大祚栄 論争

大祚栄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/07 09:42 UTC 版)

論争

『旧唐書』と『新唐書』

大祚栄が靺鞨人なのか或いは高句麗人なのかという議論は、『新唐書』の「渤海,本粟末靺鞨附高麗者,姓大氏」という記事と、『旧唐書』の「渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也」という記事の解釈の相違に起因し、『新唐書』は明確に「大祚栄は高句麗に服属していた粟末靺鞨人」と表記する一方、『旧唐書』は大祚栄の出自を「高麗別種」と曖昧に表記しており、この「高麗別種」をめぐって論争となっている[46]

渤海に関する二大基本史料は『旧唐書』と『新唐書』であるが、『旧唐書』には「渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也」とあり、その解釈について韓国の『韓国民族文化大百科事典』は、大祚栄が高句麗人だったのか、或いは靺鞨人だったのかは議論が絶えないが、大祚栄は純粋な高句麗人でもなく、純粋な靺鞨人でもなく、史料に「高麗別種」とあるのはこのためであり、大祚栄は粟末靺鞨出身で、かつて高句麗に亡命していたものとみられると述べており[47]、従って『韓国民族文化大百科事典』の解釈に従うと『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄は高句麗に亡命していた粟末靺鞨人」という解釈になる[47]。この『旧唐書』に登場する「高麗別種」の語に留意して、盧泰敦朝鮮語版朝鮮語: 노태돈ソウル大学)は大祚栄を「高句麗化した粟末靺鞨人」と解釈しており、この解釈に従うと『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄は高句麗化した粟末靺鞨人」という解釈になる[48]。一方、宋基豪(朝鮮語: 송기호ソウル大学)は「高麗別種」を「靺鞨系高句麗人」と解釈しており、この解釈に従うと『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄は靺鞨系高句麗人」という解釈になる[48]。渤海に関する二大基本史料のもう一つの『新唐書』には「渤海,本粟末靺鞨附高麗者,姓大氏。(渤海は、もとの粟末靺鞨で、高麗(高句麗)に付属していた。姓は大氏である。)と記しており[49]、高句麗に服属していた粟末靺鞨の出自とある[50][34]

国史編纂委員会は、『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄は、もと高麗の別種である」とし、『新唐書』は「渤海は、もとの粟末靺鞨で、高麗に付属していた。姓は大氏である」とし、『旧唐書』は「高麗別種」という曖昧な表現で大祚栄の靺鞨的要素と高句麗的要素を同時に言及している一方、『新唐書』は大祚栄の出自を明確に粟末靺鞨としている[51]。『三国遺事』は、朝鮮史書である『新羅古記』を引用して、大祚栄はもとの高句麗武将とし、『帝王韻紀中国語版』も大祚栄をもとの高句麗武将と述べており、『高麗史』及び『高麗史節要』は、渤海は粟末靺鞨としつつも「高句麗人大祚栄」と規定している[51]。一方、崔致遠は『謝不許北国居上表』において、大祚栄は元の粟末靺鞨としており、『三国遺事』は、中国史書である『通典』を引用して「渤海は元の粟末靺鞨で、その酋長である大祚栄に至って国を建国した」としており、大祚栄を粟末靺鞨と規定しており、大祚栄の出自を説明する『旧唐書』「高麗別種」、『新唐書』「本粟末靺鞨附高麗者」、『新羅古記』「高麗旧将」を総合して大祚栄の出自を紐解くと、渤海を建国した粟末靺鞨松花江一帯を居住地としており、早くから高句麗と隣接していた。靺鞨は軍事力が優れており、高句麗と周辺国家との戦争では靺鞨が高句麗と共同戦争を行っていることを史料で確認することができ、645年唐の第一次高句麗出兵において、唐太宗捕虜となった高句麗人を解放する代わりに靺鞨人3300人を埋め殺し、654年には高句麗が靺鞨と連合して契丹を攻撃しており、655年には高句麗が百済と靺鞨が連合して新羅の北辺境に侵攻しており、左様に靺鞨は高句麗と連合して、積極的に参戦している。6世紀末に高句麗が粟末靺鞨地域に進出し、粟末靺鞨は高句麗に服属したが[52][53][29]、大祚栄の先祖はこの時に高句麗に服属し、高句麗に移住したみられる[51]。従って、『旧唐書』「高麗別種」とは、大祚栄の種族が「高句麗とは他の種族」であることを意味し、即ち、大祚栄の種族は「粟末靺鞨」であり、大祚栄の先祖が高句麗に移住し、靺鞨特有の軍事力を発揮して、高句麗の武将の地位に上り詰め、粟末靺鞨でありながら高句麗の武将として軍功をあげた[51]。大祚栄は高句麗で生活していることから、ある程度高句麗化され、まさに『旧唐書』「高麗別種」とは、粟末靺鞨でありながら高句麗化された大祚栄を意味し、父の乞乞仲象が靺鞨名であることとは異なり、姓は大、名は祚栄という漢姓漢名であることを鑑みると、父の乞乞仲象よりもある程度高句麗化していることが伺われ、大祚栄は高句麗滅亡後、高句麗遺民の身分で営州に強制移住され、契丹が暴動の混乱に乗じて、他の高句麗遺民と靺鞨などを結集して営州を脱した[51]。結局、『旧唐書』「高麗別種」、『新唐書』「本粟末靺鞨附高麗者」、『新羅古記』「高麗旧将」と多様に記録された大祚栄の出自は「大祚栄は粟末靺鞨でありながら、高句麗に移住し、高句麗化したもとの高句麗武将」という複合的アイデンティティをもつ大祚栄を説明していると結論付けている[51]

