1950年代の国鉄特急列車網とは? わかりやすく解説

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1950年代の国鉄特急列車網

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 10:57 UTC 版)

国鉄キハ80系気動車」の記事における「1950年代の国鉄特急列車網」の解説

1912年明治45年)に日本最初特急列車新橋 - 下関間に運転開始されて以来国鉄特急列車東海道・山陽本線限定される形で運行されてきた。 太平洋戦争終了後もその傾向変わらず1958年昭和33年)までは東海道・山陽本線鹿児島本線一部限って特急運行されていた。 1950年代までの「特急」の存在は、文字通りの「特別急行」であり、当時意識では地方路線運行すること自体論外であった戦後間もない時期は、旅客速達需要そのもの21世紀初頭現代比べて遙かに低く戦前から沿線大都市擁していた東海道本線除けば急行以上に速い特急列車設定する必然性低かった。 また電化についても、1956年昭和31年)に東海道本線全線電化完成したほかは、幹線長距離電化区間1947年昭和22年)から1952年昭和27年)にかけて完成した高崎上越線上野 - 長岡間に限られていた。したがって当時多く路線蒸気機関車によって運行される非効率な状態であり、従前急行列車比して大きく速度向上する手段は、編成両数極端に減ずるか、停車駅を減らす以外に方法はなく、需要限られる以上は特急列車運行余地少なく少な本数急行列車中距離客・長距離客いずれにも対応しなければならなかった。 また1958年までは、特急用車両急行車両明確な区別もされておらず、明確に特急専用評し得たのは1等展望車一方向固定2人がけシート備えた3等車(現・普通車)のスハ44系に限られていた。 だがそれらも専ら東海道線昼行特急山陽線特急「かもめ」限られた運用し存在せず1956年昭和31年)から東京 - 博多間に運転を開始した戦後最初夜行特急あさかぜ」の3等車座席急行列車並みの4人がけボックスシートであるオハニ36形10系客車であり、その他寝台車・特別2等車(現・グリーン車)・食堂車について急行列車との差異見られなかった。

※この「1950年代の国鉄特急列車網」の解説は、「国鉄キハ80系気動車」の解説の一部です。
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