1611年 - 1616年
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「国王一座」の記事における「1611年 - 1616年」の解説
1611年、ジョンソンの『カテリーナ』 ("Catiline his Conspiracy") が上演された。アーミンの代役をリチャード・ロビンソンが務めたほかは、前年の『セジェイナス』と同じキャストであった。ジョン・ヘミングスは1613年には発声に難が出てきたと伝えられていることもあり、これがヘミングスにとって最後の舞台出演であったと考えられている。ヘミングスは1595年以来この劇団の宮廷公演での報酬を受け取ってきた古株だが、舞台を去った後になっても経営者として劇団の財政面で活躍し、終生国王一座を離れることはなかった。 1611年10月から1612年4月にかけて、国王一座は『冬物語』や『テンペスト』を含む22本の作品を上演した。『第二の乙女の悲劇』を上演したのもこの時期である。ロバート・ゴフがMemphonius、リチャード・ロビンソンがLadyの役をそれぞれ演じたことがこの戯曲の原稿に記されている。 1612年の1月12日と1月13日、いずれもトマス・ヘイウッドの手になるアン女王一座の2本の戯曲『銀の時代』と『ルークリース陵辱』を上演するため、国王一座はアン女王一座に合流している。このときのキャスト一覧は現存していないが、当時の両劇団に所属していた俳優の顔ぶれから、10年ほど前に宮内大臣一座を脱退してアン女王一座へ移籍していたクリストファー・ビーストンとかつての同僚の久々の競演であったことが推察される。 1612年 - 1613年の冬季には、ジェームズ国王の娘エリザベス王女とプファルツ選帝侯フリードリヒ5世の婚礼を祝う壮大な祝宴が宮廷で催された。国王一座はシェイクスピア作品7本(『空騒ぎ』は2回)、ジョンソン作品1本、ボーモント&フレッチャー作品4本を含めて20回もの公演を行なっている。これらの作品の人気と国王一座のレパートリーに占める重要性を反映した結果といえる。シェイクスピアとフレッチャーの合作といわれる謎の作品『カルデーニオ』もこのときに上演された。なお1613年6月8日、サヴォイア公国大使が来訪したさいにも『カルデーニオ』の宮廷公演が行なわれている。 1647年と1679年に刊行されたボーモント&フレッチャーの二折判著作集 (Beaumont and Fletcher folios) には1613年ごろに国王一座で上演された彼らの作品(フレッチャー作 "Bonduca" 、 "Valentinian" 、ボーモント&フレッチャー作 "The Captain" の出演者一覧が部分的ながら掲載されている。 CaptainBonducaValentinianリチャード・バーベッジ (Richard Burbage) ○ ○ ○ ヘンリー・コンデル (Henry Condell) ○ ○ ○ ウィリアム・オスラー (William Ostler) ○ ○ ○ ジョン・ローウィン (John Lowin) - ○ ○ アレクサンダー・クック (Alexander Cooke) ○ - - ジョン・アンダーウッド (John Underwood) - ○ ○ ニコラス・トゥーリイ (Nicholas Tooley) - ○ - ウィリアム・エクルストン (William Ecclestone) - ○ - リチャード・ロビンソン (Richard Robinson) - ○ - 1613年6月29日、シェイクスピアとフレッチャーの合作『ヘンリー八世』の上演中、第3幕第4場で派手な演出として祝砲を鳴らしたところ、飛び散った火薬が萱葺き屋根に引火してグローブ座が全焼するという事件がおきた。1400ポンドの費用でグローブ座は再建され、屋根はタイル張りに替えられた。1613年 - 1614年の冬季、国王一座は16回の宮廷公演を行なった。 1614年にはアレキサンダー・クックとウィリアム・オスラーの2人が相次いで死去した。劇団共同株主の座はウィリアム・エクルストンとロバート・ベンフィールドが取って代わったと推定されている。オスラーはジョン・ウェブスター作『マルフィ公爵夫人』に出演してまもなかったことから不慮の死であったらしいが、遺言書を残さなかったために問題が引き起こされた。オスラーの所有していた劇場の株式は義理の父にあたるジョン・ヘミングスの手に渡ったのだが、これに対して未亡人トマシーン・ヘミングス・オスラーが1615年に父を相手取って訴訟を起こしたのである(勝ち目のないものであることは明らかであったが)。 1614年 - 1615年の冬季宮廷公演は前年度の半分の8回に減ったが、翌1615年 - 1616年の冬季には再び14回に盛り返している。 1616年4月23日、国王一座の主力脚本家であるばかりでなく当代随一の劇作家シェイクスピアが死去した。劇団の中心的な座付き作家の役割を受け継いだのはジョン・フレッチャーや長年にわたりフレッチャーと共同執筆を行なった合作者たち、また1630年代になってからいっそう知名度を増すこととなるフィリップ・マシンジャーである。1616年にはネイサン・フィールドが国王一座に参加した。フィールドはこのころすでに俳優として知名度も高く、国王一座への在籍期間は非常に短かったが、劇団のために戯曲の執筆も行なった。
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