随念寺下常福院時代(1912-1923)
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「岡崎市立中央図書館」の記事における「随念寺下常福院時代(1912-1923)」の解説
国民教育の普及完全をはからんとせば、学校教育のみに依頼して、之を望むべからず。更に他の社会的教育設備の補充あるを要す。而して、図書館の如きは、その中に於ける最も肝要にして、欠くべからざるものなり。本町にありては、すでに十年以来、之が設立を希望して止まざりしが、今や機熟し、ついにここに町立としてその開設を見るに至れり、けだし、本町の教育事業に於ける一進歩というべし。(後略) — 開館記念式典における千賀又市岡崎町長の式辞 三河地方の岡崎は徳川家康の生誕地であり、江戸時代には岡崎城の城下町や東海道の宿場町として発展した歴史を持つ。1899年(明治32年)には図書館令が公布され、全国的に図書館が増加していった。1912年(明治45年)3月の岡崎町町会で公立図書館の開設が議決され、6月29日に図書館設置の許可が下りると、7月21日には門前町にある随念寺の法殿にて岡崎町立通俗図書館の開館式が行われ、8月5日に開館した。8月1日に閲覧室の開放を開始するはずだったが、前々日の7月30日に明治天皇の死去が公表されたことで、8月1日から4日までは休館扱いとしていた。福岡・柳川出身で岡崎町立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)校長を務めていた千蔵尚が初代館長を務めた。校長と館長を兼任していた千蔵に代わって、実質的な運営を担ったのは初代書記の八木開枝である。八木は大樹寺小学校(現・岡崎市立大樹寺小学校)で訓導兼校長を務めていた。 随念寺の階段を下りた場所にある常福院を仮館舎とし、約50坪ほどの常福院の建物の中で、仏間・庫裏の一部を除いた部分が図書館にあてがわれた。かつて額田郡第一番小学岡崎学校(現・岡崎市立梅園小学校)や岡崎町立高等女学校が設置されるなど、随念寺は岡崎町の文教の中心だった。図書館の定義にもよるが、愛知県内では1897年(明治30年)の津島高等小学校図書館(現・津島市立図書館)、または1907年(明治40年)の岩瀬文庫(西尾町・私立)と私立半田図書館(半田町)の開館がもっとも早く、後者を採用した場合に岡崎町立通俗図書館は愛知県9番目の図書館だった。 開館時の蔵書数は2,060部・6,232冊であり、その大部分は小柳津要人や千賀千太郎などの個人や、岡崎町教育会からの寄贈によるものである。1912年度の開館日数は219日であり、経常費は436円だった。閲覧人数は1,509人であり、1日平均6人程度だった。1915年(大正4年)時点では3,857部9,612冊の蔵書を有しており、1921年(大正10年)時点では14,933冊の蔵書を有していた。 1916年(大正5年)7月1日には、岡崎町が愛知県3番目・全国67番目に市制施行して岡崎市となった。これにより岡崎町立通俗図書館は岡崎市立図書館に改称している。1919年(大正8年)には館長の千蔵が静岡県郡立志太高等女学校(現・静岡県立藤枝西高校)に転任したため、岡崎を代表する文化人だった岡田撫琴は愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高校)教諭を務めた柴田顕正を館長に推薦し、1919年(大正8年)には柴田が第2代館長(市立図書館としては初代館長)に就任した。
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