鮫島の死と解雇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/24 15:03 UTC 版)
「フレデリック・マーシャル」の記事における「鮫島の死と解雇」の解説
1880年(明治13年)、駐仏公使鮫島尚信が死去すると、マーシャルは南イングランドのブライトンに移住するが、翌1881年(明治14年)にはパリ日本公使館顧問格(Conseiller Hononaire)に就任。寺島に代わって外務卿(のち外務大臣)に就任した井上馨も条約改正には熱心であり、マーシャルの情報活動も継続された。1883年(明治16年)にフランス軍が安南(ベトナム)ハノイを占領する安南事件が発生すると、マーシャルは井上の内訓を受けて、安南に対する清国の宗主権問題についてフランス外務省と連携する用意があると打診。ここでフランスに恩を売ることで条約改正へ有利にする思惑であった。はじめ乗り気でなかったフランスもマーシャルの交渉に応じ、北平(北京)に駐在中のフランス公使フレドリック・ブーレーと日本公使榎本武揚との会談につながった。 井上外務卿は新通商条約の締結により、治外法権を除外して関税自主権の回復のみを狙う方針をとったが、依然パークスの反対により難航していた。マーシャルは当時憲法作成の調査のために滞欧中であった伊藤博文や、英国公使森有礼、駐仏公使蜂須賀茂韶らと連携しつつ、フランス外務省政務局長・商務局長に英国の方針に反対するよう働きかけた。6月20日にフランス外務省から日本案の受諾連絡を受けると、マーシャルはブリュッセルに赴き、対ベルギー交渉を開始。ベルギー外務次官ランベルモン男爵との会談内容を「ベルギー覚書(Belgian Nore)」として伊藤に詳細に報告した。これによりドイツも新条約に興味を示したが、結局これも失敗に終わる。しかしマーシャルの功績を重く見た蜂須賀公使は、日本政府に対しマーシャルへ褒賞金を賜与することを要請。マーシャルは賞与金10,000フランを下賜された。しかしその後、公使館の頭越しに井上・伊藤と連絡を取るマーシャルに対し蜂須賀が不快の念を抱き、両者は次第に疎遠となった。1885年(明治18年)パリ日本公使館に赴任した書記官原敬は、伊藤の内命を受けて、マーシャルと蜂須賀の和解を図っている。翌1886年(明治19年)6月には帰国する蜂須賀主催の晩餐会にマーシャル夫妻が招待され、関係の修復が伺える。マーシャルは、蜂須賀離任に伴って臨時代理公使となった原とも親交を続け、外交のノウハウを伝授した。1888年(明治21年)6月30日に日本政府は在外公館経費節約のため、マーシャルを解雇したが、一時金として月給3月分(6,000フラン)を下賜するとともに、多年の功労に報いるため、以後年額1,500円の終身年金(恩給)を与えることとなった。同時に勲三等旭日章を授与。1905年(明治38年)に没した。
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