송영현(西江大学)は、「『三国遺事』は、渤海は靺鞨の別種としており、つまり『三国遺事』は渤海を靺鞨の別種とみており、これは『三国遺事』を記述した一然が渤海を靺鞨とみていることを意味している。中国人は高句麗を東夷伝で扱い、靺鞨及び渤海は北狄伝で扱っており、当時の中国人は渤海と高句麗を同一視していないことを意味する。そして『三国遺事』も大祚栄は粟末靺鞨酋長であることを明らかにしている。従って、高句麗の建国勢力は高句麗遺民だけではなく、靺鞨族になる。…『謝不許北国居上表』の内容からすると、少なくとも新羅人である崔致遠は渤海人を同族だと考えていなかったように思われる。つまり、渤海は高句麗だったかも知れないが、新羅人は渤海人と歴史共同体意識を共有していない」と述べている[54]

張碧波(中国辺疆史地研究センター中国語版)は、「別種」とは古代の中国史家が、民族の源流・民族関係を記述するときに作成した特有の概念であり、「別種」とは「本種」とは異なるという意味であり、従って「高麗別種」とは渤海が高句麗王家から派生した政治勢力という意味ではなく、中華民族の形成過程では、民族文化の衝突・交流・融和の複雑なプロセスを経て、民族の遷移は絶えず行われ、民族と民族の分裂と統一、変化と帰付の状況は非常に複雑化し、『新唐書』はこの複雑なプロセスを認識して『旧唐書』の「高麗別種」という曖昧な表現を「渤海本粟末靺鞨附高麗者,姓大氏」と明確に記録したと主張した[55][46]

王成国(遼寧省社会科学院歴史研究所)は、「高麗別種」とは高句麗の別部という意味であり、乞乞仲象・大祚栄を首領とする粟末靺鞨はかつて高句麗の支配下にあり、粟末靺鞨が遼西営州に移住する前、粟末靺鞨は高句麗に支配され、粟末靺鞨は高句麗の別働部隊として、長期間高句麗と一緒に生活し、共に戦争を戦ったので、『旧唐書』の編纂者は粟末靺鞨を高句麗の別種と史書に書いたと述べている[56][46]。また、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也。」を単なる大祚栄と高句麗の継承関係を示す表現としてのみ解釈できないのは、「『本』高麗別種」すなわち「『もと』高句麗の別種」とあることである。『旧唐書』の撰者が大祚栄の出自を高句麗の「本流」と考えず、高句麗の「支流」として取り扱っており、渤海建国以前から大祚栄が高句麗と分離していたとみることができる集団の所属であることを強く示唆しており、『旧唐書』の同記事では、大祚栄の渤海建国後、渤海に集合した高句麗人を「高麗」と表記しており、「高麗別種」という表現を使用していない点を考慮せねばならないと指摘している。

