国籍離脱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:37 UTC 版)
二人は住所をパリに移し、そこからすぐにコート・ダジュールのアンティーブに移った。スコットが2作目の長編の執筆にかかりきりになった事で構ってもらえなくなった間、ゼルダは若く溌剌としたフランス人の空軍パイロット、エドゥアール・ジョーザン(Edouard S. Jozan)に夢中になった。ゼルダはジョーザンと日暮れまでビーチで泳ぎを楽しみ、夜はカジノでダンスをした。6週間後、ゼルダはスコットに離婚を申し出た。これに狼狽した彼は、はじめジョーザンに会わせろと要求したが、ついにはゼルダを自分たちの家に監禁し、離婚を諦めるまでそこに閉じ込めた。ジョーザンはゼルダが夫にそんな頼み事をしていることを知らず、その年のうちにコートダジュールを去り、ゼルダと再び会うことはなかった。ゼルダとジョーザンがどこまでの関係であったかは不明だが、多くの関係者は2人が肉体関係にまで及んでいたと考えている。しかし、後にジョーザンはゼルダの伝記作家ミルフォードとのインタビューで「あの二人はどちらもドラマを必要としていた。彼らはそれをでっちあげ、おそらくは自分たちの穏やかでない、すこしだけ不健全な想像力の犠牲者に進んでなったんだ」と述べ、これを否定している。 事件の後も、二人は以前と同じように、友人たちの前では幸せそうに振る舞った。しかし、9月になってゼルダは睡眠薬の過剰摂取を起こす。二人はこのときの事を口外することはなく、これが自殺の試みであるのかどうかの議論も拒んだ。スコットは執筆活動に戻り、長編を10月に完成させた。完成を祝ってローマとカプリ島へ旅行をしてみたが、ゼルダもスコットも不幸せで不健康なままだった。旅行の途中で小説の校正刷りを受けとった彼はタイトルに頭を悩ませた。「ウェストエッグのトルマキオ」か、ただ「トルマキオ」あるいは「ギャツビー」か、「金色帽子のギャツビー」、「高跳びする恋人」という候補もあった。 「グレート・ギャツビー」という題を選んだのはゼルダだった。大腸炎にかかったゼルダが絵を描き始めたのもこの旅の途中である。 1925年4月にパリに戻ったスコットは、作家として売り出すために何かと動いたアーネスト・ヘミングウェイに会い、固い友情を結んだ。しかしゼルダとヘミングウェイは最初に顔を合わせたこのときから互いを嫌っていた。ゼルダは隠すことなく「にせもの」「胸まで髪をのばしたフェアリー(同性愛者の意)」「不渡り手形と同じいんちき」と呼んだが、つまり彼女はヘミングウェイの傲慢なマチズモ的人間像はただのポーズだと考えていたのである。ヘミングウェイのほうでも「彼女はきちがいだ」とスコットに話し、早く別れた方がいいとすら提言したが、当然彼は取り合わなかった。一方でヘミングウェイを介して、ゼルダとスコットはガートルード・スタイン、アリス・B・トクラス、ロバート・マッカルモンといったロスト・ジェネレーションの海外居住者コミュニティのメンバーのほとんどと知り合いになった。 それまでにない深刻な亀裂が生じたのは、ゼルダがスコットに「性生活が衰えたのは貴方がフェアリーであり、ヘミングウェイと浮気をしているのだろう」と言ったときだった。彼らが同性愛者だという証拠は全くなかったが、それでもスコットは濡れ衣を着せられないよう、売春婦と寝て自分の男らしさを証明することを決めた。そしてゼルダは言い争うようになる前に夫が買ったコンドームを見つけたため、激しい喧嘩に発展し、嫉妬はその後もおさまらなかった。それからも、イサドラ・ダンカンとの会話に夢中になって自分を無視したという理由から、パーティの途中で大理石の階段に身投げするということがあった。
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