鮫島との出会いと日本公使館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/24 15:03 UTC 版)
「フレデリック・マーシャル」の記事における「鮫島との出会いと日本公使館」の解説
連載中の1871年、日本の在フランス公使としてパリに赴任した鮫島尚信に雇用され、日本の情報発信業務に従事する。当時、ヨーロッパ各国視察と不平等条約改正のための岩倉使節団がアメリカ合衆国での旅程を終え、ヨーロッパへ到着する直前であり、鮫島は日本の現状の制度や文化について一般市民に伝える必要を感じ、マーシャルにその発信を依頼したのである。雇用契約は半日勤務で月額50ポンド(≒250円≒1250フラン相当)、翌1872年秋からは全日勤務で月額80ポンド(≒400円≒2000フラン相当)だったという。さっそく同誌で日本に関する連載が始められたが、全般的にアジアに関心が薄かったヨーロッパ市民にはほとんど無視され、逆に英国の廉価月刊誌『マクミランズ・マガジン』にはマーシャル論文の情報源は信用できず、条約改正は時期尚早であるとの批判まで書かれる結果となった。 岩倉使節団の帰国後はブラックウッズ・マガジン誌に「国際的虚栄」(International Vanities)を連載。日本のように新たに欧米の外交クラブに参入した国の立場から見て、いかに西欧の外交慣習や儀礼・マナーというものが複雑で無駄の多いものかを力説するなど、ヨーロッパ文化を相対化・客観視する目を持っていた。明治日本政府は関税自主権の喪失や領事裁判権・片務的最恵国待遇という不利な点を持つ不平等条約の改正を国是としており、そのためにマーシャルの人脈と広報力に期待を寄せた。
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