餓えの果ての人肉食
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:22 UTC 版)
食料を没収された農民達はジャガイモで飢えをしのぎ、鳥や犬や猫、ドングリやイラクサまで食べた。遂に人々は病死した馬や人間の死体を掘り起こして食べるに至り、その結果多数の人間が病死している。赤ん坊を食べた事例さえもあった。通りには死体が転がり、ところどころ山積みされ、死臭が漂っていた。取り締まりや死体処理作業のため都市から人が送り込まれたものの、逃げ帰る者も多かった。子供を持つ親は誘拐を恐れて子供達を戸外へ出さなくなった。形ばかりの診療にあたった医師達には、「飢え」という言葉を使う事が禁じられ、診断書には婉曲的な表現が用いられた。困り果てた農民達が村やソビエトに陳情に行っても「隠しているパンでも食べていろ」と言われるだけだった[要出典]。 ウクライナでは家族同士で殺害してその人肉をたべることが頻発した。これはOGPUでも記録されており、親が子供を殺してその肉を食べたあと、その後やはり餓死したり、別のケースでは母親が息子を殺して、娘と二人でその肉を食べ、別の家では、息子の嫁を殺して、その肉を食べたりし、さらには人肉を取引する闇市場も登場したとも伝わる。当時の飢饉を体験した生存者が2007年にBBCのインタビューに答えたところによれば、一家全滅したため葬式もなかった家族がいたり、近所の家族が次々となくなっていくなか、樹皮や木の根なども食べて飢えをしのいで生活していたが、ある日、母親から「(子供たちが使っていた)近道にある家の老人が孫を殺して食べた後、その老人が息子に殺された。それから、司祭の家の隣人も子供たちを殺して食べた」と聞かされたという。 ウクライナでは1932年から1933年にかけて2505人が、人肉食(カニバリズム)により有罪となった。人肉食を犯した者は銃殺もされたが、強制収容所へ収容されることもあり、325人の人肉食い犯(男75人、女250人)が白海・バルト海運河収容所で強制労働に従事した。
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