。支部独自に内外の登山、踏査山行のほか講演会や登山講習、自然保護など様々な活動を行っている。

北海道支部/青森支部/岩手支部/宮城支部/秋田支部/山形支部/福島支部/茨城支部/栃木支部/群馬支部/埼玉支部/千葉支部/東京多摩支部/神奈川支部/越後支部/富山支部/石川支部/福井支部/山梨支部/信濃支部/岐阜支部/静岡支部/東海支部/京都・滋賀支部/関西支部/山陰支部/広島支部/四国支部/福岡支部/北九州支部/熊本支部/東九州支部/宮崎支部[5]

歴史

前史

日本人は古くから山に接してきたが、その多くは山岳信仰による宗教登山や狩猟などを目的としたものであった。明治の初期には測量登山のほか、地質や高山植物の調査を目的とした学術登山が行われるようになったが、登山そのものを楽しむというアルピニズムが根付くまでには至らなかった。そうした中、1894年(明治27年)に刊行された志賀重昂の『日本風景論』は、日本にアルピニズムの気風を起こすきっかけとなった。同書には「山、山、其の平面世界より超絶する所多々」というフレーズから始まる「登山の気風を興作すべし」と題された文章が付録として付けられ、アルピニズム的な登山を鼓舞した。

この「登山の気風を興作すべし」に影響を受けて高山に登るようになった一人が小島久太小島烏水(こじま うすい))/山岳会(後の日本山岳会)初代会長)である。1902年(明治35年)、小島は友人の岡野金次郎(初期に会員だったが、10年余りで退会)と槍ヶ岳に登っている。もっとも「登山の気風を興作すべし」に書かれた登山案内や登山上の注意は、フランシス・ガルトン(イギリスの探検家・人類学者)の『旅行術』(1873年)やB・H・チェンバレン(イギリスの言語学研究者・日本研究家)とW・B・メースン(イギリスの電信技師)の共著『日本旅行者案内』(1891年)などからの引用がほとんどである。志賀自身は高山に登った経験はなかった。

日本山岳会の設立に直接的なきっかけを作ったのが、ウォルター・ウェストンである。ウェストンは1888年(明治21年)に来日したイギリスの宣教師で、ヨーロッパ・アルプスの登山経験があり、滞在中に槍ヶ岳赤石岳白馬岳など日本の高山に登っている。1894年(明治27年)の帰国後、ロンドンで『日本アルプス 登山と探検 (Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps)』(1896年)を発表し、1902年(明治35年)に再来日した。翌年、岡野は偶然『日本アルプス 登山と探検』を目にし、小島にそれを伝えるとともに横浜に住んでいたウェストンを訪ねた。その後、岡野は、小島を伴い、再び彼を訪ねている。このとき、ウェストンは2人に英国山岳会にならった団体を日本にもつくるよう勧め、様々なアドバイスをしている。ウェストンは1905年(明治38年)に帰国するが、その後も英国山岳会幹部の山岳会設立に向けての激励文などを手紙で送っている。ウェストンは1911年(明治44年)に三度目の来日を果たし、奥穂高岳槍ヶ岳などに登っている[6]

設立

1905年(明治38年)10月14日、東京飯田橋の料亭「富士見楼」で日本山岳会の設立について最終的な打ち合わせがなされ、この日が「日本山岳会の設立の日」とされている(当時の名称に「日本」はなく単に「山岳会」)[7]。創立の発起人は小島烏水(初代会長)、高頭仁兵衛(たかとう にへい)(2代会長)、武田久吉(6代会長)、河田黙(かわだ しずか、=山川黙、後に旧制武蔵高校教授、同校長などを歴任)、梅澤親光(後に陸軍砲兵学校教官)、高野鷹蔵(回漕業主)、城数馬(じょう かずま、弁護士)の7人である。すでに近代登山について相当な知識を持っていたと思われる小島以外の者は、いずれも植物採集のための登山を趣味としていた。設立時には創立メンバーのほとんどが日本博物学同志会の会員であり、山岳会はその支会として設立された。日本博物学同志会は東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)の生徒や卒業生が設立した植物や生物の採集と研究を行うグループである。

