マリ・キュリー
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評価
受賞・勲章・表彰
マリ・キュリーは女性初のノーベル賞受賞者であり、かつ二度受賞した最初の人物である[注 8]。また、物理学賞と化学賞の両方を受賞しているのは2017年時点、彼女だけである。
- 1899年、1900年、1902年:ゲーグネル賞(鋼鉄の磁性研究に対して[35])
- 1903年:ノーベル物理学賞(ピエール・キュリーおよびアンリ・ベクレルと同時受賞)、デービーメダル(ピエールと。イギリス王立協会)、ベルトローメダル(ピエールと)、パリ市名誉メダル(ピエールと)
- 1904年:オリシス賞(パリ新聞組合)、マテウチ・メダル(ピエールと。イタリア科学協会)
- 1907年:アクトニアン賞(イギリス王立科学研究所)
- 1909年:エリオット・クレッソン・メダル(ピエールと。フランクリン協会)、クールマン・ゴールドメダル(リール工業協会)
- 1910年:アルバートメダル
- 1911年:ノーベル化学賞
- 1919年:アルフォンソ12世文官勲章大十字勲章
- 1921年:エレン・リシャール研究賞、ジョン・スコット賞、ウィラード・ギブズ賞(アメリカ化学協会、シカゴ)、ベンジャミン・フランクリン・メダル(アメリカ哲学協会、フィラデルフィア)、アメリカ国立社会科学学会賞金メダル(ニューヨーク)
- 1922年:北アメリカ放射線学協会ゴールドメダル
- 1924年:ルーマニア政府第一級功労賞メダル、1923年度アルジャントゥイユ侯爵大賞
- 1929年:ニューヨーク婦人クラブ連合会金メダル
- 1931年:キャメロン賞(エディンバラ大学)、アメリカ放射線学会メダル
称号
存命中だけでも、マリは各国の科学アカデミー名誉会員など受けた称号は100を超える[20]。
- 1904年:モスクワ帝国文化人類学民俗学協会名誉会員。イギリス王立科学研究所名誉会員。ロンドン化学協会在外会員。バタヴィア哲学協会通信会員。メキシコ物理学協会名誉会員。メキシコ科学アカデミー名誉会員。ワルシャワ通算奨励協会名誉会員。
- 1906年:アルゼンチン科学協会通信会員。
- 1907年:オランダ科学協会在外会員。エディンバラ大学名誉法学博士。
- 1908年:サンクトペテルブルク帝国科学アカデミー通信会員。ブラウンシュヴァイク自然科学協会名誉会員。
- 1909年:ジュネーヴ大学名誉医学博士。ボローニャ科学アカデミー通信会員。チェコ科学文学美術アカデミー在外客員会員。フィラデルフィア薬学学会名誉会員。クラクフ科学アカデミー科学会員。
- 1910年:チリ科学協会通信会員。アメリカ哲学協会会員。スウェーデン王立科学アカデミー在外会員。アメリカ科学協会会員。ロンドン物理学協会名誉会員。
- 1911年:(フランス科学アカデミー会員選挙で落選)。ポルトガル科学アカデミー在外通信会員。マンチェスター大学名誉理学博士。
- 1912年:ベルギー化学協会会員。サンクトペテルブルク帝国実験医学協会客員会員。ワルシャワ科学協会普通会員。リヴォフ大学哲学名誉会員。ワルシャワ写真協会会員。リヴォフ理工科学校名誉博士。ヴァルナ科学協会名誉会員。
- 1913年:アムステルダム王立科学アカデミー特別会員(数理物理科)。バーミンガム大学名誉博士。エディンバラ科学技術協会名誉会員。
- 1914年:モスクワ大学物理医学協会名誉会員。ケンブリッジ哲学協会名誉会員。モスクワ科学協会名誉会員。ロンドン衛生学会名誉会員。フィラデルフィア自然科学アカデミー通信会員。
- 1918年:スペイン王立医学電気放射線学協会名誉会員。
- 1919年:スペイン王立医学電気放射線学協会名誉会長。マドリッド・ラジウム研究所名誉所長。ワルシャワ大学名誉教授。ポーランド化学協会会長。
- 1920年:デンマーク王立科学文学アカデミー普通会員。
