10年間の護民官職
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「ルキウス・セクスティウス・セクスティヌス・ラテラヌス」の記事における「10年間の護民官職」の解説
セクスティウスとリキニウスは、彼らが最初に護民官に選ばれた紀元前375年にこの法案を提案した。しかしパトリキ(貴族)はこれに反対し、法案の審議自体も妨げられた。その報復として、二人は当時執政官の代わりに設置されていた執政武官の選挙を5年間拒否し、アエディリスと護民官の選出のみが許された(即ち、この間のローマは半ば無政府状態にあった)。紀元前370年、ウォルスキ都市ウェリトゥラエ(現在のヴェッレトリ)との戦いのために軍を編成する必要が生じ、二人は執政武官選挙に合意したために、この異常事態は解消した。紀元前369年、リキニウスの義父である執政武官ファビウス・アンブストゥスの力も加わり、彼らの提出した法案、特に執政官に関する案が激しく議論された。 紀元前368年にはこの法案に反対するマルクス・フリウス・カミッルスが独裁官(ディクタトル)に任命された。同僚護民官の拒否権を押し切ってトリブス民会での投票が始まると、カミッルスは平民が自ら得た権利をないがしろにしているとし、リキニウスとセクスティウスが譲歩するならパトリキをプレブス民会に介入させない事を約束したが、彼らはそれを無視した。カミッルスは激怒したが、一説に拠れば独裁官選出時の鳥卜に瑕疵があったため辞任している。後任独裁官の選出までにプレブス民会が開かれ、この法案のうち利息と土地に関するものを承認したが、執政官に関するものは拒否した。しかしながら両護民官は、プレブスの利益を守った護民官に栄誉を与えない事を非難し、全ての法案を成立させるべきと強く求め、もしこれが実現しない場合には翌年の選挙には出馬せず、彼らが進めてきた法案の一括成立をプレブスが望む場合にのみ出馬するとした。それを聞いていた十人委員会の一人であったアッピウスの子孫アッピウスは激しく反論したが、結局投票を延期させただけだった。両者はパトリキ二人で構成されていたシビュラの書の守護神官職(ドゥウムウィリ・サクリス・ファキウンディス)を廃止し、同じ役職を10人の神官(デケムウィリ・サクリス・ファキウンディス)に増員する法案を成立させた (後に15人になる)。このうち5人はパトリキ、5人はプレブスで構成されることとされた。この法案も成立し、5人のパトリキ神官と5人のプレブス神官が選ばれた。リウィウスによれば、「勝利に満足し、プレブスはパトリキに道をゆずり、執政官に関する議論は終わり、執政武官が選出された」。 年は明け紀元前367年、ガリア人が北イタリアに侵攻してきたため、カミッルスが再び独裁官に選ばれた。リウィウスによれば、カミッルスがガリア人に勝利してローマに戻ると、ローマは激しい対立に直面していた。絶望的な争いの後、元老院とカミッルスは敗北し、護民官が提唱された処置が採択された。執政官選挙が行われ、セクスティウスが紀元前366年の執政官の一人に選出された。パトリキで構成される元老院は、選挙結果を認めないと宣言した。パトリキとプレブスの論争は第二の聖山事件のようであった。カミッルスは妥協を訴えた。即ち、パトリキ側はセクスティウスの執政官就任を認め、プレブス側は首都法務官(プラエトル)をパトリキから選出することを認めるよう。やっと両者の歩み寄りがあったことを記念して盛大な競技会が開催される事が決定した。通常3日の開催期間が延長される事となったが平民アエディリスが反対したため、パトリキたちが負担する事となり、皆が感謝した。そして独裁官は二人のアエディリス・クルリス(上級按察官)の設立を提案し、パトリキはこの年の民会の決定を承認する事が元老院で決議された。
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