大セルビア 概念

大セルビア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/03 13:28 UTC 版)

概念

フランス人H. Thiers により 1862年に作成された大セルビア地図

大セルビアの概念は19世紀の汎スラヴ主義運動から分岐したものである。元来、それは亡命ポーランド人のアダム・イエジィ・チャルトリスキに影響を受けたもので、全ての南スラヴ人の連邦国家を目指していた。イリヤ・ガラシャニンによるそれは、スラヴ人全体よりも特にセルビア人に焦点を当てたものであった。19世紀後半には、この概念は一部を除いたセルビア人の政治家の間に強く影響を与えてきた。たとえば、オーストリア=ハンガリー帝国のセルビア人の作家で政治家であるスヴェトザル・ミレティッチ(Svetozar Miletić)やミハイロ・ポリト=デサンチッチ(Mihailo Polit-Desančić)、セルビアの科学者のスヴェトザル・マルコヴィッチ(Svetozar Marković)らは大セルビアの考え方に強く反対していた。彼らはセルビアとブルガリア、そして時にルーマニアや、オーストリア=ハンガリー帝国領のボスニア・ヘルツェゴビナクロアチアも含めた「バルカン連邦」構想を支持していた。

19世紀のセルビアにおける最も著名な言語学者であるヴーク・カラジッチは、セルビア・クロアチア語シュト方言を話す者はすべてセルビア人であるとする見方を持っていた。この定義によれば、クロアチア内陸部とダルマチアの大部分、ボスニア・ヘルツェゴビナの住民はセルビア人ということになり、カトリックに属しセルビア人としての民族意識を持たない者がこの定義ではセルビア人であるということになり、そのためヴーク・カラジッチは大セルビア主義の創始者であると言われることもある。より正確には、カラジッチはその後長くにわたって大セルビアと見なされるようになった範囲を定めた人物であり、正教会イスラム教カトリックの別なくシュト方言を話す全ての地域をセルビア国家として統一するという考え方の元になっている。しかしながら、この考え方はコソボトルラク方言が話されている南部セルビアが例外とされている。しかし、この計画は当初から良い評判を得ることが出来ず、非難を受けた。

  • シュト方言を話す多くのカトリック教徒のクロアチア人の知識人や作家たちは、クロアチアへの連帯意識を、カラジッチの表明よりも300年ほど古い16世紀なかばないし17世紀頃から表明している。これらのクロアチア人たち忠誠はカトリック国家へ向けられており、彼らが自身の民族性について言明する際には、スラヴ人やイリュリア人(カトリック・汎スラヴ運動のさきがけともいえる)でありかつクロアチア人であるとしている。これら(およそ350年間の間の30人ほどの作家)は、自身をセルビア人であると見なしたことは一度もなかった。
  • カラジッチが示したセルビア人の名称と民族意識は、初期の誤ったスラヴ学の特徴を受け継いでいる。それはオーストリア帝国の官僚当局によって始められた政治的計画に端を発したものであり、ヨセフ・ドブロフスキー(Josef Dobrovský)やパヴェル・ヨゼフ・シャファーリクPavel Jozef Šafárik)、イェルネイ・コピタル(Jernej Kopitar)らをその代表例とするものである。したがって、言語学的なまやかしによる大セルビア主義は19世紀のスラヴ学に根ざしたものである。
  • カラジッチは、「セルビア人すべて、至る所に」(カラジッチの想定による、それまでのいかなる説よりも大きく拡大されたセルビア民族地域の範囲がここで表明された)の出版に伴って発生した論争において、クロアチアのスロヴァキア人の哲学者ボゴスラフ・シュレク(Bogoslav Šulek)による議論を無視することを選んだ。シュレクは、シュト方言を話す16世紀から17世紀にかけての作家たちのクロアチア民族意識の表明を引用して整理し、シュト方言を話す者はセルビア人であるとするカラジッチの言説を否定した。