- 1921年:エール大学名誉理学博士。シカゴ大学名誉理学博士。ノースウェスタン大学名誉理学博士。スミス単科大学名誉理学博士。ウェルズレイ単科大学名誉理学博士。ペンシルベニア女子医科大学名誉博士。コロンビア大学名誉理学博士。ピッツバーグ大学名誉法学博士。ペンシルベニア大学名誉法学博士。バッファロー自然科学協会名誉会員。ニューヨーク鉱物学クラブ名誉会員。北アメリカ放射線学協会名誉会員。ニューイングランド化学教員協会名誉会員。アメリカ自然史博物館名誉会員。ニュージャージー化学協会名誉会員。工業化学協会名誉会員。クリスティアニア・アカデミー会員。ノックス技芸科学アカデミー名誉終身会員。アメリカ・ラジウム協会名誉会員。ノルウェー医療ラジウム研究所名誉会員。ニューヨーク・アリアンス・フランセーズ名誉会員。
- 1922年:パリ医学アカデミー自由客員会員(フランス初)。ベルギー・ロシア学術団体名誉会員。
- 1923年:ルーマニア医療鉱水学気候学協会名誉会員。エディンバラ大学名誉法学博士。チェコスロヴァキア数学者物理学者連盟名誉会員。
- 1924年:ワルシャワ市名誉市民。ニューヨーク市民ホールの座席に名前が記載される。ワルシャワ・ポーランド化学協会名誉会員。クラクフ大学名誉医学博士・クラクフ大学名誉哲学博士。リガ名誉市民。アテネ精神科学協会名誉会員。
- 1925年:ルブリン医学協会名誉会員。
- 1926年:ローマ≪ポンティフィチア・ティベリアナ≫普通会員。サン・パウロ化学協会名誉会員。ブラジル科学アカデミー通信会員。ブラジル婦権振興連盟名誉連盟員。ブラジル・サン・パウロ薬学化学協会名誉会員。ブラジル薬学師協会名誉会員。ワルシャワ理工科学校化学科名誉博士。
- 1927年:モスクワ科学アカデミー名誉会員。ボヘミア文学科学協会在外会員。ソヴィエト連邦科学アカデミー名誉会員。北アメリカ州連合医学研究科協会名誉会員。ニュージーランド学士院名誉会員。
- 1929年:ポズナニ科学協会名誉会員。グラスゴー大学名誉法学博士。グラスゴー名誉市民。セント・ローレンス大学名誉理学博士。ニューヨーク医学アカデミー名誉会員。在アメリカ・ポーランド法人医学歯科学協会名誉会員。
- 1930年:フランス発明学者協会名誉会員。フランス発明学者協会名誉会長。
- 1931年:世界平和連盟名誉会員。アメリカ放射線学学会名誉会員。物理学自然科学アカデミー在外通信会員。
- 1932年:ドイツ自然科学アカデミー・レオポルディーナ会員。ワルシャワ医学協会名誉会員。チェコスロヴァキア化学協会名誉会員。
- 1933年:イギリス放射線学レントゲン協会名誉会員。
栄誉
マリ・キュリーは1902年に夫とともに[52]、1910年には単独で[65]フランスからレジオンドヌール勲章を贈られたが、どちらも辞退した[65]。
1935年、ワルシャワに設立されたラジウム研究所の前に彼女の銅像が建立された。除幕は大統領イグナツィ・モシチツキの夫人が行った。この像は第二次世界大戦末期、1944年のワルシャワ蜂起の際に銃撃を受けて損傷した。戦後修復を受けたが、銃創をあえて残す決定が下された[33]。
その他
歴史に残る著名な女性科学者として、マリ・キュリーの名や肖像は、さまざまな場所で用いられている。
- 原子番号96の元素名キュリウムは夫妻の姓に由来する。
- 小惑星の(7000) キュリーは夫婦の姓に由来する。
- 3つの放射性鉱物も彼女に由来する名称がつけられている。キュリー石 (curite)[99]、スクロドフスカ石 (sklodowskite)[100]、銅スクロドフスカ石(cuprosklodowskite)[101] である。
- 通貨の肖像にも使われ、ポーランドでは1980年代後半インフレ時発行された20000ズウォティ札[102]、フランスではユーロ統一前の500フランス・フラン札の他にも硬貨や切手でも見られた。
- 2009年に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)とロレアルが協賛した「For Women In Science」プログラムの一環として、雑誌『ニュー・サイエンティスト』で行われた「Most inspirational woman in science」にて、マリ・キュリーは25.1%の得票を受けて1位に選ばれた。これは2位のロザリンド・フランクリン(得票率14.2%)の倍近い支持だった[103][104]。
