A7M2の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 06:02 UTC 版)
仮称A7M2として開発の始まった発動機換装型だが、名目上は開発中の烈風高高度型の基礎データ収集のために三菱が独自に制作する実験機であったため、紫電改の重点生産を計画していた海軍が制式採用する可能性は低い状況だった。 A7M2試作一号機は昭和19年(1944年)10月上旬に完成し、初飛行後直ちに行われた飛行試験において最高速度337ノット(624.1 km/h)、上昇力高度6,000 mまで6分5秒という十七試艦戦の要求性能をほぼ満たす好成績を記録、これを見た海軍は試乗と審査用に試作機の領収を三菱に申し入れた。その後、零戦との間で行われた空戦実験において、空戦フラップを使用すれば零戦を凌ぐ空戦性能を発揮できると判定された。この結果を受けA7M2烈風として昭和20年(1945年)6月に制式採用された。 A7M2の試験飛行を担当した小福田租少佐は、「航続力、操縦性、空戦能力、防御力など、バランスのとれた優秀機であった。」「おそらく、終戦当時、世界各国の第一線機中ナンバー・ワンの傑作機といえる戦闘機であった。」「烈風こそ戦勢挽回、救国の傑作機」と語った。昭和20年(1945年)4月22日の官民合同研究会に於いて小福田少佐は「本機は甲戦(艦戦、援護戦)としても乙戦(局戦)としても各種の性能優れ、比較的低翼面荷重と小馬力荷重とは特に高々度性能の優秀性を保証し、真に現在世界無敵の戦闘機と称し得べし。さらに戦闘機としての任務のほかになお多くの攻撃兵器の搭載も可能にして、加うるに離着陸極めて容易なるを以て、未熟搭乗員の多き我が国の現状にては一日も速やかに玉成出現せしむべき戦闘機なり」と述べた。。 しかし、三菱での飛行試験が終了した直後の昭和19年(1944年)12月から翌昭和20年(1945年)1月にかけて頻発した東南海地震や三河地震と、B-29によるたび重なる空襲のため、東海地区の三菱の工場群は壊滅してハ四三の大量生産は絶望的となり、生産計画も年産120機ほどに留まった。この後も繰り返される空襲とそれに伴う地方への疎開(松本市に三菱重工業第一製作所を開設)による混乱のため、未だ発動機と機体共々未完成な部分を残すA7M2の改修と量産準備は遅々として進まず、終戦までにA7M1、A7M2合わせて7機の試作機(A7M1試作機3機がA7M2へ改修された)が完成し、量産機は1機が完成したのみで終戦となった。 A7M2の二号機は横空から三沢基地に空輸中松島で不時着大破、三号機は二号機の代替として7月19日に三沢に空輸。A7M2の一号機、A7M1の四、五、六、七号機は三菱重工鈴鹿工場で7月28日の空襲により四号機を除き被弾。この内六号機と七号機は損傷が軽度であったため修復し松本の第一製作所に疎開し試験を続けることとなったが、松本に到着したときはすでに終戦に近かった。量産一号機は大江工場で終戦を迎えた。
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