発起人の中で40歳を超えていたのは城のみ(41歳)で、小島(31歳)、高頭(28歳)のほかはいずれも20歳前後の若者であった。設立当初、事務所は日本博物学同志会と同じ場所にあったと推測され、後に日本橋にあった城の弁護士事務所に移った。設立の翌年1906年・(明治39年)4月には機関誌として『山岳』を創刊した。創立期の会員数は390名(うち外国人12名、学校2)[8]

明治末〜大正中期 探検登山と積雪期登山・海外登山の幕開け/会員たちの活躍

日本山岳会設立の前後から大正の初期ごろまでは「探検登山の時代」と呼ばれ、日本社会の中にアルピニズム的な登山熱が高まり、多くの登山家たちが国内の高峰を目指した。この時期、国内の高峰はほとんど登られ、「日本アルプス探検の黄金時代」)[9] とされる。 1909年(明治42年)夏には、吉田孫四郎(日本山岳会会員)らによる剱岳登山が行われた。これは登山だけを目的とした初の剱岳登頂であった。ほかにもこの年の夏には、鵜殿正雄(日本山岳会会員)の穂高岳・槍ヶ岳初縦走、小島烏水高頭仁兵衛らの赤石山脈縦横断など日本の登山史上、画期的な記録が残されている。同年、これまでの「山岳会」という名称を改め、「日本山岳会」となった。

1911年(明治44年)にはオーストリアのレルヒ少佐によって本格的なスキー術が紹介され、急速に広まった。スキーの普及は、これまでほとんど無雪期に限定されていた日本の登山を積雪期までに広げていくことになる[10]1919年大正8年)〜21年(大正10年)にかけては本格的な海外登山が試みられた時代であった。加賀正太郎鹿子木員信辻村伊助(いずれも日本山岳会会員)らはすでに明治末期から大正初期にかけてヨーロッパ・アルプスに直に触れ、その紀行報告が日本の登山家たちに大きな刺激を与えていた。1921年(大正10年)、槇有恒(まき ゆうこう/ありつね)(4代・7代会長)のアイガー東山稜の初登攀の快挙は、日本人の登山熱をさらに高めることになった。これと相前後して、槍ヶ岳北鎌尾根前穂高岳北尾根、北穂高岳滝谷剱岳八ッ峰などの北アルプスの険しい岩場が次々と初登攀された。加えて積雪期・厳冬期の登山も本格化して北アルプスの峰々が相次いで登られた。

大正末期〜昭和 本格的海外登山の始まり/組織の改編・体制の整備

日本初の本格的な海外登山として位置付けられているのが、1925年(大正14年)、慶應義塾大学山岳部OBおよび学習院大学山岳部OBらをメンバーとする日本山岳会登山隊(槇有恒三田幸夫=11代会長ら)によるカナディアン・ロッキーアルバータ山への初登頂である[11]。1936年(昭和11年)には立教大学隊(隊長堀田弥一=日本山岳会会員)がガルワール・ヒマラヤのナンダ・コートに初登頂を果たしている。

日本山岳会の組織・体制も次第に整備されていく。創立以来、事務所は個人宅に置かれ住所も点々としていたが、1929年昭和4年)に虎ノ門不二屋ビルに図書室を兼ねたクラブルームを設け(虎ノ門ルーム)、1933年(昭和8年)には事務所も同じ場所に置いた。1930年(昭和5年)から「山日記」(登山上の注意、読み物、日記欄、調査事項などから構成されたポケットサイズに日記帳のようなもの。現在、雑誌『山と溪谷』の付録「山の便利帳」として引き継がれている)、「会報」(現在の「山」)を発行している。1931年(昭和6年)、これまでの「規則」を「会則」に変更し、会長・理事制によって運営するように体制を改め、初代会長には小島久太が就任した。1941年(昭和16年)1月には社団法人に組織を変更。1935年(昭和10年)、創立30周年記念事業として、記念講演会、山岳図書展覧会などを催した。1937年(昭和12年)、上高地ウェストンレリーフを設置したが、太平洋戦争開始の翌年1942年(昭和17年)には敵国イギリスの人物を顕彰することが適わず、取り外された。1945年/(昭和20年)5月の空襲で、虎ノ門ルームはそこに収められていた山岳関係の資料・図書とともに焼失してしまった。

