飯塚伊賀七(いいづかいがしち 1762-1836)
飯塚伊賀七は、常陸国筑波郡谷田部新町村(現つくば市)の農家の生まれ、名主をつとめた。
伊賀七は、発明心に富んだ人で、建築や機械類の研究に没頭し「からくり伊賀七」と呼ばれた。建築物では、正五角形の建物や隠れ部屋など特徴的な建造物を残した。
からくりや建築ということでは、隠れ部屋のほかにも、時報を打つ時計堂、時計と連動した門扉、エレキテル、自転車、懐中時計を作成したほか、飛行機の作成も計画したと伝えられる。地図・測量との関連では、「拾間輪」と呼ばれる一輪車の回転数で距離を測る測量器械を作成した。全長176cm、車の直径は29cm、1回転が1間(90cm)となり、20回転(10間)で鐘が鳴る仕組みである。さらに、谷田部藩からの依頼を受けて手がけたと思われる地図(「分間谷田部絵図」など)がいくらか残されている。
これらの業績に関わる機械・建築・和算・地理学・暦学などの知識を、伊賀七はどのようにして修得したのかは明らかとなっていないが、関流の数学者や谷田部藩医との交流によったのではないかと推測されている。
もらいもので、名前は知らない
飯塚伊賀七
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飯塚 伊賀七(いいづか いがしち、宝暦12年3月29日〔グレゴリオ暦 1762年4月23日〕 - 天保7年11月17日〔グレゴリオ暦 1836年12月24日〕)は、江戸時代後期の発明家。谷田部藩領の常陸国筑波郡新町村(現:茨城県つくば市谷田部)に生まれ、生涯を谷田部で過ごした。「谷田部にすぎたるもの3つあり、不動並木に広瀬周度、飯塚伊賀七」と呼ばれ、谷田部の象徴的な存在だった[2]。
注釈
- ^ 原文では数え年になっているが、本稿ではすべて満年齢で統一する。
- ^ これは伊賀七の発明品に記載された年代が40歳代後半以降の物が多いからである[19]。
- ^ ただし、記録に残る「飯塚伊賀七」とは71歳の伊賀七本人ではなく、飯塚家の17代・丁卯司が伊賀七の名を襲名したとも考えられる[21]。
- ^ ただし、二宮尊徳が谷田部に来たことはなく、藩の重役が下野国桜町(現在の栃木県真岡市物井)へ赴いて指導を受けたという説もある[26]。
- ^ 言い換えれば、伊賀七の発明したそろばん1面で、通常のそろばん9面分に相当することになる[30]。なお、「面」はそろばんを数える単位である。
- ^ 買い手は母屋を解体して移転・復元するつもりであったが、都合により復元されることはなかった[49]。
- ^ これは耐震のための構造だったと考えられる[50]。
出典
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- ^ つくばサイエンス・インフォメーションセンター"つくば市|飯塚伊賀七生誕250周年記念展開催中"<ウェブ魚拓>つくば市、平成24年6月19日(2012年8月6日閲覧。)
- ^ 安味伸一"企画展 発明家・飯塚伊賀七展 つくばで来月12日まで"毎日新聞2012年9月19日茨城南27ページ
- ^ a b c 小島(1997):8ページ
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