しちきょう‐おち〔シチキヤウ‐〕【七卿落ち】
七卿落ち
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七卿落ち(しちきょうおち)は、1863年(文久3年)の八月十八日の政変において、7人の公家が京都から追放された事件。
概要
1863年(文久3年)、薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策した八月十八日の政変で失脚した尊王攘夷派の7人の公家が京都を追放され、長州藩へと落ち延びた。この7名は長州藩兵に付き添われて洛東にある妙法院に集結した後、兵庫津を経て、海路で長州藩の三田尻港(現・山口県防府市)を目指した。途上悪天候のため、3隻のうち2隻が徳山藩の徳山港(現・山口県周南市)に上陸し、ここから陸路、三田尻に向かった。
失脚した七卿は以下の通り。
- 三条実美〈実〉(27歳:従三位権中納言)
- 三条西季知〈知〉(53歳:正二位行権中納言)
- 四条隆謌〈謌〉(36歳:従四位上行侍従)
- 東久世通禧〈通〉(31歳:正四位下行左近衛権少将)
- 壬生基修〈修〉(29歳:従四位上行修理権大夫)
- 錦小路頼徳〈頼〉(27歳:従四位上行右馬頭)
- 澤宣嘉〈宣〉(28歳:正五位下行主水正)
なお、7名のうち、公卿の列にあるのは、三条実美と三条西季知の両名だけであることから、二卿五朝臣といった言い方もある。同月24日には、彼らの官位が剥奪され、さらに、同年9月9日、彼らの諱はそれぞれ、上記〈〉内に改めさせられる[1]。
その後、錦小路頼徳は1864年(元治元年)に病没、澤宣嘉は生野の変で挙兵したのちに脱出して四国伊予小松藩周辺に匿われた後、長州に脱出、残る五卿は第一次長州征伐の後に筑前国太宰府(現・福岡県太宰府市)に移された。1867年(慶応3年)12月、王政復古の大号令の前夜、朝議にて赦免され、官位や諱が復されると、澤宣嘉は外務卿、三条実美は太政大臣や内大臣、三条西季知は参与や神宮祭主、東久世道禧は枢密院副議長や貴族院副議長となるなど、それぞれ明治政府の要職に就いた。
史跡・記念碑など



- 七卿西竄紀念碑(京都市東山区東山七条)
- 妙法院境内の西南隅に建つ高さ2.5mの巨碑。西竄50周年を記念して建てられた[2]。
- 五卿の東浜崎上陸を記念し1913年(大正2年)に建てられた。本来は上陸地に近い東浜崎に建てられていたが、2001年(平成13年)周南市晴海埠頭の親水公園に移築された。
- 三田尻御茶屋(山口県防府市)
- 七卿遺蹟之碑(山口市湯田温泉二丁目5番 井上公園)
- 七卿落ち60年を記念して1926年(大正15年)に建立された山口市の有形文化財(建造物)[9]。
- 五卿が桜山招魂場を参拝した記念碑。昭和56年(1981年)5月に建立された。桜山神社の参道脇にある。
- 太宰府に配流される五卿が黒崎湊に上陸した記念碑。
- 太宰府に配流される五卿の赤間宿滞在を記念した碑。
- 七卿西竄碑(福岡県太宰府市)
- 生雲八幡宮沢宣嘉願文(山口市阿東生雲)
脚注
- ^ 明神博幸「第三章 国論の分裂」『幕末の加賀・富山藩と越中国:ペリー艦隊来航から大政奉還まで』2016年。
- ^ 伊東宗裕 2004, pp. 106–107.
- ^ a b c d e 伊東宗裕 2004, p. 111.
- ^ 『孝明天皇紀:巻168』宮内省先帝御事蹟取調掛 編、先帝御事蹟取調掛、1906年、16頁。
- ^ “山口県の文化財”. 山口県観光スポーツ文化部文化振興課 (2010年). 2025年2月2日閲覧。
- ^ “鞆七卿落遺跡(ともしちきょうおちいせき)”. 福山市役所文化振興課 (2016年3月31日). 2024年11月4日閲覧。
- ^ “御手洗七卿落遺跡(みたらいしちきょうおちいせき)”. 呉市役所文化振興課 (2024年6月17日). 2024年11月4日閲覧。
- ^ “七卿落遺跡/豊地区”. 豊市民センター(支所) (2024年8月23日). 2025年2月9日閲覧。
- ^ “七卿遺蹟之碑(しちきょういせきのひ)”. 山口市教育委員会事務局文化財保護課 (2021年3月31日). 2024年11月4日閲覧。
- ^ 伊東宗裕 2004, p. 105.
- ^ “山口市の歴史文化資源 - 生雲八幡宮沢宣嘉願文(いくもはちまんぐうさわのぶよしがんもん)”. 山口市教育委員会事務局文化財保護課. 2024年11月4日閲覧。
参考文献
- 伊東宗裕『京都石碑探偵』光村推古書院、2004年。ISBN 4-8381-0344-1。
関連項目
- 功山寺 - 第一次長州征伐の際、湯田から西走した五卿が長府で滞在した寺。翌月、五卿を奉ずる正義派の諸隊(奇兵隊・遊撃隊・八幡隊・膺懲隊・御楯隊など)がこの寺で決起挙兵し(功山寺挙兵)、俗論派で占められた萩の藩庁と対峙する。
- 北風正造 - 兵庫津から船を手配して落ち延びる手配をした。
外部リンク
七卿落ちと同じ種類の言葉
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