戦時中ではあったが、会員数は増え続け、1942年(昭和17年)には1000名を超えた。

戦後 日本山岳会の再出発

設立以来、日本山岳会はクラブライフと機関誌の発行を軸に活動してきた。しかしこうした活動は戦後間もなく見直され、1946年(昭和21年)に日本登山協会と合体し、大日本体育協会(現在の日本体育協会)に加盟している。同じ時期、事務所を神田駿河台岸体育館にあった大日本体育協会内に移転した。同年には新潟県に越後支部が設立されたが、以後相次いで日本各地に支部が設立されていく。1947年(昭和22年)6月には上高地で取り外されていたウェストンレリーフを復旧、除幕式が行われた。これは現在まで続くウェストン祭の第1回目である。

1960年(昭和35年)、全日本山岳連盟とともに日本山岳協会(日山協)を設立し、日山協が日本体育協会に加盟した。日本山岳会の事務所はその後も、しばらくの間は移転を重ねた。現在の千代田区四番町に移ったのは1978年(昭和53年)である。1962年(昭和37年)には上高地に山荘「神河内山荘」を開設、1973年(昭和48年)にこれを新築して「山岳研究所」とした。その後老朽化が進んだため、1993年(平成5年)に改築竣工された。

この間、海外の高峰を目指す登山熱は一層高まった。特に、ヒマラヤ登山への志向が高まり、日本山岳会の中にヒマラヤ委員会が設置され、会の事業としてマナスル登山の準備が始まった。1次〈1953年(昭和28年)〉・2次〈1954年(昭和29年)〉の登山隊は登頂に至らず撤退。1956年(昭和31年)、3次隊(隊長槇有恒)がマナスル (8,125m) の初登頂に成功した。1970年(昭和45年)、松方三郎(5代・10代会長)を隊長とする日本山岳会登山隊はエベレストに登頂を果たした。同年には、東海支部の登山隊(隊長伊藤洋平)がマカルー峰に東南稜ルートより登頂。そして1980年(昭和55年)、中国側からエベレスト(チョモランマ)に北東稜からの登頂と北壁の初登攀をなし遂げた(隊長渡辺兵力)。

1981年(昭和56年)から5年間、学生たちの海外登山を奨励するため学生部が中国登山協会から天山山脈ボゴダ峰登山の許可を取得。1985年(昭和60年)に「日本山岳会創立80周年海外登山」を実施し、ボゴダ山群、キレン山群、コンロン山群、また、黄河源流のトレッキングなどを加えて三隊の登山隊が中国に向かった。1984年(昭和59年)にはカンチェンジュンガ登山隊を派遣。南峰 (8,491m)、中央峰 (8,478m)、主峰 (8,598m) の縦走を成し遂げ、また、7,800m地点からハンググライダーを飛ばすなどユニークな試みで大きな話題となった。

1988年(昭和63年)、チョモランマ=サガルマータ(エベレスト8848m)三国友好登山を実施、登山隊を中国とネパールの両側から頂上を目指し、登頂後はそれぞれ反対側に国境を超えて下山するという交差縦走を行い、中国側からネパール側へ山田昇が縦走し、成功させた(ネパールからは登頂できなかった?)(日本隊総隊長今西壽雄=第15代会長)。1992年平成4年)、日中合同登山隊(日本山岳会、中国登山協会)を結成し、当時、世界最高の未踏峰であったナムチャバルワ (7,782m) の初登頂に成功した。

2001年(平成13年)、英文誌「Japanese Alpine News」を創刊し、会の活動を海外に発信する取り組みを始めた。

2005年、創立100周年を迎え、その記念事業の一つとして『日本山岳会百年史』が刊行された。これは「本編」と「続編・資料編」の2冊から成り、編集作業は10年以上に及んだ。ほかにも、約5000kmを踏査した中央分水嶺踏査、全国4000余りの山を解説した『新日本山岳誌』の刊行などの記念事業がある。2012年(平成24年)には社団法人から公益社団法人に移行した。 2014年(平成26年)、山の日が制定された。日本山岳会を中心に山岳5団体(日本山岳協会、日本勤労者山岳連盟、日本山岳会、日本山岳ガイド協会、日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(当時))、および全国「山の日」協議会加盟諸団体や地方自治体などが制定活動を行った。