姜守鵬(東北師範大学)は、中国の古代文献では「別種」とは、すでに決められた含意があると主張しており、 「別種」とは「別族」と同様の意味である「他種」という意味であり、「同種」の末裔傍系は「分種」であって「別種」ではなく、「別種と別部は同じである。それぞれ互いに同じ政治共同体に属しているが、種族上ではそれぞれ互いに異なる部落」と述べており、靺鞨人である大祚栄が、何故「高句麗」という種族の「別種」即ち「高麗別種」と記述されたのか、逆にいうと靺鞨人である大祚栄は「靺鞨別種」と記述されなかったのか(即ち「靺鞨別種」は靺鞨人を意味しないのか)について考察している。史料上、ある種族が「A族」という種族の「別種」と称される場合の両者の関係性は、「A族別種」と「A族」という種族は一つの種族ではなく、「A族別種」と称される種族は、かつて「A族」という種族に征服されたり、あるいは「A族」という種族に臣服しており、「A族」という種族の故地で生活し、生活習俗が「A族」という種族といくつかの共通点があるため「A族別種」と称され、当然、長期間の歴史の発展過程において「A族別種」が「A族」という種族と融合して最終的に一体になるあるいは融合して新たな種族になることも有りうるが、それは最終結果であり、初期段階の「A族別種」と称されるときは、「A族別種」と「A族」という種族とは異なる種族に属しているという事実は否定できず、この「別種」の理解に基づいて「渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也」を解釈すると、渤海の建国者である大祚栄はかつて高句麗に隷属していた粟末靺鞨人となり、このため『旧唐書』は、大祚栄を「高麗別種」と呼んだと主張した[57][46]。また、姜守鵬(東北師範大学)は、『旧唐書』は、渤海を「北狄伝」に収めて北狄の一員として扱っており、「高麗別種」とあるにもかかわらず、高句麗を収めた「東夷伝」には収めておらず、一方、高句麗は「東夷伝」に収めて東夷の一員として扱い、『旧唐書』編纂者は大祚栄が属する渤海を高句麗と明確に異民族と区別していることを指摘している[58][46]

王健群(吉林省文物考古研究所)は、中国史書に登場する「別種」とは「同種とは異なるが、隷属していた者」を指し、『旧唐書』「高麗別種」とは「高句麗と同種とは異なるが、高句麗に隷属していた者」という意味であり、従って『旧唐書』は「大祚栄は高句麗と同種とは異なるが、高句麗に隷属していた者」としか解釈できず、それを『新唐書』は「もとの粟末靺鞨で、高麗に付属していた。姓は大氏である」と明確に説明しているだけであり、さらに、『旧唐書』が大祚栄を「高麗人」とせずに「高麗別種」と呼んだ点を指摘している。つまり、「高句麗人」なら敢えて「別種」という必要がないということである。『旧唐書』巻百二十四には、高句麗人である李正己中国語版を「李正己,高麗人也。」と記載しており[注釈 6]、大祚栄が高句麗人であるなら李正己中国語版同様に「高麗人」と直接書くはずであり、「高麗別種」などと曖昧に記載しないと指摘している[59]

劉毅(遼寧大学)は、『新唐書』と『旧唐書』の編纂過程上、全体的に『新唐書』の方が『旧唐書』より優れており、仮に『旧唐書』の記事を「大祚栄は高句麗人」と仮定しても、『新唐書』の方が優れているため『新唐書』の記事が正しいと主張している[60][46]。劉毅は、『新唐書』は『旧唐書』の多くの問題点を修正している事実上の『旧唐書』改訂版であり、『新唐書』は『旧唐書』が参考していない新史料、なかでも渤海に滞在して渤海を直接見聞し、その民族政治経済文化社会風俗に関する正確な記録を残した張建章の『渤海国記中国語版』を参照しており、編纂者の主観的な判断に基づいた『旧唐書』よりもはるかに優れていると評価し[60][46]、「別種という意味について、増村宏氏は『旧新両唐書日本伝の検討』の文中で、『各史籍について別種の用語を検討すれば、(1)唐代史料に多用され、唐代史書に準じて『旧唐書』の多用が注意される。(2)別種の多用は唐代史書の一つの書法である。(3)別種は当該民族・国人の自言を表すものではなく、中国側(史書撰述者をふくむ)の判断である。』と考察する。また、朱国忱・魏国忠氏は『渤海史稿』に、『別種と本種、或いは正胤とが違った二つの概念であり、その区別は明かな事であろう。』と論ずる。以上の両説によれば、『高麗の別種』という意味は、『高麗の本種』ではないという中国の史書撰述者の判断であったと分かる。『旧唐書』渤海伝の文を見ると、史書撰述者はまず『渤海靺鞨の大祚栄』と明記し、すなわち大祚栄の所属する民族靺鞨であるとみられ、後の『高麗の別種』の用語は史書撰述者の劉昫などの判断であろう。しかしながら、読む者の理解には差があるので、間違った結論を出す疑いもあるであろう。これに対して、『旧唐書』の改正版である『新唐書』が、その渤海関連記事にはさらに大祚栄の所属する民族を、直接に『もと粟末靺鞨』と書き直している。これが事実に基づく定説であろうと考える」「『新唐書』渤海伝に、『睿宗先天中,遣使拜祚榮爲左驍衛大將軍,渤海郡王,以所統爲忽汗州,領忽汗州都督,自是始去靺鞨號,專稱渤海。』とある。唐の先天年間(七一三)まで、大祚栄の国号は『靺鞨』といったことが知られる。大祚栄の十七年(唐開元二年、七一四)、唐の冊封使崔忻は唐へ復命する途中で今日の遼東半島に達した。この重大な歴史的意義を持つ冊封使としての活動を記念して、今日の旅順港付近の黄金山の麓に井戸が二つ掘られた。一九〇六年、この著名な『鴻臚井欄題記』が発見されたが、その碑文に、『勅持節宣労靺鞨使鴻臚卿崔忻井両口永為記験 開元二年五月十八日』と書かれる。これによれば、靺鞨こそ渤海であって、渤海こそ靺鞨であることが知られる」と述べている[61]

