龍華院の創建と歴史とは? わかりやすく解説

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龍華院の創建と歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/06 15:22 UTC 版)

龍華院 (甲府市)」の記事における「龍華院の創建と歴史」の解説

寺伝拠れば、もとは笛吹市一宮町金沢所在する広厳院末寺で、前身寺院笛吹市境川地区所在した伝空海開創真言宗寺院である大祥寺であるという。『甲斐国志』に拠れば鎌倉時代に威韓が現在地移転し再興させるが後に衰退し戦国期祥雲道慶が広厳院開山岫宗竜(うんちゅうそうりゅう)の法嗣節宗昌を招いて中興させ曹洞宗改宗される。この時に寺号も「龍華院」に改めたという。なお、門下には二世・輝山宗珠のほか大虚自円や真翁宗見(しんのうしゅうけん)がおり、同時期に当寺のほかにも中央市下三條の歓盛院や甲斐市竜王慈照寺などの曹洞宗寺院創建されている。 二世住職・輝山宗珠(きざんしょうじゅ)は三河国宝飯郡愛知県豊橋市)の人で、俗姓藤原氏龍華院節宗昌(明応5年1496年)没)に師事しその後継者として二世住職となる。輝山宗珠は享禄元年1528年)に没。 四世住職大用宗存(だいようそうぞん)は大和国高市郡出身で、竜華院住職のほか末寺で、武田家臣・三枝氏菩提寺である三星院(中央市木原開山となる。なお、甲斐守護武田信昌子息に帰軒宗存(きうんけんそうぞん)がおり、大用とは別人であることが指摘される。 五世住職・角かくうんげんりん)は河内領の国衆穴山信友の弟で、駿河国先照寺静岡県富士宮市)の開山。角永禄8年1565年)に武田信玄信濃国竜雲寺長野県佐久市)の住職北高全祝ほっこうぜんしゅく)を招いた際に、永昌院(山梨市)住職の謙室大奕(けんしつだいえき)とともに北高全祝招聘尽力した。角元亀元年1570年)に示寂する。 中世には中道往還軍道として使われているが、『国志』に拠れば天正10年1582年3月天正壬午の乱に際しては、中道往還から甲斐へ侵攻した徳川家康宿所にしたといわれ、同年3月3日には家康から乱暴狼藉禁じ禁制出され同年12月5日家康判物では寺領安堵されている(龍華院文書)。 『国志』に拠れば近世には慶長8年1603年)に徳川氏より寺領寄進され寛永19年1642年)にも将軍家光から寺領寄進され朱印地となったという。 寺宝として伝小野道風筆の般若心経(『国志』では吉備真備筆としている)が伝わるほか、穴山信君叔父にあたる五世角玄麟生母(『国志』に拠る)あるいは信君室のもの(『寺記』に拠るとされる竜華院殿喜栄椿大姉」の位牌伝わっている。 江戸時代享保年間には甲府藩主・柳沢吉里により、中院通躬なかのいん みちみ)ら京都公家8名が甲斐名所和歌詠み、これを甲斐八景とした。甲斐八景には「龍華水月」と題した武者小路実陰の歌「名にしおはゝ峰なる秋の月やしるその暁の花のひかりも」がある。宝暦2年1752年成立の『裏見寒話』では、「竜華秋月」が詠んだ所を竜華院比定している。

※この「龍華院の創建と歴史」の解説は、「龍華院 (甲府市)」の解説の一部です。
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