1611年 - 1616年とは? わかりやすく解説

1611年 - 1616年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 00:26 UTC 版)

国王一座」の記事における「1611年 - 1616年」の解説

1611年ジョンソンの『カテリーナ』 ("Catiline his Conspiracy") が上演された。アーミン代役をリチャード・ロビンソンが務めたほかは、前年の『セジェイナス』と同じキャストであった。ジョン・ヘミングスは1613年には発声に難が出てきたと伝えられていることもあり、これがヘミングスにとって最後の舞台出演であった考えられている。ヘミングス1595年以来この劇団宮廷公演での報酬受け取ってきた古株だが、舞台去った後になって経営者として劇団財政面活躍し終生国王一座離れることはなかった。 1611年10月から1612年4月にかけて、国王一座は『冬物語』や『テンペスト』を含む22本の作品上演した。『第二の乙女の悲劇』を上演したのもこの時期である。ロバート・ゴフがMemphonius、リチャード・ロビンソンがLadyの役をそれぞれ演じたことがこの戯曲原稿記されている。 1612年1月12日1月13日いずれもトマス・ヘイウッドの手になるアン女王一座の2本の戯曲『銀の時代』と『ルークリース陵辱』を上演するため、国王一座アン女王一座合流している。このときのキャスト一覧現存していないが、当時の両劇団所属していた俳優顔ぶれから、10年ほど前に宮内大臣一座脱退してアン女王一座移籍していたクリストファー・ビーストンとかつての同僚久々競演であったことが推察される。 1612年 - 1613年冬季には、ジェームズ国王の娘エリザベス王女プファルツ選帝侯フリードリヒ5世婚礼を祝う壮大な祝宴宮廷催された。国王一座シェイクスピア作品7本(『空騒ぎ』は2回)、ジョンソン作品1本、ボーモント&フレッチャー作品4本を含めて20回もの公演行なっている。これらの作品人気国王一座レパートリー占め重要性反映した結果といえるシェイクスピアフレッチャー合作といわれる謎の作品カルデーニオ』もこのときに上演された。なお1613年6月8日サヴォイア公国大使来訪したさいにも『カルデーニオ』の宮廷公演が行なわれている。 1647年1679年刊行されボーモント&フレッチャーの二折判著作集 (Beaumont and Fletcher folios) には1613年ごろに国王一座上演された彼らの作品フレッチャー作 "Bonduca" 、 "Valentinian" 、ボーモント&フレッチャー作 "The Captain" の出演者一覧部分的ながら掲載されている。 CaptainBonducaValentinianリチャード・バーベッジ (Richard Burbage) ○ ○ ○ ヘンリー・コンデル (Henry Condell) ○ ○ウィリアム・オスラー (William Ostler) ○ ○ ○ ジョン・ローウィン (John Lowin) - ○ ○ アレクサンダー・クック (Alexander Cooke) ○ - - ジョン・アンダーウッド (John Underwood) - ○ ○ ニコラス・トゥーリイ (Nicholas Tooley) - ○ - ウィリアム・エクルストン (William Ecclestone) - ○ - リチャード・ロビンソン (Richard Robinson) - ○ - 1613年6月29日シェイクスピアフレッチャー合作『ヘンリー八世』の上演中、第3幕第4場派手な演出として祝砲鳴らしたところ、飛び散った火薬萱葺き屋根引火してグローブ座全焼するという事件がおきた。1400ポンド費用グローブ座再建され屋根タイル張り替えられた。1613年 - 1614年冬季国王一座16回の宮廷公演行なった1614年にはアレキサンダー・クックとウィリアム・オスラー2人相次いで死去した劇団共同株主の座はウィリアム・エクルストンとロバート・ベンフィールドが取って代わった推定されている。オスラーはジョン・ウェブスター作『マルフィ公爵夫人』に出演してまもなかったことから不慮の死であったらしいが、遺言書を残さなかったために問題引き起こされた。オスラーの所有していた劇場株式義理の父にあたるジョン・ヘミングスの手渡ったのだが、これに対して未亡人トマシーン・ヘミングス・オスラーが1615年に父を相手取って訴訟起こしたのである勝ち目のないものであることは明らかであったが)。 1614年 - 1615年冬季宮廷公演前年度半分の8回に減ったが、翌1615年 - 1616年冬季には再び14回に盛り返している。 1616年4月23日国王一座主力脚本家であるばかりでなく当代随一劇作家シェイクスピア死去した劇団中心的な座付き作家役割受け継いだのはジョン・フレッチャー長年にわたりフレッチャー共同執筆行なった合作者たち、また1630年代になってからいっそう知名度を増すこととなるフィリップ・マシンジャーである。1616年にはネイサン・フィールドが国王一座参加したフィールドこのころすでに俳優として知名度高く国王一座への在籍期間は非常に短かったが、劇団のために戯曲執筆行なった

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