概歴

  • 1903年(明治36年)
  • 1905年(明治38年)10月14日 登山家の小島烏水(久太)らによって「山岳会」が創立された[12]
  • 1906年(明治39年)
    • 4月5日 『山岳』第1年第1号発刊。
    • 12月末 創期会員390名(うち外国人12名)。
  • 1908年(明治41年)5月17日 東京地学協会会館で第1回大会。
  • 1909年(明治42年)6月1日 会の名称を「日本山岳会」に改称、会員章を制定。
  • 1910年(明治43年)3月1日 ウォルター・ウェストンを名誉会員に推挙[13]
  • 1929年(昭和4年)11月 集会室兼図書室として「虎ノ門ルーム」開設。
  • 1930年(昭和5年) 『山日記』第1輯発刊。
  • 10月31日 「会報」第1号発刊。
  • 1931年(昭和6年) 「規則」を「会則」に変更し、会長・理事制となる。初代会長には小島久太が就任。
  • 1937年(昭和12年)8月26日 上高地のウォルター・ウェストンのレリーフを設置[13]
  • 1941年(昭和16年)1月16日 社団法人として認可。
  • 1946年(昭和21年)9月1日 日本登山協会と合体し大日本体育会に加盟。
    • 9月1日 事務所を岸記念体育館内に移転。
    • 11月9日 常務役員会で「会報」は今後、会務報告書を中心とするものとし、別途雑誌『山』を発行することを決定。
  • 1947年6月14日 ウォルター・ウェストンのレリーフ復旧、除幕式(第1回ウェストン祭)。
  • 1948年(昭和23年) 戦後初の『山岳』第43号1号発行。
  • 1952年(昭和27年)4月16日 臨時総会でヒマラヤ委員会(会長槇有恒)設置。
  • 1960年(昭和35年)5月 全日本山岳連盟と共同で「日本山岳協会(日山協/武田久吉会長)」を設立し、日山協が日本体育協会に加盟。
  • 1962年(昭和37年)6月20日 神河内山荘開設。
  • 1963年(昭和38年)11月7日 理事・評議委員会でヒマラヤ委員会を解散し、エベレスト委員会設置。
  • 1967年(昭和42年)10月8日 「国際山岳連盟 (UIAA)」に加盟。
  • 1973年(昭和48年)10月8日 上高地山岳研究所竣工式。
  • 1978年(昭和53年)1月29日 現在の千代田区四番町に事務所を移転。
  • 1992年(平成4年)4月26日 上高地山岳研究所の改築地鎮祭。
  • 1993年(平成5年)4月28日 上高地山岳研究所の改築竣工式
  • 2005年(平成17年)
    • 10月15日 創立100周年記念式典開催。
    • 11月 各支部の会員らの編集により『新日本山岳誌』を出版した[14]
  • 2007年(平成19年)
    • 1月 『日本列島 中央分水嶺踏査 報告書』を発行。
    • 3月 『日本山岳会百年史』〈本編〉〈続編・資料編〉を発行。
  • 2012年(平成24年)4月 社団法人から公益社団法人に移行。
  • 2014年(平成26年)日本山岳協会加盟団体である東京都山岳連盟から退会。

