日夏耿之介 日夏耿之介の概要

日夏耿之介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/03 02:36 UTC 版)

日夏 耿之介
(ひなつ こうのすけ)
日夏耿之介(1954年)
ペンネーム 風狭韻子
夏黄眠
黄眠道人
黄眠堂主人
誕生 樋口 國登
1890年2月22日
長野県下伊那郡飯田町(現:飯田市知久町)[1]
死没 (1971-06-13) 1971年6月13日(81歳没)
長野県飯田市
墓地 飯田市柏心寺
職業 詩人作家英文学者
言語 日本語
国籍 日本
教育 文学博士
最終学歴 早稲田大学文学部卒業
文学活動 象徴主義
代表作 『日本現代詩大系』
『明治浪曼文學史』
『日夏耿之介全詩集』
主な受賞歴 読売文学賞(1950年)
毎日出版文化賞(1951年)
日本藝術院賞(1952年)
飯田市名誉市民(1953年)
デビュー作 『轉身の頌』
親族 樋口龍峡
松尾多勢子
小林一三
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詩人としては自らゴスィック・ローマン詩體と称す高踏的で荘重幽玄な詩風であり、その神秘主義的な象徴詩は他に類をみない個性を放っている。また、訳詩や文学論考、随筆などの幅広い著作があり、明治大正期の文学論でも知られる。

生涯

生い立ちと学究

長野県下伊那郡飯田町(現飯田市知久町)に樋口藤治郎、以志(樋口龍峡の姉)の長男として生まれる。樋口家は清和源氏につながる家系で、数百年前に木曽から移った。祖父興平は北原家から養子に入り、文芸を好む考古学研究家で、郊戸神社、愛宕神社の宮司を務めた。父は伊藤家から養子に入り、信濃商業銀行、百十七銀行の支店長を務めた。母方の親戚に勤王家松尾多勢子がいる。いとこの妻は小林一三の姪。のちに歌集『貞心抄』を出した母の薫陶を得て育つ[3]。飯田尋常小学校に通い、当時『小学新聞』(北隆館)に投稿文が掲載された。長野県立飯田中学入学、この頃から詩作を始め、友人と読書会を結成し会長となり、廻覧誌『少年文芸』を編集、風翔、萍翠迂人の号を用いた。1904年に上京して母方の叔父の樋口龍峡に身を寄せ、旧制京北中学校2年に転入、校友会雑誌に風狭、風狭韻子の号で短文や詩を発表する。1906年に病気のために中退。

『聖盃』創刊号表紙

翌年北海道に旅行し、旭川新聞に「北海印象記」を連載。1908年に島村抱月が目当てで早稲田大学高等予科に入学し、飯田中学の校友会雑誌にツルゲーネフ「戦はゞや」の翻訳を発表。また、英文学と仏文学の恩師で、同郷でもある吉江喬松に私淑する[4]。在学中の1912年から西條八十森口多里堀口大學石井栢亭、画人の長谷川潔永瀬義郎らと同人誌『聖杯』を創刊し、戯曲「美の遍路」や和歌の連作、詩や随想などを発表、ペンネームの日夏耿之介、号の夏黄眠、雛津之介を用い始める。翌年『假面』に改題し、1915年まで発行する。1913年『國學院雑誌』に「國語と語感と表現と」を発表し、以後も『早稲田文学』『水甕』『詩歌』などに作品発表。1914年に吉江喬松や『仮面』の一部メンバー西條八十、松田良四郎らに、芥川龍之介山宮允を加えて、愛蘭土アイルランド文学会を結成。芥川と親しくなる。1916年、鎌倉坂ノ下に転居、同じ頃に鎌倉で療養していた萩原朔太郎と交友を持ち、翌年刊行された朔太郎の『月に吠える』には理解を示す書評を書いた[5]。1917年、大森山王に移転。

詩と文学

1917年に第一詩集『轉身の頌』を家蔵版として刊行、以後『黒衣聖母』『黄眠帖』『咒文』を出版。1922年から『中央公論』で明治、大正の詩史について掲載を始める。1920年に天佑社『ワイルド全集』第4巻として「ワイルド詩集」を翻訳。また「朝日新聞」に寄稿を始める。

1924年、再従妹の中島添子と結婚。大正末期から「大正デモクラシイ詩壇」からの批判に嫌気がさして、ほとんど詩の執筆をしなくなり(『文学詩歌談義』「序」)、学究的な仕事と、欧米の詩の翻訳、オカルティズム研究、随筆執筆などを主にするようになり、ヨーロッパ象徴主義の背景として、ロマン主義デモノロジーにも博識ぶりを示した[6]。1924年から1927年まで、石川道雄堀口大學西条八十城左門らと雑誌「東邦藝術」(3号から「奢灞都サバト」)を発行、フランスイタリアイギリスアイルランドの文学の紹介、翻訳などを行い、ここでの企画「奢灞都南柯叢書第一期刊行目録」とされた53冊のうち、E.T.A.ホフマン『黄金寶壷』(石川道雄訳)、E.A.ポー『タル博士とファザア教授の治療法』(龍膽寺旻訳)の2冊が刊行された。

