騎手交替
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:49 UTC 版)
4歳となった翌1993年初戦には、東京優駿(日本ダービー)を見越して同場開催の共同通信杯4歳ステークスに出走。単勝オッズは再び1.3倍の本命となったが、先行したマイネルリマークを捉えきれず、前走に続いてハナ差で敗れた。調整途上での惜敗でもあったため浜田はこの敗戦を大きく捉えることはなかったが、馬主の中島は不満を抱き、騎手の交替を要求。浜田は中島と3度話し合いを行い、岸の責任ではないと留保を求めたが、中島の騎手交代に対する意志が堅いと感じると、栗東の厩舎の応接間で岸を呼び、自ら今回の事情と中島の意向を伝えた。このような形で納得を得たところで、岸はビワハヤヒデの主戦騎手から降板することになった。岸は共同通信杯の敗戦と降板について、「完全に油断負けです。相手をナメてはいけないということを、ビワハヤヒデから教わりました。クラシックでの乗り方などもいろいろ考えていたのですが、(このレースで)負けたのだから、降ろされることは覚悟していました」と述懐している。 浜田は新たな騎手として「天才」と称されていた武豊を推薦したものの、中島は「武君もキャリアが浅いから危ない」とこの提案を退け、「ベテランの騎手」を要望した。そんな中で、中島が「世界の競馬に進出しているし、東京・中山共にコースを熟知している」ということで、関東のトップジョッキーである岡部幸雄を新たな鞍上に希望した。しかし、この時浜田・中島ともに岡部との面識が無く、最初の交渉では代理人を介して騎乗を依頼したものの、岡部側から面識がないことを理由に断られたため以降の依頼は難航した。この事実が明るみに出た際には関西のマスコミやファンの間から「なにも関東の騎手にそこまでして頼まなくてもいいのではないか」という不満の声も上がった。しかし中島が粘り強く直接依頼を続けた結果、岡部は「三顧の礼」に応える形でビワハヤヒデへの騎乗を承諾した。しかしながら、当時の岡部はビワハヤヒデに対して「早熟のマイラーではないか」という印象を抱いており、またクラシック戦線においては朝日杯5着のニホンピロスコアーに期待を寄せていたことから、この時点での騎乗は「一度乗って感触を確認する」というものに過ぎなかった。 岡部との初コンビとなった若葉ステークス(皐月賞トライアル)は8頭立ての少頭数での競馬となり、ビワハヤヒデは鞍上強化が乗じて単勝オッズ1.3倍の1番人気に支持された。道中は3番手に位置し、4コーナー手前でレースを引っ張ったケントニーオーに並びかけ、直線に入って先頭に立つと、岡部が鞭を振るうことなく2着に2馬身差をつけ楽勝。レース後に岡部は後続馬を寄せ付けなかった結果について、「もう少し厳しいレースをさせたかったんだが…」とコメントしたが、この後岡部の他の有力騎乗馬が相次いで故障したため、コンビを継続することが決定した。
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