飛行の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 00:13 UTC 版)
「オクターヴ・シャヌート」の記事における「飛行の研究」の解説
シャヌートが最初に航空機に興味を抱いたのは、1875年にヨーロッパを訪問したときだった。その後 アルフォンス・ペノーやオットー・リリエンタールに触発されて、建築技師の仕事を退いてから自らも飛行の研究を始めたのは60代になってからのことだった。当時(1880年代末)、ペノーは故人だったがリリエンタールは生きていて活動中であり、シャヌートと手紙のやりとりをしている。 飛行機開発におけるシャヌートの指向は「空中での安定性向上を優先すること」であり、そのためにグライダーで実地に滑空を繰り返した(もちろん高齢であるシャヌート自身がグライダーに搭乗したという記録は見当たらない)。これはリリエンタールの流れを汲む路線であり、サミュエル・ラングレーやクレマン・アデールの「動力による離陸を第一とする」路線とは対立するものであった。 シャヌートは当時の世界の飛行機実験家から可能なデータをすべて収集した。1891年から1893年にかけて雑誌にこれを連載したのち、1894年にはこの内容をまとめた書籍『飛行機械の進歩』"Progress in Flying Machines"を発表した。この本は世界で初めて航空研究についてまとめられた書籍であり、数年後、ライト兄弟にも読まれた。 また、1893年のシカゴ万国博覧会では、航空機の航法に関する国際会議を主催して成功させた。 グライダーの実験は1896年、シカゴに近い、ミシガン湖畔の砂丘で始められた。オーガスタス・ヘリングやウィリアム・アヴェリー(William Avery )ら、より若い飛行機研究者との共同作業で、実際に搭乗したのはヘリングとアベリーであった。シャヌートのグライダーと言えば長方形の翼をした複葉機・三葉機(これらはシャヌート=ヘリング型と呼ばれる)が有名だが、初期に使われた機体は単葉機や多翼機であった。これらはいずれもリリエンタールのものにヒントを得て作られたハンググライダーであり、建築技師としての経験が活かされた堅牢な構造をしていた。このグライダー実験の経験から、シャヌートは重量の増加を伴わずに揚力を増やすには、複数の翼を積み重ねることだと確信した。 彼のグライダーは約2,000回の滑空を安全に行なった。シャヌートはこれらの業績によりアメリカの航空(グライダー)界で指導者的な地位についた。 シャヌートは多くの初期の飛行機研究家と文通があった。その相手には、ガブリエル・ヴォアザン、ジョン・J・モンゴメリ、ルイ・ブレリオ、アルベルト・サントス・デュモンらがいる。1897年にはイギリスのパーシー・ピルチャーと文通を開始し、ピルチャーは後にシャヌートのアイディアを元に三葉機を製作するが、飛行試験を行なう前にグライダー事故で死亡した。
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