開庫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/20 06:42 UTC 版)
江戸時代初めに外宮祠官家に生まれた度会(出口)延佳はそうした状況を嘆き、「大神宮の御為、神書・古記・和漢の書籍をあつめ、万代に遺し、且は所の人にも学問をすすめんため」の施設の創建に思い至る。延佳は30代を迎える正保ごろ(1640年代)から散逸した文献を蒐集し、それを書写しつつ校合も施すといった自身のできる範囲内での厳密な神宮文献の復元に努めており、新文庫の創設はそうした姿勢の延長であろうが、と同時に、前代の文殿・神庫等がいずれも広く公開されたものではなかったことへの不満と神宮祠官の学問不振の原因を書籍の不足に求めていたこともあったと思われる。なお、延佳の言によると新文庫創設に就き擲銭の卜をしたところ履の上九という「目出度(めでたたき)うら」が出た上、同時期に同様の方法で同じ卦(履の上九)が出た者がいたためにそこに神意を感じてこれを決意したという。 上記目的を掲げた延佳は同じく祠官であった与村弘正、岩出末清と同心して首唱者となり、太神宮祭主大中臣定長や大司大中臣精長、外宮官長檜垣常晨の協力の下、外宮祠官や山田三方の年寄、町年寄(これら年寄衆は多く外宮師職を兼ねていた)の賛同者を集め、自身を含む計70名から成る籍中という現今の財団に相当する組織を結成して設立資金を募り、慶安元年(1648年)6月に文庫の経営や書庫の看守、図書の購入・閲覧・謄写・整理曝凉等17条から成る令条を制定、同年11月に外宮宮域に隣接する豊宮崎の沼地を平らげて施設の建設に着手し、同年(但1649年)12月28日に竣工した。なお、文庫名は地名を採ったものといい、また神宮の宮中には土蔵を建てる例がなかったために宮外に営むこととし、亀石という亀の形をした自然石の上に書庫を建てたという。 この落成を祝って紀州藩儒官である永田善斎は「宮崎文庫記」という記文を寄せ(慶安2年5月)、幕府儒官の林羅山は春秋三伝を寄贈すると共に「伊勢文庫之記」を、その男鵞峰も同題の記文、読耕斎も文庫記をそれぞれ寄せており(いずれも慶安5年6月)、また、紀州藩儒官李梅渓が「文庫起源」を(承応2年(1653年)3月)、松江藩儒官の安部弘忠(石斎)が壁書を寄せている(慶安5年3月)。ちなみに首唱者である延佳と弘正、末清の3名は後光明天皇からその功績を嘉されて位階を賜ったが、この叙爵が外宮祠官層の反撥を喚んで訴訟を起こされている(詳しくは「承応の神訴」参照)。
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