宋基豪(朝鮮語: 송기호ソウル大学)は、『旧唐書』「高麗別種」とは、『新唐書』「本粟末靺鞨附高麗者(もとの粟末靺鞨で、高麗に付属していた者)」のことであると解釈している[62][63]

卞麟錫(朝鮮語: 변인석英語: Pyun, In-seok亜洲大学)は、「『旧唐書』と『新唐書』の見解を組み合わせて解釈することは避けねばならず、何故なら『旧唐書』と『新唐書』では異なる見解を示しているからである」として、朴時亨は「別種」を「亜種」と解釈しているが、「別種」とは生物でいう「亜種」という意味の「変種」ではなくて従属関係をあらわしており、従って「別種」とは「亜種」「変種」であるという主張には賛成できず、中国史書でみられる「別種」とは主体の支配階層ではなく、他系統という意味であり、高句麗が滅びると、その遺民と靺鞨や突厥営州に移されていたが、大祚栄もこれらとともに雑居地である営州に移り、大祚栄が靺鞨に分投し、散乱した理由は定かではないが、大祚栄が靺鞨人とともに一団となった事実だけでも旧高句麗人と靺鞨人を中心とした連合体の指導者であることは間違いなく、複数の部族の混在的な性格をもつ連合体の実体を把握することができなかった中国史書が高句麗中心の連合体と誤って解釈したものが「別種」であり、編纂した史官が、中国史書の伝統的な民族系統から平易に機械的に踏襲して「別種」或いは「別部」を使用したものであり、「別種」という単語は史官が前代の記録を踏襲したものとみる[64]。従って『旧唐書』を「渤海靺鞨大祚栄は、本来、高句麗別種である」というように「別種」を「変種」の意味で解いてはならず、『新唐書』巻二十二には、高句麗百済について「扶餘別種」とあり、高句麗と百済の支配層は本来夫余から割れた種であることを鑑みて、渤海が多民族国家であることを主眼に置くと、大祚栄が高句麗人か或いは靺鞨人であるかは不明であるが、「高麗別種」とは渤海の支配層が高句麗系であることを指しているのではないかと推測できると主張している[64]

魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所)と郝慶云(黒竜江省社会科学院歴史研究所)は、『旧唐書』「高麗別種」は、別種はもともと同種から分かれた分種ではなく、種族的に異なる部落を指すものであり、大祚栄が靺鞨族としてかつて高句麗の統治に隷属したことから「高麗別種」と呼ばれたものと理解しており、さらに『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也」記事の「高麗別種」の解釈以前に、そもそも「渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也」として大祚栄が靺鞨であることを宣言しており、実質的に『新唐書』と『旧唐書』は矛盾しておらず[65][46]、『新唐書』の「粟末靺鞨附高麗者」とは『旧唐書』の「高麗別種」を指していると指摘している[66]

