香道の流派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 20:33 UTC 版)
御家流と志野流が二大流派である。 御家流(おいえりゅう) 三条西実隆を流祖とし、室町時代以来大臣家である三条西家によって継承されたが、のちに亜流は地下(武士・町人)にも流れる。第二次世界大戦後、一般市民(民間)の香道家・一色梨郷や山本霞月などにより、堂上御家流香道を継承していた三条西尭山が正式に近代御家流宗家として推戴され、三条西家の当主が御家流家元を継承している。なお、御家流の香人は自身の流派を「当流」と称する。現宗家は三条西尭水。 なお、一般には御家流とは各芸道ごとに、特定の流派を指す言葉である。 志野流(しのりゅう) 東山文化のリーダーであった室町幕府第八代将軍足利義政の近臣だった志野宗信(1443-1523年)を流祖とし、3代省巴( -1571年)が隠棲する際、流儀の一切を高弟であった4代宗悟(-1584年)に譲り、初代宗信からの志野流の精神を一度も途切れることなく現家元の幽光斎宗玄まで継承してきている。葵祭前儀である上賀茂神社での献香祭も担う。途中、幕末の戦乱に巻き込まれ、特に禁門の変では家屋を消失してしまい家元存続の危機があったが、尾張徳川家を中心に、尾張地方の名士たちがパトロンとなり流儀は守られる。現在、志野流家元は、愛知県尾張(名古屋城近く)に居を構えている。なお、志野流における「入門」は、その伝統・道程を守るため一子相伝の制度をとっており、家元とともに志野流香道の精神と伝統を生涯にわたり守り続けることを誓約した者(古くは血判の誓約書を家元に提出)のみが許される。したがって、志野流香道で学んだ伝統、秘伝、および作法等に関する知識、技能は他言してはならず、志野流香道で学んだ知識などをもとに、自ら流派、組織を立ち上げることは当然許されていない。正規の国内教場は約200か所、海外教場は10か所と近年さらに拡大している。入門者は約2,000人。 米川流(よねかわりゅう) 東福門院に指南したことで知られる米川常伯を祖と仰ぐ、志野流が正式に認めた分流。大名家に広く支持されたが明治維新後の廃藩により絶えている。
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