A7M1の不採用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 06:02 UTC 版)
設計陣が相次ぐ零戦の改修や雷電の不具合対応、工場が零戦と一式陸攻の生産で手一杯の状況に陥ったこともあり、A7M1試作一号機の完成は開発開始から約2年後の昭和19年(1944年)4月にまでずれ込んだ。同年5月に初飛行すると直ちに試験飛行が開始され、操縦性・安定性・視界・離着陸性能に問題がないことは確認されたが、最高速は高度6000メートルで300ノット内外(555 km/h)前後、上昇力に至っては高度6,000 mまで10分近くかかり、計画値に全く及ばなかった。出力不足は歴然であった。海軍側からは校葉末節とも思われる細部の工作不良の点を改修して試験飛行を続行することを指示されたものの、ほとんどその効果は現れなかった。飛行試験の結果から三菱側は誉の出力不足を疑い、A7M1から降ろした誉のベンチテストから高度6,000 m付近での出力が定格より2割程度低下し、1,300馬力程度しか出ていないというデータを海軍に提出、これが最高速度と上昇力の不足の原因であるとしてハ四三への換装を主張した。また海軍監督官・山田晋大尉が川西と中島の駐在監督官に依頼して調査したところ誉発動機を装備した川西の紫電改や中島の彩雲の領収飛行成績でも最高速度300ノット内外という大幅な性能低下が判明した。。 昭和20年(1945年)1月付けの『試製紫電改操縦参考書』や巌谷英一技術中佐の回想から明らかなように、当時の誉二〇型は誉一〇型と同じ条件で運転するよう制限されており、最初から定格より1割ほど低い出力しか出せない状態であった。しかし、三菱のベンチテスト結果と「A7M1が装備した誉は一番性能が低下していた頃に生産されたもの」という中島飛行機の誉担当者の回想から、A7M1に搭載された誉二二型の出力が運転制限された誉二〇型より低かったのは事実と考えられる。しかし、A7M1より半年ほど先に初飛行した紫電改(N1K2-J)が同じ誉二〇型装備ながら好成績を出しており、その艦上戦闘機型の開発にも目処が立ったことから、海軍は昭和19年(1944年)7月にハ四三への換装は認めたものの、翌8月にA7M1の開発を中止(烈風改(後述)の開発は続行)して紫電改の転換生産を行うように三菱に指示した。この決定に対しては堀越二郎も強い不満を持ったとされ、戦後に『ハ四三さえ最初から使えていれば……』と述べたと言われる。但し、A7M1の開発開始時点でハ四三は海軍の審査にも合格しておらず、量産開始に至ってはA7M1開発の中止と紫電改転換生産が指示された4ヶ月も後のことであり、最初から「使いたくても使えない」状況だった。
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