  1. 高句麗説に立つ者が主に依拠する『旧唐書』北狄伝の記載には、文中に「渤海靺鞨の大祚栄」と明記されている。すなわち渤海政権を樹立した大祚栄は靺鞨人であるという大前提の下で、初めてそれが「高麗の別種」だと明示しているのである。以上のことから、これと『新唐書』北狄伝にある「渤海は、本粟末靺鞨の高麗に付く者にして、姓は大氏」の文とは、根本的に違いがないことがわかる。両者はともに大氏の所属する民族を靺鞨であると明確に示しており、『新唐書』はそれが粟末靺鞨だということをさらに指摘しているにすぎない[67]
  2. 高句麗説の論者が根拠としている『旧唐書』さえも、渤海および大祚栄政権を記述するにあたって、同様にこれを「渤海靺鞨」と称し、さらに渤海を「北狄伝」の中に置いて「北狄」の一員として扱っており、「高麗の別種」とあるにもかかわらず、高句麗のことを記録する「東夷伝」の中には収めていないのである。編者の念頭には、渤海は「北狄」であり、高句麗は「東夷」であって、両者は異なる種族に属するものであるとする認識があった[67]
  3. 公平な目で論ずると、『新唐書』は遅れて編纂されているので、『旧唐書』に比べて利用できる史料がより多く、唐の張建章の『渤海国記中国語版』のような第一級の史料を包括していて、史料的価値は『旧唐書』本伝よりも高い。とりわけ、大氏の系統が「高麗に付く者」という一句は、まさしく『旧唐書』の「高麗の別種」の概念に、適切な説明を提供しているのである[67]
  4. 各方面の史料を総合的に分析すると、隋の時代の突地稽中国語版兄弟に率いられた粟末靺鞨人の内遷は、決して粟末靺鞨部族全体に及ぶものではない。『隋北蕃風俗記』の記事によると、その中の厥稽部・忽使来部など八部の兵数はわずかに千人にすぎない。このほか、一部は故地に留まり、その中の多くは前後して高句麗政権の属民になるか、高句麗政権に帰服したのである。後に、唐が高句麗を滅ぼすと、一部の「高麗に付く者」も高句麗の遺民に従って、唐政権によって遼西および中原の各地に移された。渤海の始祖である大祚栄の一族は明かにこの「高麗に付く者」の中の有力な一族であった。高句麗に帰服した粟末靺鞨人の地位は、まさにかつて匈奴によって征服され、匈奴の属部にされた鉄勒人と同様であり、したがって鉄勒人が匈奴の「別種」と称されたのと同様に、靺鞨人は『旧唐書』の編者によって「高麗の別種」と記載されたのである。以上のことから、両唐書がそれぞれ記載する「高麗の別種」と「高麗に付く者」とは同一の概念であって、「高麗の別種」だから高句麗人であるという結論は根本的に出し得ないことがわかる[67]
  5. 大氏一族を含む靺鞨諸部の「高麗に付く者」が、高句麗に付属しているかあるいはその属部になっているかであって、決して高句麗と同族でないことはきわめて明確である。靺鞨諸部の人間と高句麗人との間の厳格な区別は、両者が敵対している時ばかりではなく、靺鞨人が高句麗の属部あるいは帰服者になった後にも、両者の間には依然として文化習俗生産生活様式などの面で明らかに違いがった。たとえば高句麗の滅亡から渤海の樹立に至るまで、双方が交錯雑居していたにもかかわらず、軍事上の共同作戦にしろ、日常の生活労働にしろ、靺鞨人はすべて高句麗人とは厳格に区別され、二つの異なる民族とされていた。両唐書の渤海伝は大祚栄の政権樹立の経過を記述するにあたって、ともに大祚栄が「高麗、靺鞨の衆を合わせ」たとか、「祚栄は驍勇にして善く兵を用う。靺鞨の衆及び高麗の余燼は、稍稍(しだい)に、之に帰す」、「高麗の逋残(逃散した敗残兵)、稍く之に帰す」や「高麗、靺鞨の兵に因りて、(李)楷固(将軍)を拒む」などと明言しており、いずれも靺鞨人を「高麗に付く者」と見なしており、それが高句麗人に同化したという例証はない[67]

朝鮮時代許穆李瀷安鼎福柳得恭朝鮮語版などは、すでに『旧唐書』と『新唐書』を折衷的に解釈する傾向を示しており、『旧唐書』の「高麗別種」とは『新唐書』の「本粟末靺鞨」のことであるとしており、「高麗別種」=「粟末靺鞨人」としている[40]

