鹿児島市への編入以降
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1950年(昭和25年)10月1日には東桜島村が鹿児島郡伊敷村とともに鹿児島市に編入された。同年10月18日に鹿児島県公報に掲載された鹿児島県の告示である「 鹿兒島市の一部大字の變更」により、東桜島村が鹿児島市に編入された10月1日に大字黒神及び大字瀬戸の区域を以て新たに鹿児島市の町「黒神町」が設置された。 この頃の黒神と他の集落とを結ぶ交通手段として仕立船と呼ばれる不定期航路があった。市町村合併までは東桜島村、市町村合併後は鹿児島市が運営を行っており、貨客の輸送を行っていた。1957年(昭和32年)に自衛隊によって桜島一周道路が建設されると、1962年(昭和37年)には西桜島村営バスが黒神まで運行されるようになった。1963年(昭和38年)には鹿児島市交通局が運営する鹿児島港・黒神間の黒神航路に新造船「ひまわり」が就航し、1時間20分で結んだ。しかし、道路の開通によるバスや自家用車の利用が進んだことにより鹿児島市は黒神航路の廃止を検討した。「ひまわり」の航路権が鹿児島県内において交通事業を行っている岩崎産業の手に渡るのを憂れた西桜島村(のちの桜島町、現・鹿児島市)は、1968年(昭和43年)に旅客定期航路事業として黒神航路を鹿児島市から移管した。移管後は桜島町によって運航されていた黒神航路であったが、移管から8年後となる1976年(昭和51年)3月26日をもって黒神航路のうち浦之前・新島間(現在の行政連絡船「しんじま丸」の区間)を除いて全区間の運航が終了した。これによって黒神町の港から定期航路が無くなり、塩屋ケ元港など航路の寄港地は寂れた。 黒神町には桜島の噴火による被害対策として1976年(昭和51年)までに退避舎2か所、退避壕2か所、避難道路1箇所が整備された。
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鹿児島市への編入以降
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ウィキソースに鹿児島郡伊敷村大字永吉及び大字下伊敷の一部を鹿児島市に編入する件の鹿児島県告示があります。 1920年(大正9年)10月1日に鹿児島郡伊敷村大字下伊敷の紙屋谷地区にあたる小字紙屋谷、帆掛田、前田、玉里、後ノ田が鹿児島市に編入された。ただし、町としての設置は編入から5年後となる1925年(大正14年)8月に行われ、大字下伊敷の小字紙屋谷、帆掛田、前田、玉里、後ノ田(紙屋谷地区)の区域を以て新たに鹿児島市の町「玉里町」として設置された。 1951年(昭和26年)には玉里邸を鹿児島市が買収し、鹿児島市立鹿児島女子高等学校の用地となり、1959年(昭和34年)4月には天保山町にあった校舎から玉里町の新校舎に移転した。 1976年(昭和51年)7月5日に城山・草牟田地区において住居表示が実施されることとなった。草牟田町及び玉里町の各一部より草牟田二丁目が設置され、玉里町及び草牟田町、長田町、冷水町の各一部より城山一丁目が設置された。 1978年(昭和53年)6月19日には、玉里団地地区(玉里団地・若葉台団地)において住居表示を実施することとなり町域の再編が行われた。玉里町及び下伊敷町の各一部より玉里団地一丁目が設置された。1983年(昭和58年)1月31日には冷水・玉里地区で住居表示が実施されることとなり、玉里町の全域で住居表示が実施された。
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