- ポーランドにて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある
- マリー・キュリー・スクウォドフスカ大学。1944年創立、ルブリン。
- キュリー研究所 (ワルシャワ)。ワルシャワ。
- マリア・スクウォドフスカ=キュリー博物館。1967年、生誕地[33]。
- フランスにて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある。
- パリ第6大学‐ピエール・マリー・キュリー大学。1968年、パリ大学の理学・医学部が分割された際に創立。研究分野に伝統を持ち、産業界とも連携しつつ科学や技術分野の研究や人材育成を行う[105]。
- キュリー研究所 (パリ)とキュリー博物館。パリ。
- ピエール・エ・マリー・キュリー駅。パリのメトロ7号線の駅[106]。
- ピエール・エ・マリー・キュリー通り。パリの5区の通り。
- マリー・キュリー公園(パリ)
- アメリカ合衆国にて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある。
- イギリスにて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある。
- マリー・キュリーがんセンター[109]
- イタリアにて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある。
- マリー・キューリー夫人財団。ボローニャ大学内[110]。
- 日本にて、彼女の名を冠した賞や機関・団体等には以下の例がある。
- ^ この奨学金は返納不要で、マリの行動は前例がないことだった[25]。
- ^ 当時の、ESPCIでのピエールの給与は月300フラン。これは工場の非熟練労働者の収入とさほど変わらない[29]。
- ^ ジュネーヴ大学のオファーは、ピエールには物理学教授職、月給1万フランに住宅手当など、実験室を用意し、マリもそこでポスト付で雇用される。当時夫妻の収入は月500フラン。[49]
- ^ この当時、ノーベル賞の認知度はあまり高くなかったがピエール夫妻の受賞で著名な賞となった[58]。
- ^ 投票結果は文献で差がある。エーヴ (2006)、p.393では1票差、パサコフ (2007)、p.99では2票差とある。米沢(2006)、p.107では詳しく、58人の投票でマリ28票、ブランリー29票、他の候補1票となり、2候補に絞られた決選投票でマリ28票、ブランリー30票とある。
- ^ ランジュバンは手紙を公開した週刊誌記者ギュサーブ・テリーに決闘を申し込んだ。1911年11月26日、拳銃を持つ両者は対峙したが、どちらも「人殺しはできない」と弾丸が放たれることはなかったという[74]。他にもマリーの大ファンだった雑誌の編集長と、マリーを攻撃した別の雑誌の編集長が剣で決闘しかけたとされる。
- ^ 文献によって差がある部分。宇佐 (2001)、p.175では「体調を慮り関係者が受賞を遅らせてはと打診した」とあり、パサコフ (2007),p.107では「マリの支持者が、泥沼化したスキャンダルが間違いと証明されるまで辞退すべきと手紙で勧めた」と書かれ、米沢 (2006)ではアカデミー会員のスヴァンテ・アレニウスが「賞を辞退しろ、授賞式に来るなとの手紙を寄越した」とある。エーヴ (2006) ではランジュバンの件にほとんど触れていないが、河野は訳者あとがきで簡易に解説を加えている。
- ^ マリ・キュリーの他にノーベル賞を2度受賞した人物は、フレデリック・サンガー、ライナス・ポーリング、ジョン・バーディーン、バリー・シャープレスの4名である。
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固有名詞の分類
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