靺鞨,本粟末靺鞨,高句麗別種,有野勃,三世孫乞乞仲象,與其徒渡遼河,保太白山東,仲象死,子祚榮嗣[40][68][69] — 許穆、眉叟記言、巻三二・東事・靺鞨条
許眉叟,作渤海列傳,頗欠詳,渤海本粟末靺鞨,高句麗別種[40] — 李瀷、星湖僿説、経史門・渤海
靺鞨大祚榮遁去,初契丹之亂,有乞乞仲象者,與高句麗別種,靺鞨粟末部落,乞四比羽及高句麗餘種,東走渡遼水[70][71] — 安鼎福、東史鋼目、巻四下
震國公姓大氏,名乞乞仲像。粟末靺鞨人也。粟末靺鞨者,臣於高句麗者也[40] — 柳得恭、渤海考、君考

森部豊は、「営州付近に、高句麗の別種である大祚栄の集団がおり」、「高句麗滅亡時に、高句麗の『別種』である大祚栄の集団が営州近辺にいたこと明らかであり、その中に高句麗人が含まれていたことが示唆されるのである」と述べている[72]

石井正敏は、「渤海の建国者大祚栄(あるいは父の乞乞仲象も)が粟末靺鞨人であることは間違いないと思われる。しかしその一方で『高麗別種』あるいは『附高麗者』とされている。すなわちこれらの表現するところは大祚栄をはじめとする王族はかつて高句麗に所属していた靺鞨人、いわば高句麗系靺鞨人(靺鞨系高句麗人)であったということである。大祚栄が『高麗別種』・『附高麗者』と表現されていることは、『その附隷の関係が一般の者より格別深密であったために相違なく、…その深密な附隷関係を通して彼等が事実上高句麗人化していたためでなければならぬ』といった理解はまず間違いないであろう。同じく靺鞨人であっても、すでに高句麗化が進んでいることから、区別されているのであろう。大祚栄周辺で建国に中心的な役割を果たし、やがて支配層に属するような人々は、このような高句麗系靺鞨人(靺鞨系高句麗人)が多数を占めたであろうことは容易に推測される。支配層に属する人々は言語の面でも、あるいは文化の面でも相当に高句麗化が進んでいたのかも知れない。狩猟漁撈を主な生業とする移動性の靺鞨人系と定着性のある高句麗人系との区分が反映しているのではないか、との指摘もある」と述べている[73]

乞乞仲象と大祚栄の関係

新唐書』渤海伝では、乞乞仲象と大祚栄は父子関係となっているが、『旧唐書』には乞乞仲象の名は出てこないこと、また乞乞仲象は靺鞨名でありながら大祚栄は漢名であることなどを根拠に、池内宏は乞乞仲象は営州にいたときの本名、大祚栄は渤海の基を開いた後に用いた漢名であるとして、乞乞仲象と大祚栄は異名同人と主張し(『満鮮史研究』)、鳥山喜一は乞乞仲象と大祚栄は父子関係ではないそれぞれ別個の存在と主張し(『渤海史上の諸問題』)、新妻利久は乞乞仲象と大祚栄は父子関係と主張している(新妻利久 1969)[74]

李尽忠中国語版の乱が起きたときに渤海建国の母体となった高句麗遺民集団と靺鞨集団が営州から東走したとされるが、このうち靺鞨集団を率いたのは乞四比羽であり、高句麗遺民集団の指導者は『旧唐書』で大祚栄、『新唐書』は乞乞仲象とあって異なる。これについて『新唐書』が参照した『渤海国記中国語版』の史料的性格を検討した古畑徹は、乞乞仲象-大祚栄という父子関係を認めた上で大祚栄にに叛いた者という傷を負わせないための渤海側の思慮によるものであり、事実として承認できるのは乞乞仲象が大祚栄の父であるということのみであるという見解を提出している[19]


  1. ^
    有高麗別種大舎利乞乞仲象大姓,舎利官,乞乞仲象名也。 — 五代会要、巻三十、渤海上
  2. ^
    萬歳通天中,契丹盡忠殺営州都督趙文翽反,有舎利乞乞仲象者,與靺鞨酋乞四比羽及高麗餘種東走,度遼水,保太白山之東北,阻奥婁河,樹壁自固 — 新唐書、渤海伝
  3. ^
    契丹豪民耍裹頭巾者,納牛駝十頭,馬百疋,乃給官名曰舎利燼,勿吉雜流。 — 遼史、巻一一六、国語解
  4. ^
    契丹捨利萴剌與惕隱,皆為趙德鈞所擒。舎利・惕隱,皆契丹管軍頭目之称 — 資治通鑑、長興三年三月条
  5. ^
    越喜靺鞨遣其部落烏舎利来賀正。 — 冊府元亀、巻九七五、外臣部褒異門
  6. ^
    李正己,高麗人也。 — 旧唐書、巻一百二十四






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