麻薬戦争と反ノリエガ運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 21:54 UTC 版)
「パナマ侵攻」の記事における「麻薬戦争と反ノリエガ運動」の解説
ところが1986年に税関主導によって行われた「Cチェイス作戦」(Operation C-Chase)により(映画「潜入者」でも描かれた)、ノリエガがアメリカへの麻薬の輸出ならびにマネーロンダリングに関与しているという疑いが浮上してきた。さらに1987年6月には1981年のオマル・トリホス暗殺にノリエガが関与したという疑惑が持ち上がり、反ノリエガ派がノリエガ排除に動き出すという事態となった。 1988年2月にはエリック・アルトロ・デルバイエ(英語版)パナマ大統領はアメリカの支援を受けてノリエガ解任を発表したが、かえってノリエガ派の国会議員によって解任され、マヌエル・ソリス教育相が大統領代行となった。これを受けて3月にはクーデター未遂事件が発生している。また3月にはマイアミの裁判所がノリエガを起訴し、ロナルド・レーガン大統領は「パナマに民主主義が建設されるまでは制裁を続ける」とし、パナマの在米資産凍結とパナマ運河使用料支払い停止を発表した。 パナマはこれに対抗して全ての在パナマ外国資産凍結を発表したが、これにより脆弱なパナマの経済システムは大混乱に陥り、産業稼働率が40パーセントに落ち込んだ。アメリカは裏面でノリエガの引退によって、訴追を免除するという司法取引を持ちかけたが、ノリエガは受けなかった。またCIAの工作も行われたがノリエガの権力は影響を受けなかった。このためレーガン政権末期の段階で「エラボレート・メイズ」作戦など、パナマ侵攻作戦が策定されている。 1989年1月に第41代アメリカ合衆国大統領に就任したジョージ・H・W・ブッシュは、麻薬撲滅の為に「麻薬戦争」と呼ばれる麻薬撲滅政策を掲げた。ノリエガは1989年5月に行われた大統領選挙に自派のカルロス・ドゥケ(英語版)を出馬させたが、当選したのは反ノリエガ派のギジェルモ・エンダラ(英語版)であった。 しかしノリエガは、アメリカ合衆国の干渉があったとして軍を挙げて選挙の無効を宣言し、フランシスコ・ロドリゲス(英語版)会計院長を大統領とし、権力の保持を図った。この動きを受けて、5月には暴動が発生しただけでなく、9月30日には再びクーデター未遂事件が発生した。12月15日、ノリエガは議会によって「最高の政治指導者」としての地位を承認させ、独裁体制の継続を誇示した。またこの間、ノリエガ派の「尊厳大隊」による反対派への暴行が横行していた。 ブッシュは5月の大統領選挙直後から、特殊部隊のパナマ派遣を極秘裏に承認した。12月16日頃からアメリカ軍人に対する殺害や暴行事件が発生しているという報告が伝えられるようになった。リチャード・ブラウン国防次官の報告によると米軍施設への武装侵入が数十回、そのうちの一件で2人のアメリカ軍兵士が殺害されたとしている。 12月20日深夜0時45分にブッシュはパナマ在住アメリカ人の保護・パナマ運河条約の保全・ノリエガの拘束を主目的とする「大義名分作戦」(Operation Just Cause)の発動を命令した。15分前にはエンダラを大統領として宣誓させている。ブッシュはこの侵攻を、ノリエガの煽動に対するアメリカの自衛権発動であると主張している。
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