餓死殉教の行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 03:51 UTC 版)
1936年6月、江川らは会館に常駐する警官を排除し、「餓死殉教の行」と称する籠城生活に突入した。会館に籠って唱題をしたり書写をしたり、党の主張をまとめて製本したりしながら日々を過ごす。食事はわずかな塩や飴玉であった。外部の者が会館に入って来ようものなら、それが警官のみならず親族であろうとも、即座に集団自殺をする運びとなっており、その順番と手順も決めていた。あまつさえ彼らは、不首尾に終わった場合に備え、8,000人分の致死量の青酸カリまで用意していた。しかし2ヶ月余りのち、江川の兄(彼らの遺体を引き取る予定であった)が死去したことにより、「餓死殉教の行」は中断した。
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