徳川家康三方ヶ原戦役画像 徳川家康三方ヶ原戦役画像の概要

徳川家康三方ヶ原戦役画像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/15 06:07 UTC 版)

『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)[1][2]。家康が、三方ヶ原での敗戦直後にこの像を自戒のため描かせたとする伝承は、昭和時代に創作・形成されたもので史料的根拠は存在しないが[3]、そこに含まれる教訓性が多くの日本人から共感・支持された結果、同伝承が広く定着するに至った[4]

日本国愛知県および名古屋市による文化財指定・登録はなされていない[5]

概要

本図は18世紀の終り頃に紀州徳川家から尾張徳川家に伝来し、当時は「家康の肖像画」とのみ伝えられていたが、明治期以降の尾張徳川家では「長篠戦役図」とされ、1910年(明治43年)に同家が開催した展覧会に出品されると、その特異な容貌・姿態から珍重されると同時に、「敗戦時の家康の肖像を、同家初代当主・徳川義直が、当時の窮状を忘れないように描かせた」との口伝が付され、本図が尾張徳川家から財団法人・尾張徳川黎明会が運営する徳川美術館に移された後、1936年(昭和11年)に開催された展覧会に出品された際に、美術館側により「三方ヶ原の戦い」での敗戦を「狩野探幽に描かせた」図、更に1972年(昭和47年)頃には「家康自身が描かせ」、「慢心の自戒として生涯座右を離さなかった」との情報が付与された。

この口伝は、「三方ヶ原の戦いでの敗戦直後の姿」という説明が本図の異様な容貌・姿態を理解しやすくし、また「家康が、自身の慢心を戒めるために自身の姿を描かせ、自戒のために座右に置いた」という逸話が家康の人間性をよく表しているとされ、「失敗を真摯に反省することが次の成功につながる」という人生譚が現代の日本人の共感を呼んで歴史書や経済誌などでも取り上げられたことから、広く周知されることになったとみられている。

本図を「三方ケ原戦役図」とする見方に対して、歴史学者の藤本正行は、『歴史読本スペシャル 特集 間違いだらけの「歴史常識」』のなかで、風俗史的観点からの考察により、合戦当時の作品ではなく後世に想像に基づいて描かれた図であり、戦役図ではなく礼拝図である可能性を指摘し[6]、松島仁もこれを支持、本図は神格化された家康像であり、異様な姿態は半跏思惟であり、異様な表情は「忿怒」を表しているとした[7]

その後、徳川黎明会の学芸員である香山里絵は、明治期に本図が「三方ケ原」ではなく「長篠」の図とされていたことを指摘し[8]、徳川美術館学芸部長代理である原史彦は、本図を「三方ケ原」の図とする箱書き・目録等は確認できず、1936年の展覧会を紹介する新聞記事以前には遡れなかったことを報告[9]、あわせて本図の由緒[10]と口伝の発展過程を明らかにした[11]

徳川美術館2023年開催の『夏季特別展 徳川家康―天下人への歩み― 』展Webサイトでも本図を『徳川家康画像(三方ヶ原戦役画像)』と紹介しながらも、「三方ヶ原で敗れた家康が、その敗戦を肝に銘ずるため、敗走時の姿を描かせたと伝えられていますが、この伝承には史料的な根拠がありません。」と記している。

本図以外にも徳川美術館には史料的根拠を欠いた伝承を伴う什宝がいくつか存在しており、その伝来や史料的根拠の確認は今後の課題とされている。また本図の同美術館における今後の取り扱いについて、原は論文への批判・批評を受けて検討する、としている。

形態

装丁

2016年現在、絹本著色[12]掛軸装となっている[13]。本紙の寸法は、縦1尺2寸4分5厘(37.8センチメートル)・横7寸1分8厘(21.8センチメートル)[注釈 1][注釈 2]

表装は、上下を茶地絓[15]、中廻を紺地唐草文金襴[16]、風袋[17] と一文字を白茶地宝尽文金襴、軸を黒塗型とする[13][注釈 3]

箱書き

1993年に岡墨光堂[18] による裏打ち紙の貼り直しや本紙の欠失部分の補修が行なわれた際に、桐の太巻軸装となり、桐箱も新調された[13]

それ以前は、葵紋が描かれた溜塗印籠蓋造の外箱(元外箱)と、「神君御影」と金泥書された黒塗印籠蓋造の内箱(元内箱)に納められており[13]、元外箱の蓋の上には「家康公長篠戦役小具足着用之像」と記した貼紙が貼付されていた[19]

作者

本図には、等の文字情報や作者の落款はない[13]

製作年代

2016年現在、徳川美術館では、描法などから江戸時代・17世紀頃の作とみなしている[20][注釈 4]