1927年「楚囚文學考」ではいち早くゴシック・ロマンスを日本に紹介するとともに、日本の古典怪奇、幻想文学との対比を行い、1951年「徳川恠異談の系譜」も著す。1928年に雑誌『パンテオン』を監修、発刊し、翌年まで10号を発行。若年から病弱で肋間神経症、喘息を持病とし、1930年から7年間療養生活を送り、42歳からは心臓急搏症で、1933-34年には鵠沼海岸に転地。1931年早稲田大学文学部教授に就任。1932年雑誌『戯苑』監修創刊、翌年2号を出して廃刊。1934年に阿佐ヶ谷に移る。1939年にジョン・キーツのオード創作心理過程と漢詩の比較論「美の司祭 - John KeatsのOdeに関する研究」で早稲田大学より文学博士号を授与。

飯田市の生活

1945年郷里の飯田市に疎開し、早稲田大学教授を辞任、翌1946年帰京。1952年から青山学院大学で文学論、比較文学論を講じる。1956年に岸田国士命日の法要に出かける際に脳溢血の発作で倒れ、右半身不随となって再び飯田市に帰郷し、愛宕神社境内に居を構える。1959年に飯田市にて古希祝賀会、記念講演会が催され、また同市風越山頂に句碑建立され、「秋風や狗賓の山に骨を埋む」の句が刻まれた。同年黄眠会などによる雑誌『古酒』創刊、庭内にも句碑建立。1962年に飯田市りんご並木に、谷口吉郎設計、齋藤磯雄撰による詩碑建立、「咒文の周圍」最終聯が刻まれた。1967年『随筆集 涓滴』出版記念会が催され、市立飯田図書館で全著作展示館が開かれた。1971年に飯田市自宅にて没す。

日夏耿之介記念館(長野県飯田市)
歌碑(日夏耿之介記念館)

1989年に飯田市美術博物館の付帯施設として、愛宕神社内にあった自宅を復元した日夏耿之介記念館が開館、旧蔵書9500冊、絵画、軸類150点、来簡集1500通が寄贈された[7]。庭園には自然石の句碑「水鶏ゆくやこの日宋研の塵を滌ふ」が建っている。

翻訳者としては、壮麗な雅語を駆使してワイルドポー日本語に移し替え、三島由紀夫澁澤龍彦に多大な影響を与えた。また自らを「頑迷固陋なる徳川文人型旧詩人」と称し、書画骨董、多くの蔵書に囲まれて暮らし、部屋には聖母マリアの絵が掛けられていた。篆刻を嗜み、『風塵静寂文』見返しページで印影18顆を纏めていて、著作の検印にも使っていた[8]

木下杢太郎が『スバル』掲載の頃から評価し、長く交友を持ち、医師として発疹の治療も受けた[9]

年譜

  • 1912年 - 西條八十らと同人雑誌『聖盃』を創刊(翌年『假面』に改題)
  • 1914年 - 早稲田大学文学部英文学科を卒業する
  • 1917年 - 詩集『転身の頌』を発表する
  • 1921年 - 詩集『黒衣聖母』を発表する
  • 1922年 - 早稲田大学文学部講師に就任する
  • 1929年 - 『明治大正詩史』を出版
  • 1931年 - 早稲田大学文学部教授に就任する
  • 1935年 - 早稲田大学辞任する
  • 1939年 - 文学博士号を受け、再び早稲田大学教授に就任する
  • 1950年 - 『改訂増補 明治大正詩史』で、第1回読売文学賞(研究部門)を受賞。友人・知人による還暦記念論集(全53篇)『近代日本の教養人 日夏耿之介博士華甲記念文集』(辰野隆編、実業之日本社)が刊行
  • 1951年 - 『日本現代詩大系』で、毎日出版文化賞を受賞
  • 1952年 - 青山学院大学教授に就任。『明治浪曼文學史』と『日夏耿之介全詩集』で、日本藝術院賞を受賞[10]
  • 1953年 - 第1回飯田市名誉市民に選ばれる
  • 1955年『鎌倉の四季』が新橋演舞場で上演、作曲都一舟、振付花柳徳兵衛
  • 1961年 - 青山学院大学教授を退任
  • 1971年6月13日 - 飯田市大久保町愛宕稲荷神社境内の自宅にて81歳で没す
  • 1989年 - 飯田市美術博物館内に日夏耿之介記念館が開館[11]
  • 2002年 - 『日夏耿之介宛書簡集 学匠詩人の交友圏』(飯田市美術博物館)が出版