  1. ^ 施設”. 日本山岳会. 2018年1月21日閲覧。
  2. ^ 役員”. 日本山岳会. 2018年1月21日閲覧。
  3. ^ 約款 (PDF) 第2章「目的及び事業」より。
  4. ^ a b [平成28年度決算報告] (PDF) 日本山岳会
  5. ^ 公益社団法人日本山岳会 支部
  6. ^ 水野勉「日本山岳会の百年」日本山岳会百年史編纂委員会編『日本山岳会百年史』(本編)(日本山岳会、2007)所収、『目で見る日本登山史』(山と渓谷社、2005)、pp.74-77
  7. ^ 「カラーページ掲載資料説明『日本山岳会の設立場所』」日本山岳会百年史編纂委員会編『日本山岳会百年史』(本編)(日本山岳会、2007)、pp.60-61
  8. ^ 会員数は「創期会員名簿」による。「創期会員名簿」は1905年(明治38年)10月の山岳会創立から1906年(明治39年)末までの入会者を登載。総数393名だが重複して掲載されている者が3名いる。南川金一「『創期会員名簿』に見る創立期間もない山岳会」日本山岳会百年史編纂委員会編『日本山岳会百年史』(本編)(日本山岳会、2007)所収、「日本山岳会『創期会員名簿』登載者」日本山岳会百年史編纂委員会編『日本山岳会百年史』(続編・資料編)(日本山岳会、2007)所収
  9. ^ 『目で見る日本登山史』(山と渓谷社、2005)、pp.78-79
  10. ^ 『目で見る日本登山史』(山と渓谷社、2005)、pp.96-97
  11. ^ 「山頂に残した記念のピッケル」『東京日日新聞』1925年8月9日夕刊(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編pp.661-662 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  12. ^ 発起人のメンバーは、小島烏水、城数馬、高野鷹蔵、高頭仁兵衛武田久吉、梅沢親光、河田黙の7名。
  13. ^ a b 日本山岳会の歩み 社団法人日本山岳会、2011年2月9日閲覧。
  14. ^ 『新日本山岳誌』(ナカニシヤ出版、2005年)
  15. ^ 「人物コラム『高頭仁兵衛(式、義明)』」日本山岳会百年史編纂委員会編『日本山岳会百年史』(本編)(日本山岳会、2007)、pp.150-151
  16. ^ 「人物コラム『木暮理太郎』」日本山岳会百年史編纂委員会編『日本山岳会百年史』(本編)(日本山岳会、2007)、pp.298-299
  17. ^ 「人物コラム『槇有恒』」日本山岳会百年史編纂委員会編『日本山岳会百年史』(本編)(日本山岳会、2007)、pp.306-307
  18. ^ 「人物コラム『松方三郎』」日本山岳会百年史編纂委員会編『日本山岳会百年史』(本編)(日本山岳会、2007)、pp.322-323
  19. ^ 「人物コラム『武田久吉』」日本山岳会百年史編纂委員会編『日本山岳会百年史』(本編)(日本山岳会、2007)、pp.154-155
  20. ^ 「人物コラム『別宮貞俊』」日本山岳会百年史編纂委員会編『日本山岳会百年史』(本編)(日本山岳会、2007)、pp.332-333
  21. ^ 日本山岳会自然保護委員会
  22. ^ 日本山岳会科学委員会
  23. ^ 日本山岳会医療委員会
  24. ^ 日本山岳会YOUTH CLUB
  25. ^ 日本山岳会高尾の森づくりの会
  26. ^ 日本山岳会秩父宮記念山岳賞
  27. ^ 日本山岳会海外登山助成金
  28. ^ ヤマテンホームページ
  29. ^ 日本山岳会雪山天気予報
  30. ^ 日本山岳会登山道調査
  31. ^ 『日本登山史年表』山と渓谷社編『目で見る日本登山史』(山と渓谷社、2005年)、「日本山岳会百年史年表」日本山岳会百年史編纂委員会編『日本山岳会百年史』(続編・資料編)(日本山岳会、2007)所収
  32. ^ 「 日本山岳会百年史年表」日本山岳会百年史編纂委員会編『日本山岳会百年史』(続編・資料編)(日本山岳会、2007)では初登頂、「日本人による海外登山史年表」 山と渓谷社編『目で見る日本登山史 日本登山史年表』(山と渓谷社、2005年)では第2登としている
  33. ^ 「日本人による海外登山史年表」山と渓谷社編『目で見る日本登山史 日本登山史年表』(山と渓谷社、2005年)所収、「日本山岳会百年史年表」日本山岳会百年史編纂委員会編『日本山岳会百年史』(続編・資料編)(日本山岳会、2007)所収
  34. ^ 「日本山岳会『創期会員名簿』登載者」日本山岳会百年史編纂委員会編『日本山岳会百年史』(続編・資料編)(日本山岳会、2007)所収
  35. ^ 「創期会員以降10年ほどの間に入会した異色会員」日本山岳会百年史編纂委員会編『日本山岳会百年史』(続編・資料編)(日本山岳会、2007)所収
  36. ^ a b 「ナイロンザイル事件関係年表」石岡繁雄、相田武男『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』(あるむ、2007年)所収
  37. ^ ナイロンザイル事件を法律的側面から考察したものとして、溝手康史『ナイロンザイル事件が提起したもの』(『岳人』2012年5月号)所収
  38. ^ 「『1977年版山日記』に掲載されたお詫びの全文」石岡繁雄、相田武男『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』(あるむ、2007年)所収
  39. ^ 日本山岳会岐阜支部講演会記録「ナイロンザイル事件」(講師尾上昇)





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