像主の描写

像主は、正面を向き、香炉台のような椅子に座り、左手を頬に当てて左脚を折り右脚の上に載せる半跏思惟のような姿勢をしている[6][13]。服装は、烏帽子を被り、茶地の鎧直垂を着し、両手に弓懸をして左腕のみに籠手を着け、両足に脛当てを付けて裸足藁草鞋を履き、腰に黒塗金覆輪[21]太刀を佩き、鮫皮柄の朱塗合口を差した格好で描かれており、戦場往来の姿のようにみえる[13]

像主が顔を顰(しか)め憔悴したような表情に描かれていることから、『顰像』(しかみぞう)とも呼ばれている[1][2]。命名の時期や命名者は不明である[1]

像主の顔貌について、原と藤本は、下唇を上前歯で噛んで口を「へ」の字に曲げた口元の描写を特異とし[13][6]、原は、眼窩上部や頬骨が強調されて眼が窪み、頬がこけたように見えることから、像主の特徴を捉えて描いたというよりは、特殊な状況下での姿を描こうとしたように感じられ、本図が「敗戦後のやつれた姿」と解釈されたことには一定の説得力がある[13]、としている。

由緒

本図は、幕末から明治初期にかけて記されたとされる尾張徳川家の蔵帳[22]『御清御長持入記』では、『東照宮尊影』(徳川家康の肖像画)とされており、尾張徳川家の養嗣子・徳川治行の正室で紀伊徳川家出身の従姫(よりひめ、追号・聖聡院)[注釈 5]が死没した翌1805年(文化2年)9月に、聖聡院の道具の中にあったものを、家康の遺品や関連する物品を納める「御清御長持(おきよめおんながもち)」[注釈 6]に(追加して)納めた、と記されていることから、従姫の嫁入り道具[26] の1つとして紀州家から尾張家に伝来したと考えられている[27]


注釈

  1. ^ 徳川美術館の収蔵品台帳による。表装の寸法は、縦3尺5寸1分(106.5センチメートル)・横1尺5分5厘(32.0センチメートル)[13]。1880年(明治13年)7月に作成された尾張徳川家の財産目録『御器物目録』にも同様の記述があり、寸法や表装に関する記載の一致が同じ作品だと判断する根拠となっている[14]
  2. ^ 文化庁文化遺産オンラインでは、縦37.7 横21.8、としている[2]
  3. ^ 『御器物目録』にも同様の記述があり、寸法や表装に関する記載の一致が同じ作品だと判断する根拠となっている[14]
  4. ^ 文化庁文化遺産オンラインでは、桃山時代・16世紀の作、とされている[2]
  5. ^ 1757年11月24日宝暦7年10月13日) - 1804年9月1日文化元年7月27日[23]。紀伊徳川家第7代・徳川宗将の息女[24]。1780年(安永9年)に、尾張徳川家第9代当主・徳川宗睦の養嗣子である治行に嫁いだが、治行は1793年に宗睦に先立ち死去したため尾張徳川家の当主とはならず[24]、治行との間に生まれた長男の五郎太も早逝した[23]1802年享和2年)8月より湯治のため尾張に[要検証]滞在し、2年後に同地にて数え48歳で死去[23][24]
  6. ^ 御清御長持は3棹の長持で、尾張家において最も重要な道具の一つとされ、藩政時代には名古屋城二之丸の北辺にあった不入火御土蔵に保管されていた[25]
  7. ^ 1813年(文化10年)に尾張藩の重臣・鈴木丹後守より献上され、「御清御長持」に加えられた[28]
  8. ^ 原は、香山の「徳川義親の美術館設立想起」(『金鯱叢書』第41巻)からの引用として、尾張徳川家大曽根邸で実施[31]、としているが、同書の中で香山は「名古屋開府300年」の祝賀行事の一環として開催されたことから、尾張徳川家の、大曽根本邸または名古屋市内の同家所縁の場所で開催されただろう[32]、と推測しており、場所を特定していない。
  9. ^ 原の下掲書に、「本図が初めて世の中に紹介されたと思われる什宝陳列において(…)この(1893年の)名称が用いられた(註13)。」とある[31]が、同書が出典としている香山の「徳川義親の美術館設立想起」(『金鯱叢書』第41巻)には該当する記述がない[36]
  10. ^ 原は「昭和10年(1935年)の徳川美術館開館直前まで、本図を三方ヶ原合戦に関連させる認識は存在していなかった」としている[39]が、上記の1930年までに作成された目録以後、1935年の徳川美術館開館までの間に「認識」が存在しなかったとする根拠には言及がない。
  11. ^ 「家康公が戦つたうちで一番痛い目に遇つたのは三方ケ原の合戦でありました。元亀三年三月甲斐の武田信玄との戦ひでありましたが、この時家康公は戦ひに破れて散々な目に遇つて今にも戦死しさうになつたことがあります。その時の敗戦の記念だといふので、まるで痩衰へて、とてもひどい顔をしている御画像が遺つております。それは敗戦記念として子孫への戒めのために残したものだと思ひますが、よほど面白いものであります。……」[43][47]
  12. ^ 画像の由緒については「尾州家(尾張家)先祖伝来」と記されている[51]
  13. ^ 原は同書で、高柳光寿 の『戦国戦記 1 三方原の戦 』[54] に本図の逸話が取り上げられていないことを、1958年時点で口伝が世間に流布していなかったことの傍証としている。
  14. ^ 林述斎1836年天保7年)から1837年(天保8年)にかけて編纂した家康の言行録[55][56]
  15. ^ 像主の烏帽子・鎧直垂・左腕のみの籠手(片籠手)姿は、弓矢による戦闘を重視した平安鎌倉時代の上級武士に見られる武装で、太刀・薙刀を用いた接近戦闘が増加した鎌倉時代末期から廃れはじめ、室町時代には両腕に籠手を着ける諸籠手の武装が定着し、片籠手は例外的になっていたことから、三方ヶ原の戦いが行なわれた元亀・天正頃には見られないはずであること[71]、鎧直垂を着て片籠手を指す場合、左肩を脱いで左袖を畳んでに挟み、下着の小袖の上から籠手を着けることになるが、細い籠手を鎧直垂の袖の上から指しているのは袖の生地がかさばるため現実には不可能なこと[72]、三方ヶ原の戦いは冬に行なわれた合戦であるのに、像主は素足に草鞋姿であり、家康ほどの武将が革足袋を履いていないのは不自然であること[6]
  16. ^ 毛皮の靴の一種。
  17. ^ 中世において聖徳太子の化身とされた。
  18. ^ 松島は、徳川将軍権力は伝統的権威である朝廷を相対化するにあたって皇室摂家が作り上げた権力構造を吸収・再編する必要に迫られ、その一環として江戸狩野派の絵師が家康の生涯を描いた『東照宮縁起絵巻』や家康肖像を製作する際、聖徳太子や藤原鎌足を主題とした『聖徳太子絵伝』や『多武峰縁起絵巻』など過去の絵巻物や絵画から図様の形式を引用することで、それらから王法仏法相依論をはじめとする政治的思想や王権にまつわる物語軸を取り込み、王法と仏法とを統合した超越者・東照大権現たる家康による近世徳川日本の創建神話へ組み替えていくことを意図したと推論している[74][75]
  19. ^ 朝日新聞(大島)の記事では、原の調査発表後、徳川美術館は同像の扱いについて「(徳川)美術館の対応を踏まえて考えたい」と話した、としている[65]