作品と評価

文体は、まず『轉身の頌』序文にて「象形文字を使用する本邦現代の言語は、其の不完全な語法上制約に縛られて、複雑の思想と多様の韻律とを鳴りひびかするに先天的の不具である。」ことから、「象形文字の精霊は、多くの視覚を通じて大脳に伝達される。音調以外のあるものは視覚に倚らなければならぬ。形態と音調との錯綜美が完全の使命である。」として「黄金均衡(ゴールドウン・アベレイジ)」を目指すものとされ、『黒衣の聖母』序文にいたり「假にゴスィック・ロオマン詩體ともいはばいうべき詩風」が「最近の私といふ人間の思想感情はこれらの詩によって最も妥當に表現せられる」と述べられた。そして「黒衣聖母に芽生え黃眠帖に成長したわたくしのいはゆるゴシック・ロマン詩體が、順当に煉金叙情詩風として展開したのが『咒文詩集』であった」(創元社版全詩集「敍」)と語られた。これはその詩を口ずさむことによって「音調と形態とは、精神の不可思議な領域に於いて渾然と交感し照応しつつ、交響楽の力強さを以って「喚起の魔術」を達成するのである。」、また特殊な措辞、象形文字の多用については「古語も廃語も俚語も難語も奇語も、一切が、旋律の逞しい息吹に協力する緊密な諧音と、かけがへのない和声となるのだ。」(齋藤磯雄「解説」[12])と評された。

これらは「詩と評論と学的研究とこの三つのジャンルに亙ってそれぞれ優に一家を成す堂堂たる業績」の賦才が「裡に緊密に相結合し、相補っている」(佐藤正彰「解説」-『日夏耿之介詩集』[13])と評される。『轉身の頌』発表時には、柳澤健「マラルメよりももっと容易に奪取できない城砦を、霊魂の劇場を、所有している!」(読売新聞)、堀口大學「私は思い出す、あの有名なマラルメがエロヂアッドの一節なる次の詩句を<Qui C’est pour moi, que je fleuris…>」(『三田文学』9巻2号)など、ステファヌ・マラルメの詩風に擬して評された[14]

「視覚的要素の、審美的な重要性」のために、活字の形態に繊細であり、「大文字の奢侈な印本を必要とする」など、本の装幀への強いこだわりも持っていた[12]

日本の作家では、上田秋成森鷗外幸田露伴樋口一葉泉鏡花らを高く評価しており、特に永井荷風について多くの論考[15]がある。また、昭和初期において文壇大御所の低俗さを批判した者は荷風、日夏、佐藤春夫の3人のみだったと回想している[16]。『明治浪曼文學史』では、ヨーロッパのロマン主義文学の発生と系統に比較して、日本の作品の比較文学的分析を行なっている。

澁澤龍彦は「西欧文明の隠れた大きな流れであるところの、世紀末デカダン文学やデモノロギア、神秘主義思想や魔法に関する前人未到の業績を残された」と述べている[17]。また三島由紀夫は、1960年にワイルド『サロメ』の演出、上演にあたり日夏訳『院曲散羅米』を選び、自らの死後一周忌の上演演目にもこれを指定していた。


  1. ^ 日夏耿之介記念館 飯田市美術博物館 2023年4月11日閲覧。
  2. ^ 戸籍謄本では「國登」と届けられている。(井村君江「日夏耿之介年譜」『本の手帖』1968年11月号)
  3. ^ 井村君江解説(『日夏耿之介文集』ちくま学芸文庫、2004年)
  4. ^ 「吉江喬松博士と自分」(『日夏耿之介文集』ちくま学芸文庫)
  5. ^ 富士川英郎「鎌倉と二人の詩人」『本の手帖』「特集 日夏耿之介」1968年11月号
  6. ^ 富士川義之の解説(『荷風文学』 平凡社ライブラリー、2005年)
  7. ^ 『日本経済新聞』1988年7月15日
  8. ^ 鈴木信太郎「素白私語」『本の手帖』1968年11月号
  9. ^ 「杢太郎情調」(『日夏耿之介文集』ちくま学芸文庫)
  10. ^ 『朝日新聞』1952年3月26日(東京本社発行)夕刊、2頁。
  11. ^ 洋書1678冊他の蔵書は、飯田市愛宕神社近くの「黄眠草堂書庫」に所蔵
  12. ^ a b 齋藤磯雄「日夏耿之介論-技法と詩魂」(『現代日本文學大系 12』筑摩書房 1971年)、のち『著作集Ⅰ』東京創元社
  13. ^ 新潮文庫、1953年。思潮社現代詩文庫に再録。
  14. ^ 井村君江「『轉身の頌』序の意味するもの」『本の手帖』1968年11月号
  15. ^ 「永井荷風とその時代」(『荷風文学』)
  16. ^ 「荷風文学補註」(『荷風文学』)
  17. ^ 『日夏耿之介全集』広告パンフレット「錬金の幻夢に焦がれ・・・」(『朝日新聞』1991年12月12日、井村君江「日夏耿之介全集が復刻」)
  18. ^ 「現代詩人全集 第7巻」新潮社 1930年に、2段組で『黃眠帖』『黒衣聖母』『轉身の頌』(順に)収録。


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