1630年代初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 06:56 UTC 版)
「ジョン・エンデコット」の記事における「1630年代初期」の解説
エンデコットの総督としての最初の任期は、1630年末にジョン・ウィンスロップと植民地憲章が到着したことで、終わることとなった。ロンドンのカンパニー自体が再編され、その本社を植民地に移し、ウィンスロップを唯一の総督とした。ウィンスロップはセイラムの状態を観察した後で、植民地の首都をチャールズ川の河口に移すことを決め、現在のボストン市となったものを設立した。エンデコットは総督の補佐(後の総督評議会の前身)の一人に選ばれ、セイラムに留まることを選び、その生涯の残り期間はセイラムの指導的市民の一人となり、そこでの町政委員や軍隊の指導者としての役割に加え、植民地全体でも軍隊指導者、判事、副総督、総督を務めた。セイラム・ビレッジに「オーチャード」と呼ぶプランテーションを設立し(現在はダンバースと呼ばれる)、果樹の苗木を育てた。初期開拓者集団によって苗木でもたらされた特別の梨の木が現在も残っており、実を付けている。エンデコット梨の木と呼ばれている。 1630年代初期、非国教派と分離主義者の間の宗教的紛争が、植民地における政治的不一致の主要な原因であり、ボストンとセイラムに設立された教会によって体現されていた。セイラムの教会は分離主義者の教えに従い、イングランド国教会との完全な決別を求めたのに対し、ウィンスロップなどボストンの植民地指導者の大半が保持した非国教派的な教えはイングランド国教会の内部からの改革を求めていた。1631年にボストンに分離主義を公言するロジャー・ウィリアムズが到着し、この紛争の度合いを高めた。ボストンの当局はウィリアムズを追放し、ウィリアムズは先ずセイラムに行って、エンデコットの介入もあって、地元教会の教師の地位を与えられた。この報せがボストンに届くと、エンデコットが植民地から追放されたはずのウィリアムズを支援したことで非難された。ウィリアムズはプリマスに行ったが、数年後にセイラムに戻り、1634年にサミュエル・スケルトンが死んだことに伴い、教会の非公式牧師になった。ボストンの当局はウィリアムズが反逆的で異端の声明であると見なすものを出したことで、その逮捕を要求した。ウィリアムズは逃亡して、最後はプロビデンスの町を設立した。この期間、エンデコットは、婦人が教会ではベイルを被るべきだと論じ、また地元民兵隊の軍旗について、聖ゲオルギウス十字が描かれているので、ウィリアムズがローマ教皇の象徴であると主張し、それを貶した。この行動はナサニエル・ホーソーンの小説『エンデコットと赤十字』に称賛されている。そこではエンデコットが宗教的不寛容さの象徴であり、ニューイングランドの外国支配に対する英雄的抵抗の表象として、その間の緊張関係が表現されている。エンデコットは、イングランド国王チャールズ1世の枢密院がマサチューセッツの事情を検査したときに、これを行った。植民地の役人は植民地認証が無くなるのを防ぐために強い反応が必要だと考えた。エンデコットはその行動の無分別さを批判され(行動自体に対してではない)、1年間は如何なる役職も剥奪された。1635年という年はエンデコットが何も役職を持たなかった唯一の年となった。植民地の民兵隊を管理する委員会はその年にイングランド国旗をその軍旗とする慣習を止めることを票決した。この出来事の後、ウィリアムズがセイラムに居るために、植民地議会がセイラムにマーブルヘッドネックの土地を新たに払い下げることを拒んだ。セイラムの教会は植民地の他の教会に回状を送り、憎むべき罪に対する立法を要求した。この回状の著者は明らかでないが、エンデコットがボストンに招集されたときにその文書を弁護したので、その結果1日間収監された。「彼(エンデコット)が罪を認めたので、釈放された」とされている。
※この「1630年代初期」の解説は、「ジョン・エンデコット」の解説の一部です。
「1630年代初期」を含む「ジョン・エンデコット」の記事については、「ジョン・エンデコット」の概要を参照ください。
- 1630年代初期のページへのリンク