出典

  1. ^ a b c 原 2016, p. 1.
  2. ^ a b c d 文化庁 (2005年). “文化遺産オンライン > 徳川家康三方ヶ原戦役画像”. 文化庁. 2016年8月17日閲覧。
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  4. ^ a b 原 2016, p. 20.
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  6. ^ a b c d e f 藤本 1984, p. 208.
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  8. ^ 香山 2014, p. [要ページ番号].
  9. ^ 原 2016, pp. 18–19.
  10. ^ 原 2016, p. 8-9.
  11. ^ 原 2016, pp. 11–16.
  12. ^ 香川県立国会図書館 (2008年). “レファレンス協同データベース > レファレンス事例詳細 > 著色、着色との違いについて知りたい。”. 国立国会図書館. 2016年11月5日閲覧。
  13. ^ a b c d e f g h i j 原 2016, p. 3.
  14. ^ a b 原 2016, pp. 9–10.
  15. ^ デジタル大辞泉『』 - コトバンク 2016年11月5日閲覧。
  16. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『金襴』 - コトバンク 2016年11月5日閲覧。
  17. ^ デジタル大辞泉『風袋』 - コトバンク 2016年11月5日閲覧。
  18. ^ 岡墨光堂 (2016年). “株式会社岡墨光堂”. 2016年11月5日閲覧。
  19. ^ 原 2016, pp. 3挿図2, 10.
  20. ^ a b c d 原 2016, p. 2.
  21. ^ デジタル大辞泉『金覆輪』 - コトバンク 2016年11月5日閲覧。
  22. ^ 大辞林 第三版. “くらちょう【蔵帳】”. コトバンク. 2017年11月8日閲覧。
  23. ^ a b c 堀内 1930, pp. 140–142.
  24. ^ a b c 原 2016, p. 9.
  25. ^ 原 2016, p. 8.
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  27. ^ 原 2016, pp. 8–9.
  28. ^ a b c d 原 2016, p. 10.
  29. ^ 豊田市郷土資料館 (2014年). “トップページ > 指定文化財等紹介 > 絵画 > 長篠・長久手合戦図屏風”. 豊田市郷土資料館. 2016年11月4日閲覧。
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  31. ^ a b c d 原 2016, p. 11.
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  45. ^ 香山 2016, pp. 105, 122.
  46. ^ 香山 2016, pp. 104, 121.
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  50. ^ a b c d 原 2016, p. 16.
  51. ^ 徳川美術館図録刊行会 1962, p. [要ページ番号].
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