阿蘇における伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 09:15 UTC 版)
以下に『阿蘇郡誌』を基本とした伝承を示す。 健磐龍命は神武天皇即位前14年に神八井耳命の第5子として誕生した。 神武天皇76年に神武天皇(初代天皇)は孫である健磐龍命に西海鎮撫の命を下し、火の国に封じた。健磐龍命はこの年の2月に山城国宇治の郷から阿蘇に下向した。この途中、宮崎において神武天皇の宮跡にその神霊を祀ったのが宮崎神宮の創祀とされる。そこから延岡にうつり、そこから五ヶ瀬川をさかのぼり御嶽山の麓(御岳村)にしばらく留まり、成君・逆椿・村雨坂などを回った。そして御岳から馬見原に入り、幣立宮を建てて天つ神・国つ神を祭った。そこから草壁にうつり、阿蘇都姫(前述)をめとり阿蘇都彦と号した。そこから阿蘇にうつった。 当時、阿蘇カルデラの内部の阿蘇谷・南郷谷は湖(「介鳥湖」と呼ばれた)であった。健磐龍命は田を造るために湖水を排水しようとした。 そのときに子が生まれたので、その地は産山という。あるいは、生まれたのは健磐龍命の嫡孫で、命を山にたとえて「山が生まれた地」という意味の命名であるともいう。あるいは、生まれたのは阿蘇大神自身であるともいう。 そこから移動した健磐龍命は、排水のために外輪山を蹴破ろうとしたが、峠が二重になっているために破れなかった(二重峠)。2度目は山に隙間があったために成功し、湖水は西の方に流れ出た。「すきまがある」を約して「すがる」とし、以後この場所は「スガルが滝」と呼ばれるようになった。今「数鹿流ヶ滝」と書くのは、数匹の鹿が流されたためである。また、健磐龍命が蹴破った時に尻餅をついて「立てぬ」と言ったことから「立野」の地名ができた。 熊本市の小山と戸島は蹴破られた山の破片であり、菊陽町の津久礼(つくれ)は「つちくれ」の約で土塊が落ちたところであり、合志(こうし)という地名は小石に由来するという。また、大津町の引水(ひきみず)も関係地名である。 なお、健磐龍命は水が引く途中に流れをせきとめていた大鯰を退治したとする伝承も存在する。 なお、阿蘇カルデラ内がかつて湖であって、立野付近の決壊により消滅したというのは地学的事実であり、決壊年代は7万3千年以前と推定される。なお、カルデラの北側では弥生時代の櫂が出土しており、ごく最近まで一部は水域が残っていた。 こののち健磐龍命は自ら矢を射て、それが落ちたところに宮を定めた。これは現在の矢村社の地である。そうして定めた宮の地が、今の宮地の地名の由来である。この宮の近くには、「今村」「西村」「西町」といった集落が形成されたという。そののちに健磐龍命は残賊を平定した。 健磐龍命は阿蘇一帯を統治して、神武天皇93年丙午8月15日に107歳で薨じた。阿蘇市の阿蘇神社の楼門前には神陵があり、2個の小丘の北が健磐龍命、南が阿蘇都比咩神の陵であるという。
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