カラジッチの表明した概念は、1991年に発生したクロアチアと、同国で少数民族となったセルビア系住民との衝突にも影響を与えている。これらの否定的な見解に対してAndrew Baruch Wachtelの「国家の形成、国家の崩壊」(Making a Nation, Breaking a Nation)は異なる見方を示した。Wachtelは、カラジッチは南スラヴ民族統合の支持者であり、問題はあったものの、かつてから宗教によって分断されてきたそれまでの民族規定に変えて、言語の同質性によって南スラヴの統一を主張したものであるとした。しかしながら、Wachtelの見解には次のような異議がもたれ得る。すなわち、カラジッチ自身は力強く明確に、自らの目的は自身を「セルビア人」と規定するシュト方言話者の統合であると表明していた。そのため、カラジッチの目的はセルビア国家の領域を自身の民族言語学的なアイデアによって拡張することであり、セルビア人とクロアチア人など他の民族との統合を主張したものではない。また、ボスニア・ムスリムは、オスマン帝国統治下で正教会からイスラムに改宗したセルビア人の子孫であるとする主張も頻繁に行われているが、クロアチアの民族主義者は「正教会」を「カトリック」と置き換えた類似の主張を行っている。このような主張は、他民族の領域を支配する口実として常に用いられるものである。

自国内に多くのスラヴ系民族が居住していたオーストリア帝国は、スラヴ人の統合運動を支持していた(たとえば、クロアチア語とセルビア語を「統合」したウィーン合意 en などがある)が、やがて汎スラヴ運動は自国の統合に対する脅威として反対の立場をとるようになった。セルビア人は1864年以降、マティツァ・スルプスカ(Matica srpska)と呼ばれる機関に設立し、独自の総主教のいるセルビア正教会を持ち、独自の国家であるセルビアおよびモンテネグロを得た。これらの組織はオーストリアの政府に支持され支援を受けてきたが、これらがオーストリアの影響力排除とオーストリア領へのセルビアの拡大を目指す政治的プロパガンダを流布する機関となってからは、オーストリア政府はこれらに対して懐疑的となった。歴史的なセルビア領土を要求する考え方は19世紀から20世紀にかけて(思想レベルを超えて)行動となって表れた。その代表例が20世紀初頭にセルビアの南方拡大を目指してのバルカン戦争や、セルビアの東方拡大を目指しての1990年代ユーゴスラビア紛争である。

大セルビアの概念は1920年代にユーゴスラビアの首相ニコラ・パシッチ(Nikola Pašić)によって具現化された。警察による脅迫と選挙での不正を用い[2]、パシッチは自身の率いる内閣に対する反対勢力(主としてクロアチア人の政敵)の影響力を低下させることで[3]大部分のスラブ人とスラブ人の政治家の一部を手中に収め中央集権化を推し進めた。[4]

第二次世界大戦の間、ドラジャ・ミハイロヴィッチに率いられたセルビア人王党派勢力のチェトニクは、彼らの理想とする戦後の国家像を実現すべく活動した。チェトニクの知識人の一人、ステヴァン・モリェヴィッチ(Stevan Moljević)は1941年に論文「単一民族のセルビア」と題される論文を発表し、その中でボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアの大部分のみならず、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリーの一部をも含めた大セルビアを建設すべきであるとした。これはチェトニクの1944年の会合の主要な話題となった。しかしながらモリェヴィッチの主張は、ヨシップ・ブロズ・チトーの率いるパルチザンによってチェトニクが壊滅したことにより実現されることはなく、またこの1944年の会合の記録が逸失していることにより、モリェヴィッチの思想が持った影響力の大きさを正確に把握することは難しい。モリェヴィッチの考え方の核は、セルビアの領域は既存のいかなる国境にもよらず、セルビア人の居住範囲によって定められるべきであるとするものであり、これはその後も大セルビア思想の根幹を成している。加えて、モリェヴィッチにより付記された地図は現代のセルビア民族主義者によって持ち出される標準的な資料となっており、類似の地図はセルビアで有力な右翼政党であるセルビア急進党の綱領などにみられる。


  1. ^ Šešelj ICTY Case information sheet
  2. ^ Balkan Politics, TIME Magazine, March 31, 1923
  3. ^ Elections, TIME Magazine, February 23, 1925
  4. ^ The Opposition, TIME Magazine, April 06, 1925





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